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狂人と勇者

 小坂真樹はその後、セスタに暇を告げるために玉座の間に向かった。セスタは真樹の来訪を快く受け入れたが、そこで彼女が水の魔王メナスの名を出した瞬間、セスタはそれまで浮かべていた笑みを一気に曇らせていった。


「あの方はいったいどうされたのです? 何かまずいことでもあるのですか?」


 そのあからさまな変化を見たアドメレクが、横にいたセシルスに問いかける。小声でそう尋ねられた親衛隊長は、肩を落としてそれに答えた。


「単純にメナスが面倒くさい奴だからよ」

「会うのを嫌がっている?」

「正直言って、顔も見たくないって感じね。あの魔王は執念の塊みたいな奴だから。変に関わって火傷したくないのよ」


 そう答えるセシルスの顔も、セスタと同様に渋りきっていた。一方で魔界の事情に疎かった天使アドメレクは、彼女達がなぜそこまでメナスなる魔王を毛嫌いしているのか、理解しきれずにいた。

 そんな彼らの前で、セスタが真樹に向かって口を開いた。


「本当にあいつの所に行くのか? また面倒なことに巻き込まれるのかもしれんのだぞ?」

「だからと言って、無視するわけにも行きません。呼ばれたからには顔を出しておかないと」

「しかしなあ」

「お願いします。行かせてください。メナス様はそんなに悪い人ではないんです」


 渋るセスタを真樹が必死に説得する。それでもセスタは首を縦に振らず、それどころか「行かないでくれ」と言わんばかりの眼差しで真樹を注視する。

 アドメレクはまたそれに気づいた。彼はすぐにセシルスの方を向き、セシルスもまた彼が何を言わんとしているのかを察した。


「お父様はマキの事を心配しているのよ。あの子がメナスと接触した時に何が起きるのか、過去の経験から理解しているからね」


 アドメレクが問いかけるよりも前に、セシルスがそれに対する答えを述べる。機先を制された天使は少しどもった後、すぐに沸いてきた新たな疑問をぶつけた。


「いったい何が起きるって言うんです?」

「あんまり言いたくない。愛が重いって言えばわかるかしら?」

「?」


 セシルスの回答は曖昧だった。アドメレクにはそれが何を意味しているのかわからなかった。天使は万能ではない。具体的に言ってくれないとわからないものもあるのだ。

 一方で真樹は、セスタへの説得を続けていた。しかし地の魔王も一歩も譲らず、両者の話し合いは平行線を辿ったままだった。

 これでは埒が明かない。アドメレクはその不毛なやり取りを見てそう思った。そしてそれは、セシルスも同様に思っていたことだった。

 そのセシルスが口を開いた。


「お父様、マキは既に手紙をもらっています。メナスが寄越した、血染めの手紙です」

「なんだと?」

「もう手遅れなんですよ」


 セシルスの言葉を聞いたセスタは愕然とした。そしてセスタはすぐに、真樹に目線を合わせて彼女に問いかけた。


「そうなのか? 本当に受け取ったのか?」

「はい」


 真樹が控えめに答える。直後、セスタはその幼い体を強ばらせた。

 そしてすぐに、セスタは自身の体を椅子の奥深くに沈めた。その顔は諦観に染まりきっていた。


「ああ、ではもう駄目だな」

「はい」

「マキよ。今の内に覚悟を決めておくべきだぞ」

「わかっています。これが私の仕事ですから」

「世話をかけるな。私も常日頃から、お前に負担をかけすぎてはいけないと、他の魔王に言っているのだが。他の連中はどうにも我慢が足りんようだ」

「そこまでしていただかなくても大丈夫ですよ。私ももう慣れましたから」


 魔王と勇者が言葉を交わす。そのやり取りはとても穏やかで、親しげなものだった。

 それはアドメレクにもわかった。しかしその天使は、彼らの会話の意味まではわからなかった。これから一体何が起きるというのか? 魔界に疎い天使がただ怪訝な表情を浮かべるだけだった。


「そんなに恐ろしい事が起こるというのですか?」

「見てればわかるわよ」


 アドメレクが再度尋ねる。セシルスの返答は投げ遣りだった。「しつこいからもう聞くな」と彼女が言外に告げているのは、アドメレクでも理解できた。だから彼はそれ以上は何も言わずに口を閉ざした。

 何が起きるって言うんだ? それでもアドメレクはまだ事態の把握が出来ず、心の中でそう呟いた。





「見つけましたわ」


 小坂真樹の足下から氷柱が生え、それが彼女の体を股下から貫いたのは、彼がそう思った直後のことだった。


「ああ、マキの血、マキの血っ! 甘くておいしいマキの血!」


 氷柱の奥から声が響く。突然の事に、そこにいた勇者以外の全員が驚愕する。

 真樹は口から氷柱の先端を吐き出したまま、目を剥いて微動だにしなかった。足は床から離れ、氷柱に串刺しにされたまま宙ぶらりんになっていた。


「ああマキ、お会いしとうございました。私です。水の地を治めるメナスです。こうしてお会いするのは二週間二十五日十四時間四十分三十六秒ぶりですね。ご壮健で何よりでございますわ」

「か、かは……っ」


 メナスと名乗る氷柱が喜びの声を上げる。真樹は何も言わず、口の端から鮮血を垂らす。よく見ると股からも血が流れていた。

 アドメレクはその顔を恐れと嫌悪で歪めていた。セシルスは頭痛を訴えるように手で頭を押さえ、セスタは顔から血の気を引かせていた。

 そんな周りの視線など気にすることなく、氷柱(メナス)が喜びのまま声を上げる。


「そうだマキ。せっかくこうして再会出来たのですから、記念に思い出を残しましょう。私にいい考えがあるんです」

「え、えう……っ?」

「大丈夫。私を信じてください。あなたにも得な話ですから」


 満足に話せない真樹に向かって、メナスが一方的に話を進める。そして真樹が返答する前に、メナスが彼女に提案する。


「目を交換しましょう」


 直後、氷柱が真樹を貫いたまま床下に沈む。その沈下スピードは非常に迅速で、誰も反応することが出来なかった。

 そうして氷柱が真樹ごと姿を消した後も、誰も動こうとしなかった。展開が急すぎて、何をしたらいいのかわからなかった。


「あれは一体なんなんだ」


 やがてアドメレクが苦しげに呟く。セシルスが肩を落としてそれに答える。


「あれがメナスよ。水の魔王メナス」

「あれが? あの氷柱が?」

「氷柱が本体じゃないわ。あれはただ魔力で召喚しただけ。私が言いたかったのは、あれがメナスの本性ってこと」

「どういうことです?」


 アドメレクはまだ理解しきれていなかった。セシルスは苦虫を噛み潰した表情を浮かべ、腕を組みながら彼に答えた。


「偏執狂なのよ。メナスはマキを病的に愛している。マキがいれば、後はどうでもいいって本気で思ってるの。そして自分はこれだけマキを愛しているから、自分も彼女に何をしても許されるとも思っているのよ」

「だから傷つけてもいいと言うのですか?」

「メナスはそう思ってる」

「ただの犯罪じゃないですか」


 アドメレクは憤慨した。だがセシルスは諦めたように微笑しながら「説得しても無駄よ」と彼に告げた。


「あいつは自分が正しいって頑なに信じてるタイプだから。誰の言葉も心に届かない。メナスの病気は死ぬまで治らないのよ」

「どうしようもないんですか?」

「どうにかなるのなら、とっくにメナスの家臣が矯正したでしょうね。出来ないから放置されてるのよ」


 セシルスがため息をつく。アドメレクは複雑な表情を浮かべ、やがて氷柱が開けた穴の方に意識を向ける。

 直後、穴の下から真っ赤な血が噴水のように噴き出した。アドメレクは思わず短い悲鳴を上げ、セスタとセシルスの親子は揃って冷めた眼差しを穴に向けた。


「本当病気よね」


 セスタの言葉が、玉座の間の中に虚しく響いた。

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