郷に従った勇者
「それで、これからどうするの?」
真樹が堕落しきったアドメレクの姿を見ていると、不意に横から声がかかってきた。彼女がそちらに目を向けると、そこには上目遣いで真樹の顔を見てくるセスタの姿があった。
「あなたがここに来たのって、私を鎮めるためなんでしょう?」
「そうですね。仕事が終わったので、もうここに残る理由も無いですね」
「じゃあここからは無礼講、プライベートな時間にしてもいいって事ね?」
セスタの目は喜びに輝いていた。真樹は一瞬どう答えていいかわからず、ただ苦笑を浮かべるだけだった。
「ねえねえ、いいでしょ? せっかく来てくれたのに、何もしないで別れるなんて嫌よ。デルネスには私の方から言っておくから、今日はうちに泊まっていってよ。いいでしょ、いいでしょ?」
真樹にセスタが詰め寄る。そしてそんな事を言いながら、セスタの脳裏には件の火の国の魔王の姿が浮かび上がっていた。
あの犬っころだけマキと一緒にいてずるい。自分と同じように「雌」になりながら、自分のように人に成らずほぼ昔の姿のままで居続ける火の魔王を思い浮かべて、セスタはほんの少し苦い顔を見せた。それは単純な嫉妬心から来るものであり、「雌」になった瞬間からセスタが新たに見出した感情であった。
「デルネスばっかりずるいわよ。ねね、いいでしょ?」
「お父様、マキを困らせるような事は言わないでやってください」
そんなセスタに、娘であるセシルスが釘を刺す。セスタは僅かに顔を曇らせたが、それでも懲りることなくセシルスに向き合った。
「なによセシルス! いいじゃないちょっとくらい! 私だってマキとお喋りしたいの!」
「お父様、あなたは仮にも魔王なんですから、慎みや忍耐というものを学んでください」
「いいえ、違うわ。自分の欲望に素直になってこそ魔族なのよ。あなたこそ理性に縛られてないで、もっとやりたいようにやるべきなのよ」
セシルスが諭し、セスタが負けじと言い返す。二人の議論は完全に平行線であり、真樹はそのどちらにも肩入れする事が出来なかった。
どちらも正しい事である。彼女はそう思っていたからだ。そしてどちらが正しいと断じられる程、彼女は人間的に成熟してはいなかった。
「あ、あの、私は大丈夫ですから、喧嘩しないでください。デルネス様には後で私から説明しておきますから。お願いします」
だから彼女は、そうやってなだめるのが精一杯であった。しかし勇者の懇願は、その魔族の親子にとっては効果覿面だった。
「デルネス様もセスタも、そんなに喧嘩しないでください。どっちもどっちでいいじゃないですか。人の価値観は人それぞれなんですから」
「む、むう」
「まあ、あなたがそう言うなら、それでいいけど」
二人とも、真樹には大きな借りがある。彼女達はそのどちらもが、真樹に血石を抜いてもらった事があるのだ。
それも一度や二度ではない。セスタにしても、今回の一件が初めてではない。どちらも彼女に対しては頭が上がらなかったのである。
「じゃあマキ、あなたは暫くここに残るってことでいいのね?」
しかしその一方で、セスタも抜け目なかった。彼女はこの前に真樹が言った事をしっかり聞いていた。セスタはそれを受けて、真樹に純真な眼差しを向けたのである。
「ね? いいのね?」
「え、ええ、うん」
そして真樹は押しに弱かった。彼女は押し切られるまま、セスタの言葉に頷いた。
デルネスになんて言えばいいだろう。真樹は頭の中で火の魔王への釈明の言葉を考え始めていた。
「じゃあこの話はこれでおしまい。マキ、次はあれお願いしたいんだけど」
そんな真樹に、セスタが唐突に話しかける。真樹はそれを聞いて、彼女が何を求めているのかをすぐに察した。
魔王のような強大な魔力を持つ者は、一度血石を発現してしまうと今後再発してしまう可能性が他よりも高い。これは彼らがその他大勢に比べて大量の魔力を保持しているからとされており、魔族の間では常識となっていた。
真樹もそのことを知っていた。そして彼女はまた、再発を防ぐために自分が出来ることも理解していた。
「優しくお願いしますよ?」
真樹は一度息を吐き、それからセスタに向き合った。その顔には諦めにも似た表情が浮かんでいた。
セスタはそれを見ながら満面の笑みを浮かべた。そしてそのまま、真樹に向かって言った。
「わかってる。優しく行くからね」
「本当にお願いしますからね。私だって痛いもの
は痛いんですから」
「わかってるってば。ちゃんとするから」
念を押すように言い返す真樹に、セスタは変わらず笑みを見せた。そして微笑んだまま、彼女はゆっくりと右腕を持ち上げた。
「一瞬で終わるからね」
そして腕を振り下ろす。
刹那、小坂真樹の左腕が肩口から切り落とされた。
「ん……」
アドメレクが誘惑の霧から抜け出せたのは、彼が籠絡されてからたっぷり十分経った後だった。気づいたときには彼の周りに魔界人の女はおらず、代わりに欲望に走ってしまった罪悪感だけが心の中に残されていた。
「そうだ。私は思わず」
つい先程までの自分の姿を思い返し、悲嘆に暮れる。しかしいつまでも落ち込んではいられないと気持ちを切り替え、今周りがどうなっているのか確認するために辺りを見回す。
そして前方に意識を向けた直後、彼はすぐにそちらに目をやった事を後悔した。
「あ、我に返ったみたいね」
そこには切り離された人間の腕を両手で持ち、その二の腕の部分にかじりついているセスタの姿があった。幼い魔王の口元は血で真っ赤に汚れ、そして彼女が腕にかぶりつく度に、肩の切断面から血が噴き出していた。
「な、なにを」
「栄養補給」
アドメレクが呆然と問いかけ、セスタが平然と答える。そのセスタの横には呆れ顔で彼女を見つめるセシルスがおり、そしてその彼女の横に真樹がいた。
真樹は顔面蒼白だった。左腕は肘の部分まで再生を済ませていたが、明らかに血が足りていなかった。それでも彼女は椅子に座ったまま、アドメレクに気づくと同時に彼に手を振った。
「ああ、元に戻ったみたいですね。良かったです」
「い、いや、君の方はどうなんだ。そっちこそ重傷じゃないか」
「大丈夫ですよ。私は大丈夫です」
アドメレクが真樹に問い返し、真樹がそれに答える。真樹の声は明らかに覇気が無かった。なぜこうも元気がないのか、アドメレクは疑問に思った。
しかしその数瞬後、彼はすぐに理解した。そして同時に、彼の目は反射的にセスタの持っている腕へと向けられた。
「まさか、それって」
「マキのだよ」
アドメレクの視線に気づいたセスタは、悪びれる様子も無くあっさりと答えた。それからセスタはさらに、何の引け目も感じることなくそれの捕食行為を再開した。セシルスも真樹もそれを目の当たりにして、それでも止めようとはしなかった。
アドメレクは違った。彼は平然と人間の腕を食べ続けるセスタを見ながら、困惑と怒りの混ざった顔で彼女に言い放った。
「お、お前は何をしているんだ! そんな、人の腕を食うなど!」
「何って、予防策よ。血石がもう一回発現しないように、マキの魔力を体内に取り込んでいるのよ」
「魔力はそれ自体を直接吸収するよりも、血肉を通して摂取した方がより効率よく獲得する事が出来るのよ。だからこうして、マキの腕を食べているってわけ」
セスタとセシルスが説明する。アドメレクは彼女が何をしているのかを理解したが、理解することと容認する事はまた別だった。
「なんと残虐な。そのような事をして、神がお許しになるとおもっているのか!」
「ここは魔界なのよ? 神のルールが通用する訳ないじゃない」
セスタが言い返す。そして食事を再開する。
アドメレクはそれ以上言い返す事が出来なかった。籠絡された事が尾を引き、体が鉛のように重かった。虚脱感に苛まれ、口を動かすだけの活力が十分溜まっていなかったのだ。
「いいんですよ」
そんなアドメレクに向かって、唐突に真樹が話しかける。アドメレクはすぐに真樹に視線を寄越し、そして真樹は彼を見ながら続けて言った。
「これが私の仕事なんです」
「しかし、いくらなんでも」
「これが一番の方法なんです。だから大丈夫です」
「……ッ」
真樹は笑っていた。血の気の引いた顔で笑みを浮かべていた。その横でセスタが美味しそうに真樹の腕を頬張っていた。肉を食い尽くし、骨が見えかかっている部分すらあった。真樹をそれを見て怒ろうともしなかった。
これが魔界の常識なのか。アドメレクは戦慄した。そして彼は改めて、自分達天使は魔界には馴染めない事を認識した。
「狂ってる。ここは狂ってる」
「世界が違えば価値観も違ってくるのよ。いい加減慣れなさいな」
セシルスが呆れた調子で諭してくる。冗談じゃない。
絶対に染まるものか。アドメレクは恐怖すると共に、神の使徒として断固たる決意と覚悟を決めた。そしてそれは、彼が魔界を受容しきれない事、天使が適応性の低い「頭でっかち」であることの証明でもあった。
彼にとっての郷は一つしかなかったのだ。




