短編 一瞬より早く①
六月も終わりに近づき、すっかり梅雨入りを果たした人成山は連日のように雨が降っていた。
決して激しくない雨でも、長いこと降り続けたのならば気分も滅入る。何より、十月十日の間人成山に登り続けなければならない自分にとって、雨というのは大敵である。
雨が降れば地面はぬかるみ、岩肌は滑りやすくなる。しとしとと降る線のように細い雨は視界を遮り、ざあざあと降る強い雨は登山道を流れる川となる。
しかしながら天気がどうであれ登山を止めるわけにはいかない。これも全て童貞を卒業するためだ。
今日もどうせ雨だろうと大して期待することもなく、前日に部屋干ししておいたレインコートを準備しながら窓際に置いてあるラジオの電源を入れた。
人成山に入ってくる電波は一つだけ。人成山放送局という人成山中層地区を拠点とするラジオ局で、基本的にボランティアでもって運営されている。
外界から隔離された人成山で唯一の情報発信機関であり、人成山についての情報を得るのなら最も手っ取り早い。
下層地区のジャンク屋に置いてあった壊れたラジオを無理矢理直して使っているため音質はお世辞にも良いとは言えないが、天気予報をきくにはこれで十分である。
『今朝の人成山はどんよりとした雲に覆われています。曇り空は一日続く模様ですが、雨は降らず涼やかで過ごしやすい一日となるでしょう』
一瞬耳を疑ったが、どうやら予報では今日は曇りらしい。
とはいえ何が起こるか分からない人成山だ。レインコートを畳むとバックパックにしまい込み今日の登山へと向かった。
隣の部屋に声をかけようか迷いもしたが、結局一人で登山へ向かうことにした。慧乃だって、雨は降らないとは言えこんな曇り空の日に登山なんてしたくないだろう。今日降っていなくても、昨日降った雨は十分に登山の難易度を押し上げている。こんな日は、登る必要がないのなら登らない方が良いのは間違いない。
しかし天気予報はあながち間違っていないようで、どんよりした曇り空だが、涼やかな風が吹いているため涼しく、気温としては登山にもってこいの日のように感じられた。
レインコートを羽織って地面を見下ろしながら小さく一歩一歩踏み出して歩くしかなかった雨の日とは違う。今日は顔を上げて登山が出来ると思うとそれだけで気分は晴れやかだ。
雨上がりの湿度も風にさっとさらわれていって、新鮮な朝の空気が満ちていた。
外層地区を抜け、ようやく登山の開始地点にさしかかる。古びた石造りの鳥居がある人成山の入り口。
その直前に辿り着くと、鳥居の裏から人影が飛び出してきて、登山道の真ん中に立ちふさがって声を上げた。
「ここを通りたければ、この俺と勝負しろ!」
さて。
突然道の真ん中に立ちふさがり馬鹿げた台詞を吐く奴に対して、一体どんな対応をとるのが正しいであろうか。
もし現れた人物が、長い黒髪をした鳶色の瞳の女であったなら、適当に声をかけて一緒に登山でもどうかと誘うところなのだが、問題は今し方飛び出してきたこの人物は、そいつとは全く異なる人間だと言うことだ。
銀色のメッシュの入った妙な色の髪をしたその同年代くらいの若い男は、腕を組んで立ちふさがりこちらを見下ろしている。
しかし勝負と来たか。相手が慧乃ならともかく、今回は強行突破とはいかせてくれなさそうだ。
男は半袖短パンの軽装で、露出した肌は浅黒く焼け、良く鍛えられた筋肉をこれでもかと見せつけている。特に足の筋肉は目を見張るものがあり、陸上選手だと言われても素直に納得出来るレベルだ。
対してこちらは運動なんて久しく縁がなく、最近になってようやっと毎日登山するようになった程度であり、こんな相手と殴り合って勝利するのはまずもって不可能である。
「悪いが急いでるんだ」
顔をしかめてそう声を返すと、男は声を上げて笑った。
「それは好都合だ!」
どうやら言葉が通じない相手らしい。ただでさえ面倒くさいことになっているのに、こうなると更に面倒くさい。
生憎、人成山の登山道は一つではない。別のルートを使って登山をすればわざわざここを通る必要もないのだ。
そういうわけなので男に背を向けて、別の登山道へと向かうために元来た道を引き返す。
「おい待て! 逃げる気か! 卑怯者!」
卑怯と罵られようが知ったことではない。こちらは十月十日の間登山を続けなければならないのだ。まだ序盤も序盤のこの時期に中断するのはまっぴら御免だ。
「お前、馬謖だろう」
どこぞのクソメガネが勝手につけたニックネームが飛び出してきて、渋りながらも振り向いて答える。
「馬謖じゃねえ」
「何、人違いだったのか? 十月十日の間山に登り続ける呪いにかかった、いつも情けないしかめっ面したぼさぼさ頭の男だと聞いていたからそうだとばかり。いや、違うなら悪かった」
「おい、それ誰から聞いた」
「メガネ殿と六宮殿だ」
「あの野郎……」
あのクソメガネときたらあらぬことを適当に触れ回りやがって。しかも慧乃まで一緒になんてことを吹き込んだのか。
この怒りは後でクソメガネを二、三発殴って解消するとして、ともかくこの男が慧乃と知り合いなのであれば話は別だ。何かしら事情があってこんなことをしているのだろうから、とりあえず話だけでも聞いてやろう。
「馬謖じゃないが、十月十日登山してるのは事実だ。で、一体何の用だ?」
「うん? しかしメガネ殿は確かに馬謖だと」
「じゃあもう馬謖でいいから事情を話してくれ」
あれこれ説明するのも面倒だったのでとりあえず話すように促すと、男は腕を組んで話を始めた。
「俺の名は刹那。訳あって人成山に登っている。そして求めていたのだ。この俺にふさわしい競争相手をな! それがお前だ! さあ、俺と勝負しろ!」
「さっぱり話が見えないが、競争ってことは走るのか? 人成山を?」
「その通りだ」
「山頂まで?」
「その通りだ」
何が何だか分からなかったが、そんなこと人成山では日常茶飯事だ。
くるりと反転してやはり元来た道を戻ろうと足を進めると、刹那が声を投げかける。
「待て、逃げるな! 俺と勝負しろ!」
仕方無く振り返り、精一杯面倒そうに見えるよう体面を繕って、背負っていたザックを示して答えた。
「走るんだろ。荷物減らしてくるからちょっと待ってろ」
水筒の入ったウエストポーチだけ持って再び登山道の入り口に赴くと、刹那は足を伸ばして念入りにストレッチしていた。
形だけ隣で軽くストレッチして、声をかける。
「で、なんで走るんだ?」
「山に登らないといけない呪いなんだが、タイムの設定があってな。一人でタイムを競うのも限界だったから好敵手を探していた。そして見つかったのが、お前というわけだ」
「完全にとばっちりだ」
タイムを競うのに好敵手を求めるという気持ちはなんとなく理解できる気もするが、そこでどうしてこっちに飛んできたのか。生憎こっちは登山のタイムなんて気にした事なんてない。なにしろ十月十日の間登り続けないといけないのだから、安全が最優先だ。
「山に登り慣れていて、それでいてお節介だから適任だとメガネ殿がおっしゃっていた」
「あの野郎覚えてろよ……」
余計なことを触れ回りやがって。あのクソメガネには一度分からせてやる必要がありそうだ。
「事実こうして引き受けてくれた訳だ。メガネ殿の言葉は正しかったことになる」
「断れば良かった」
真剣に今からでも断ろうかとも考えたが、刹那はそんな表情を見てか登山道入り口の鳥居を示してルールの説明を始めた。
「この鳥居をくぐったらスタート。ゴールは人成山山頂にある鳥居だ。簡単だろう?」
「ああ。あの山頂の鳥居か。ルートは?」
「問わない。どんな道だろうと、この鳥居をくぐって、山頂の鳥居をくぐりさえすれば問題ない」
「了解。分かったよ」
登りやすいのはメインの登山道だろうか? 普通に登ったらだいたい上まで三時間。しかし使用者が多く、また何かと階段が多い。
考えるまもなく刹那が鳥居の前に立ったので、仕方無く隣に立った。
「では山頂で会おう」
「ああ、先に行って待ってる」
挑発的な言葉に刹那はにやりと笑って、右手でストップウォッチを持って振り上げた。
「レディー……ゴー!」
ストップウォッチを振り下ろすと同時に刹那は勢いよく石畳を蹴って走り始める。
見た目の通り足には自信があるらしい。しかし――。
「短距離走じゃねえんだぞ。そんなに飛ばして大丈夫かよ」
あっという間に遠くへ行ってしまった刹那の背中を見て呟く。しかし刹那はペースを落とすことなく、そのままのスピードで石畳を駆け抜けていく。
あんなペースで山頂まで持つはずがない。どうせ途中でへたるだろう。
そう頭では分かっているはずだったのに、開いていく距離を見てふつふつと心の奥からあらぬ感情がわき起こってきた。
ーー負けてたまるか。
ペースを上げて刹那の背中を見失わないようついていく。石畳が終わればそこからは段差のある山道だ。登山の経験なら負けていないはず。なんとかそこで食らいつかなければ!
石畳をトップスピードに近い速度で駆け抜ける。刹那は石段にさしかかり若干ペースが下がっていた。
ようやく石段に到達し、足場を確かめながら飛ばし飛ばしで登っていく。たしかに刹那のペースは落ちたが、こちらも登り道を全速力で走り抜けたりは出来ない。
なんとか距離を縮められたものの追いつけず、刹那の背中を追いかける形で人成山寺の正面階段が遠くに確認できる距離まで来た。
延々と続く大階段。流石にここは迂回だろう。こんな階段を駆け上がったら膝を壊してしまう。
「うっそだろ――」
しかし目の前を走る刹那は階段を迂回せず、二段飛ばしで駆け上がり始めた。
「正気かあいつ」
正直信じられないが、目の前で起きているのは紛れもない事実だ。
確かに階段を駆け上がるのが最短距離だ。しかし、迂回路もないわけではない。距離はだいぶ伸びてしまうが、階段に比べればずっと緩い坂道がある。
どちらを選ぶべきか、階段か坂道か――。
気がつくと階段に足をかけ、駆け上っていた。
既に距離を開けられているのだからここで迂回路を選ぶわけにも行かない。
突然ふっかけられた勝負だが、受けた以上負けたくはない。負けるにしても大差をつけられて情けなくゴールするのは御免だ。
階段を駆け抜けてなんとか人成山寺の正面へ到達する。
刹那は既に登山道を先に進んでいた。しかし緩やかな坂道だというのに最初の勢いはない。階段を駆け上がった疲れが出ているようだ。これは良い傾向だが、こちらも同じく太ももの筋肉が悲鳴を上げていて、全速力で走ることも出来ずにただ刹那の背中を追いかけた。
このままでは負けてしまう。
いよいよ中層地区手前の分岐点にさしかかり、当然刹那はメインの登山道へと進路をとった。
ルートは自由。
だとしたら最適なルートを通るべきだ。同じルートを走ったところで勝機は見えないのだから。
分岐点で左に曲がり、中層地区へと入る。
一瞬振り返った刹那がこちらを見たのが確認できた。体力や脚力では勝ち目のない相手だ。せめてこの二ヶ月ばかり繰り返した登山の経験を活かさなければ。
中層を抜けて裏道を走る。こちらは開けた坂道の続く登りやすい登山道だ。日の光を遮るものが存在しないため直射日光の強い日には辛い道だが、幸い今日は曇りで涼やかな風が吹いているため苦に成らない。
好凮寺という名の大きな山門を構えた無人の寺の前を通過して坂道を駆けること一〇分ほど。いよいよ人成山神社の裏手に出て、そこから即座にメインの登山道へと入る。
ちらと後ろを見ると、石段を駆け上がってくる刹那の姿が見えた。
よし、なんとか追い抜いた。
後はこのリードをなんとか山頂まで持ち越せれば勝ちだ。
問題は人成山登山の本番は実質この人成山神社を越えた先で有り、ここより先の道は土と岩で作られた段差の多い山道だと言うことだろうか。
だが山道なら有利なのはこちらだ。
刹那が履いていたのはランニング用の生地の薄く軽い靴。舗装された道を走るならともかく、ごつごつした岩場を走るのには全くの不向きだ。
硬い岩を蹴って勢いよく段差を駆け上がっていく。ここから頂上まで歩いたら八〇分。長い道のりだが、二ヶ月登り続けた道だ。最後まで走り抜けてやろうじゃないか。
人成山登山道も終盤になって、いよいよ綺麗に舗装された石段に辿り着くと、ゴールである鳥居が遠くに見えてきた。
後ろを走っていた刹那がラストスパートをかけて一気に追い上げてくる。
単純な足の速さなら刹那の方がずっと上だ。
しかしここまで来たのだ。負けたくない一心で、既に悲鳴を上げている膝にむち打って階段を駆け上がる。
最後の直線。いよいよ直ぐ後ろに刹那が迫ってきた。全速力で走ろうにも、もう足が限界を迎えている。懸命に一歩一歩駆け上がったが、刹那がすっと横を走り抜けていき、そのまま鳥居へと駆け込んでいった。
少し遅れて鳥居をくぐると、そのまま倒れるように近くにあった切り株に座り込む。
尋常じゃなく上がった呼吸と心拍数を抑えようと空を仰いで深呼吸していると、刹那が真上からこちらの顔を覗き込んできた。
「いやはや流石だな。ここまでとは思わなかった」
「皮肉か? それなら後にしてくれ。今それどころじゃない」
「まさか。素直に驚いているのさ。やはり好敵手はいいな。久々に無茶な走り方をしてしまった。これは二、三日まともに足が上がらなそうだ」
「二、三日ならいいじゃねえか。こっちは一週間以上引きずりそうだ」
引きつった足を伸ばして、股関節も太ももも脹脛も足首も悲鳴を上げていることを確認して、明日以降の登山をどうしたものかと思案していると、山頂の方から、憎たらしいにやけ顔をした女がやってくるのが見えた。
「その様子だと、やっぱり君は勝負を受けたわけだ。ほら、私の言ったとおりだっただろう?」
「これは六宮殿。その節はご助言どうも。おかげでこれまでで一番のタイムが出せました」
刹那は手に持ったストップウォッチをかざして見せてにやりと笑う。
「それは良かった。でも、呪いは解けていないようだね」
「ああ、今回も駄目だったようだ。あと一歩だが、その一歩がどうにも遠いようだ」
刹那はにやけ顔を崩して顔をしかめて見せたが、直ぐにまたにやりと笑う。
「何、こうして素晴らしい好敵手も見つかった訳だ。きっと呪い解除の日も近いだろう」
「言っておくが、もう二度と付き合わんぞ」
当然だとばかりに宣言すると、刹那は困ったような顔をして、慧乃に至ってはくすくすと笑い始めた。
「それは困る。人成山にお前以上のタイムを出せる人間はいない」
「悪いが安全第一の登山が最優先事項なんだ。十月十日登り続けないといけないからな。余所をあたってくれ」
「そう言わずに頼むよ」
「いやなこった」
突っぱねると、相変わらずにやにやと笑っていた慧乃が歩み寄ってきた。
「まーた君はそうやって心にもないことを言って」
「いいや今回は本心から言ってる。こんな無茶な登山続けたら足を壊しちまう。悪いが何を言われても二度と付き合わないからな」
「そんな! これから先俺は一体どうしたらいいって言うんだ! まだタイムを縮めないといけないのに!」
「知るか。飛行機でも拾ってこい」
これ以上は付き合っていられないので適当に返すと、勢いよく刹那が一歩踏み出してきた。突然の行動に驚いて構えた手を、刹那が掴む。
「何だよ」
怯みながらも睨み付けると、刹那の表情は満面の笑みであった。
「その手があったか! 馬謖、お前って奴は天才だ!」
「馬謖じゃねえ。――って、それ本気で言ってるのか?」
「ああ! 早速メガネ殿に飛行機がどこかに転がっていないか尋ねてこよう! ではさらばだ馬謖! そして六宮殿! また会おう!」
それだけ言い残すと、刹那は颯爽と下山していった。今し方登ってきたばかりなのに、どこまでも元気な野郎だ。
「一番苦手なタイプの男だ。二度と会いたくない」
「そう言う割には、無茶して競争に付き合ったのはどうしてかな?」
慧乃の問いかけには何も答えられず、ただただ顔をしかめて憎たらしい鳶色の瞳を睨み付けるほかなかった。
「ま、一つだけ確かなことは、彼にとっては何かしら得るところがあったと言うことさ」
「あったのか? 自分で言っておいてなんだが、正直飛行機拾ってくるのはあまりに無茶苦茶だろう。そもそもそんなの人成山が許してくれるのか?」
「さてね。そればっかりは、誰にも分からないことじゃないかな? それより君、凄い汗だけど、お水飲むかい?」
突然話題を切り替えた慧乃に対して文句の一つもつけたい気持ちもあったが、差し出された水筒を目にして、自分の水筒の中身が既に空っぽであることを思い出すと、素直に手を伸ばしてそれを受け取っていた。
「飲む」




