愛と勇者
薄暗い部屋の中、一人の女がひざまずいていた。足下には一枚の紙が置かれ、女の手には短刀が握られていた。
「愛しい人。貴女にこの文を届けるのも、これで何度目でしょうか」
女の口から声が漏れる。声は低く、弱く、かすれていた。そしてその声は石造りの冷たい部屋を反響し、トーンを変えて再び女の耳に入り込んだ。
女は顔を下げ、虚ろな目を紙に向けた。その汚れ一つ無い白紙の紙を見下ろしながら、青ざめた唇を喜悦に歪めた。
「ああ、愛しい人。今、私が気持ちを伝えますからね」
女が恍惚の表情を浮かべる。そして短刀を両手で持ち、逆手に構えて頭の上に持ち上げる。
「待っていてください。このメナス、貴女に本当の愛を捧げに参ります。私の愛、受け取ってください」
呪文を唱え、短刀を振り下ろす。
刃が皮膚を裂き、心臓を貫く。
激痛が全身を襲う。唇の端から血と涎を垂らし、女が悦びに蕩けた表情を浮かべる。
「痛い! 痛い! 痛い痛い!」
女が叫び、短刀を引き抜く。
絶叫と共に傷口から血が噴き出し、周りを赤くを染めていく。
胸元から血の雨を降らせつつ、女が甘美な笑みを見せる。
「ああ! 愛! 愛が溢れ出す! 私の愛が世界を照らしていく!」
女が叫ぶ。自分でさえ何を言っているのかわからないまま、喜びに身を任せて吼え狂う。
やがて絶叫は笑いへと変わる。頭のタガが外れたように、大口を開けて狂ったように笑う。
冷たい部屋に笑声が響く。心臓から血が噴き出し続ける。足下の紙が赤く染まっていく。
「まきさぁん……おしたいしていますぅ……」
そうして何分と笑い続けた後、呂律の回らなくなった口で女が愛しい人の名を呼ぶ。手から短刀が滑り落ち、血に濡れた手で顔を覆う。
顔に血がべったりと張り付く。女は構いもせず、両手で頬を挟みながらうっとりした表情を浮かべる。
「わたしはなんでもいたします……あなたがよrこんでくれるなら、なんでもいたしますぅ……」
その顔は天井に向けられていたが、その目は天井を見てはいなかった。彼女が真に見ているのは、いつも一人だけ。
「まきさん、まきさん、わたしの愛をぉ……」
脳裏に映る愛しい人の姿を凝視しながら、女は血の海に沈んだ。
そして意識が闇の中に沈むまでの間、女はひたすら小坂真樹の名を呼び続けた。彼女の傍には、血で隅まで真っ赤に染められた紙があった。
「マキ宛てに手紙が来てるってさ」
小坂真樹がセシルスからその手紙を受け取ったのは、彼女が腕を食われた二日後の事だった。真樹は約束通りセスタの傍に居続け、そろそろお暇しようかと考え始めていた頃だった。
「私に手紙? 誰からですか?」
「差出人の名前は無いわ。誰から来たのかは、誰にもわからないわ」
真樹にあてがわれた部屋の中に入りながら、セシルスがその手紙を差し出す。真樹は椅子から立ち上がってセシルスの方に歩き出し、彼女から直接それを受け取る。
それは薄い、白い封筒だった。振ると僅かに音が鳴り、中に折り畳まれた紙が入っているのは明白だった。
「マキ、心当たり無い?」
「……」
セシルスが問いかける。真樹はその封筒を手に持ったまま硬直していた。セシルスは何も言わなくなった真樹に怪訝な視線を寄越し、真樹は神妙な面持ちで封筒を見つめていた。
「どうしたのよ? 何がまずい事でもあるの?」
「そうじゃないんです」
答える真樹の声は渋りきっていた。セシルスは小首を傾げ、一方で真樹が続ける。
「これがどこから来たのかはわかってるんです。手紙の中身もなんとなくわかります」
「中身までわかるの? どうして?」
「魔界で私に手紙を送ってくるのは一人だけですから」
そう言いながら、真樹が封筒を開ける。中には畳まれた紙が一枚だけあり、ところどころが赤く染まっていた。
それが外に出た瞬間、セシルスは顔をしかめた。真樹がそれに気づいて視線を向けると、魔王の娘は厳めしい顔のまま口を開いた。
「それ、血の臭いがする」
「え?」
「凄い血生臭い。なんなのそれ?」
鼻をつまみながらセシルスが声を漏らす。真樹はそれを聞いて、「ああ、やっぱり」と言わんばかりに落胆した表情を浮かべた。
「メナス様からの手紙です」
その顔のまま、真樹が口を開く。封筒から手紙を完全に取り出し、それを開く。
中身は真っ赤に染まっていた。鉄臭い何者かの血によって、隅々まで均等に赤く塗られていた。
「メナス? 水の魔王の?」
「そうです。これ、メナス様の血です」
真っ赤に染まった手紙を見ながら真樹が答える。セシルスはなおも顔を歪めたまま、真樹の隣に立って手紙を見つめる。
そしてそれを見たまま、セシルスが真樹に声をかける。
「どうしてこんな事を?」
「愛情表現だそうです」
「はあ?」
それを聞いたセシルスは、それまでとは違う理由で顔をしかめた。対する真樹は真顔で手紙を見ながら、セシルスに言葉を続けた。
「メナス様はそういう方なんです。どうしてそうなったのか、とかはわからないですけど、とにかくそういうお方なんです」
「考えるだけ無駄ってこと?」
「そうですね。私も何度か理由を尋ねてみたんですけど、自分でもわからないの一点張りで」
「意味がわからないわ」
セシルスが呆れ顔を浮かべる。真樹は困ったように笑いながら、再び血染めの紙に視線を降ろす。
「でも少なくとも、メナス様本人にもわかってる事があるらしいんです」
その時、唐突に真樹が口を開く。セシルスがそれに気づいてそちらを向き、そして横からの視線を感じながら真樹が続けて言い放つ。
「これはメナス様なりの愛情表なんだそうです」
「……どういう意味?」
「私のことが好きすぎて、どうにもならなくなって、いつも気がついたらこんな事をしているみたいなんです」
セシルスは絶句した。渋い顔のまま何も言わなかった。一方の真樹も、セシルスと同じように黙りこくっていた。
「それ病気よ」
やがてセシルスが口を開く。真樹はうんともすんとも言わず、黙って血染めの手紙を見つめていた。




