中編 好凮寺奇譚②
二人の知佳子さんと登山童貞に荷運びを手伝って貰い、自分も荷物を一つ抱えて人成山に登る。
日差しが強く、とにかく暑い。
既に七月の終わりも近づき、一年を通して最も暑い時期にさしかかっていたのだから当然と言えばそうなのだろう。
しかしあまりに強く照りつける日差しは黒髪に戻りつつあるわたしの頭をじりじりと焦がし、四方八方から吹き寄せる湿っぽい熱風は体力と水分を奪っていく。それはとてものんびり登山などしていられる陽気ではなく、冗談抜きで命がけであった。
こんな暑い日に山登りだなんて頭がどうかしていると思われても仕方がない。
好凮寺へと向かう道は風通しが良いが太陽の光を遮る物が何も無く、太陽の熱と地面から沸き上がる熱気に挟まれて、頭がどうにかなりそうだった。
なんとか好凮寺の山門をくぐり抜けると、参拝もせずそのまま大方丈へと駆け込んだ。
「すいません知佳子さん、こんな暑い日に荷物運びなんて頼んでしまって」
「いえ気にしないでください。中層までは登らなくてはいけなかったのですから」
「ま、たまにはね。これ、どこまで運べば良いの?」
知佳子さんは一度荷物を下ろして汗を拭うと、もう一度荷物を抱え込む。
「いえ、ここからは自分で出来るので」
「遠慮しないの。全く、こころももっと他人に頼ったって罰は当たんないのよ」
「私にすら頼っている私が言うと言葉に重みがありますね」
「今なんつった? 私がいつ私に頼ったって言うのよ!」
「さあ? 私に聞いてみたら良いのではないですか?」
知佳子さんは知佳子さん同士で言い争いをしてにらみ合っていたが、直ぐにつんと互いにそっぽを向いた。
「やっぱり良いな。知佳子さん」
「どうしてそう思うんだ?」
二人の知佳子さんを見つめていると自然と声が出ていて、それをめざとく聞きつけた登山童貞が尋ねかけてくる。
「それはほら、あんな風に自分が――」
素直に答えようとしたが、以前、わたしが必死に呪いを解こうと無心になろうとあくせくしていた際、散々この登山童貞から嫌がらせに等しい回答を受けていたのを思い出した。
言葉を句切って、口の端にちょっと笑みを浮かべてから振り返って答える。
「やっぱりあんたには教えてあげない」
「なんだよそれ」
登山童貞は間抜けな表情を浮かべてやる気なさそうにそう呟いた。
「っていうかあんた、凄い汗」
「誰の荷物のせいだと思ってるんだ」
「そう言われると、そうか。でももう一頑張りして炊事所まで運んで貰ってもいい?」
「構わないよ。引き受けたんだ。最後までやるさ」
登山童貞は米袋を背負って一歩一歩重い足取りで炊事所へと歩いて行った。
知佳子さん達にもついて行って貰い、わたしは荷物を抱え直すと小方丈へと向かう。何は置いても、とりあえず邦実様に挨拶をしなければ。
「お久しぶりです。長洲さん」
角を曲がると、坊主君がそこに居た。わたしと共に邦実様の元で修行していた、しっかり者でとても頭の良い年下の男の子だ。
「あ、坊主君、久しぶり。――ちょっと痩せた?」
坊主君の頬に手を当てて確かめてみるが、以前よりもやせ細っているように感じた。
やはり邦実様と二人きりにしたのは間違いだったか。直接慧乃様に坊主君の様子を見てくれるよう頼んでおくべきだった。
「そのようなことはありません。至って健康です。長洲さんは、以前より肌つやが良くなりましたね」
ここで太ったなどと言わないあたり出来た少年だと関心はするけれど、やはりどうにも坊主君はそんなことよりも自分自身のことを気にして欲しいと思ってしまう。
それについては後日きちんと言い聞かせるとして、まずは邦実様だ。
「学校が長期休暇に入ったからまたしばらく修行させて貰おうと思ったけど、邦実様は?」
坊主君は問いかけに、意味ありげに小方丈の方向をちらとみて、こちらに向き直ると答えた。
「就寝中です」
「寝てたか……。邦実様は相変わらずなんだね」
「相変わらずです」
「君もだけどね。ともかく、無理矢理起こすと怒られそうだし、挨拶は後にするよ。書院は使っていいよね?」
「はい。お師匠様が、長洲さんが戻られたときに使うからそのままにしておけと」
「君それ絶対口止めされてたでしょ」
「分かりますか」
「師匠の言いつけを守らないなんて、君は酷い弟子だね」
「よく言われます」
坊主君は珍しく子供らしく笑って見せる。たまにこんな風に可愛らしい表情を見せることもあるのだけれど、普段はわたしなんかよりずっとしっかり者で、どっちが年上なのか分からなくなることもある。
「そうそう。実家から調味料とかお野菜とか持ってきたの。今炊事所に運んで貰ってるところだから、後で整理するの手伝って貰っても良いかな?」
「はい。お手伝いします。ところで、どなたが運んでいらっしゃるのです?」
「神社で働いてた知佳子さんと、慧乃様といつも一緒に居たどう――ほら、あの人」
「あの方ですか。ご挨拶に伺っても?」
「うん。ちょうどお礼を言いに行こうと思ってた所。――と、思ったけど、言って良いのかな?」
「長洲さんのお好きになられたらよろしいかと」
「むう」
肝心なところでどうするべきか教えてくれない。
自分のことだから自分で決めるべきなのはなんとなく理解出来るが、それでもなんとなく納得いかなくて口を尖らせてむくれていると、なんだか小さく笑われたような気がして、早足で炊事所へと向かうことにした。
「米、そこ置いといたからな」
「あ、ありが――むう」
お礼を言いそうになったが思いとどまって、どうするべきか考え込んでしまう。
見返りを求めず誰かの為に施すことで功徳を得られる。でもお礼を言われると、見返りを受け取ったことで功徳を得られなくなる。
だからお坊さんは托鉢で金銭や食べ物を恵んで貰ってもお礼を言わない。むしろ与えた側が「ありがとう」と口にする。
未だにどうにもひっかかるものがあるのだけれど、どうにもこうにもそういうことらしいので、形の上では好凮寺で修行している身分のわたしとしてはお礼を言うことも出来なかった。
「ご苦労様」
「たまにはこういうのも悪くないさ。普通の登山ばっかだと飽きちまうからな」
「ふうん。毎日登るってのもいろいろ大変みたいね。そうだ、これ一つ貰って。知佳子さんも」
抱えていた荷物の中から和菓子の箱を三つ取り出すと、一つを登山童貞に、二つを知佳子さんへと手渡した。
「荷運びの礼か?」
「ううん。わたしの両親から、娘がお世話になったお礼だって」
いらないと言ったのに無理矢理押しつけられてきた和菓子は、明らかに人成山でわたしが出会った人数よりも多かった。余ったら邦実様にあげようと思っていた物なので、知佳子さんに二つ渡しても何の問題もないはずだ。
「二つも頂いたら悪いですよ」
「私のくせに良い子ぶっちゃって。だったら私のを返したら良いんじゃない」
「当然私と私で半分ずつですからね」
「なんでそうなるのよ」
「お気になさらず。知佳子さんにも知佳子さんにもお世話になりましたから」
知佳子さん同士で言い争う知佳子さんをなだめると、隣でそんな争いを見ていた登山童貞が話しかけて欲しそうにけだるい表情を浮かべていたので、仕方無い、優しいこころちゃんが話しかけてやろうと、口を開いた。
「どうしたの?」
「ああ。これから登山行くからこの辺で失礼させて貰うよ」
「そういえばそういう呪いだったっけ。頑張ってきてね」
「ああ、頑張るさ。十月十日の間はな」
「十月十日ね……。そういえば、山頂って行ったことなかったな」
「今度ついてくるか?」
何気なく尋ねかけてきた登山童貞に、一瞬なんて答えて良いのか分からなかった。
なんだろう、この人は。もしかしてわたしと一緒に登山したいのか。山登りデートという奴なのだろうか? いや、そんなはずはない。なにしろこの男は登山童貞なのだ。それ故、わたしのことなど異性として見ているわけが無い。
「今度ね。慧乃様と一緒の時がいい」
「そうだな。慧乃もきっと喜ぶ。じゃ、邦実によろしくな」
そう答えて、登山童貞は坊主君に挨拶をすると颯爽と炊事所から出て行った。
「いまいちあの人が何考えてるのか分からない」
「全くね。あのお節介野郎は未だによくわかんないわ。ま、でもそれでいいのよ。使えそうなときに使ってやれば」
「また私はそんなことを言って」
「私だってあいつのこと良いように使うことあるでしょ」
知佳子さんにそう言われた知佳子さんは珍しく口をつぐんで反論しなかった。
しかしお節介野郎と言うのは言い得て妙だ。あの登山童貞について語るのにこれ以上の言葉もないだろう。
本当に、どこからともなく現れては、いりもしないお節介を勝手に焼いて、そして勝手に離れていく。前回離れていったのはわたしの方だけれども、わたしが何か答えのような物に近づくにつれて、気のせいかわたしとの距離を広げていったような、そんな気がする。
通り魔の如くお節介を焼いて過ぎ去っていく。まさしくお節介野郎だ。
「それよりこころ。慧乃と知り合いだったの」
「はい。元々は慧乃様が好凮寺の管理人に任命されていたとかで、邦実様が正式に好凮寺の管理人となるまで親切にして頂きました」
「慧乃様って、様づけは流石に大げさよ。確かに慧乃も不思議なやつだけど」
「知佳子さんは慧乃様とどんなお知り合いなんですか?」
知佳子さんたちは二人顔を見合わせたが、明るい性格の知佳子さんは少し表情を赤く染めながらも、胸を張って堂々と答えた。
「親友よ」
「親友ですか。良いですね」
「こころさんも大切な友人です」
穏やかな性格の知佳子さんが微笑みながらそう口にしてくれて、なんだかあんなにお世話になっていたのに名前も顔も覚えていなかった自分がどうにも憎らしくなった。
「そうだこころ。私、今日神社のお仕事休みで暇なのよ。良かったらうちに遊びに来ない? 和菓子も貰ったし、お茶くらい出すわよ」
知佳子さんの提案に、隣にいた知佳子さんもこくりと頷く。
と言っても、わたしは好凮寺で修行しに来た身分なので、はいと答えて良いのであろうか?
「行ってきたらよろしいと思います。きっと長洲さんにとっても良い縁となるでしょうから」
迷っていると坊主君がそんな風に言うものだから、それがどういった縁なのかはさっぱり分かりはしなかったけれど、不思議と頷いていた。
「それじゃあ、お言葉に甘えようかな。あ、でも、念のため邦実様の許可をとっておきたいから――。もうお昼過ぎてるから直ぐ起きるとは思うけど――」
「じゃ、中層で待ち合わせしましょ。入り口近くの喫茶店で待ってるわ」
「はい、では邦実様が起きたら直ぐ向かいますね」
「決定ね。じゃあ私は戻ってるわ。邦実様とやらによろしく言っておいてね」
知佳子さんは明るい笑顔を振りまいて、別れを告げると炊事所から出ていった。
「ではまた後ほどお会いしましょう」
知佳子さんは穏やかな笑みを浮かべて丁寧にお辞儀をすると、知佳子さんの後を追いかけていった。
「やっぱり、知佳子さんの呪いって良いな」
「どうしてそのように思うのですか?」
ふとした呟きに、坊主君が首をかしげて尋ねる。
登山童貞と違って坊主君は同じ好凮寺の修行仲間だ。だからわたしの思いを共有したくて、素直に話していた。
「だってさ、あんな風に綺麗に自分が別れていたら、自分の良いところも悪いところも一目で分かるでしょ。一人っきりの自分だと、そういう訳にもいかないから」
わたしの言葉に坊主君は、意味ありげに微笑んで見せた。
「確かに、その通りかも知れないですね。瑞岩さんの呪いは、自分から見てもうらやましい存在です。自分の行動を批判してくれる自分というのは得がたい存在でしょうから」
「そうだよね。わたしの呪いなんて電波が入らなくなるだけで何の役にもたたないし」
「自分は長洲さんの呪いも素晴らしいものだと思いますよ。それに、他人の呪いを自分の物にしてしまうことは出来ませんから」
「それもそうだけどさ」
「長洲さんはお師匠様から鏡を受け取っていたはずです。きっと、自分のことをしっかり見ることが出来るはずですよ」
「うーん、それはどうかな」
確かにわたしは邦実様から鏡を貰った。
ちゃんと自分を見てあげなさい、そう邦実様は言った。あまり深くは考えなかったけれども、もしかしてあの鏡にはそういう意味もあったのだろうか?
「あ、でも鏡、貸したんだった」
「書院に置いてありますよ」
「あ、そうなんだ。ふーん、あいつは何か見えたのかな?」
「さて、それはどうでしょう」
ぱっとしない坊主君の回答もすっかり慣れたものだ。でも鏡を返したと言うことは、きっと何か見えたのだろう。そしてそれを、今度はわたしに見つけて欲しいと思っている。
登山童貞はそんなこと表だって言ったりしないけれど、とにかくそういう奴なのだ。
「まあいいや。坊主君にもこれ一つあげるね」
「はい。大切に受け取らせて頂きます」
「わたしは荷物の整理してくるから、邦実様が起きてきたらわたしが来てること伝えて貰って良いかな?」
「はい。畏まりました。では自分はお勤めに戻ります」
坊主君は差し出した和菓子の箱を受け取ると頭の上に掲げて礼拝して、両手で抱きかかえると炊事所から立ち去った。
「よし。わたしもやること済ませておこう」
炊事所から出て、真っ直ぐに書院へと向かう。
書院の戸をあけると、部屋は立ち去ったときと同様、綺麗に整頓されていた。
ひとまず和菓子の詰められた荷物を下ろして、部屋の隅に寄せられた小机のもとへ。
小机の上には紫色の布に包まれた鏡が置いてあり、布を取り払ってみると、ぴかぴかに磨かれたまあるい鏡面に、自分の顔がそのまま映り込んだ。
自分を見る。
口で言うのは簡単だけれど、実行するのは難しい。
それでもこれは邦実様から言い渡されたわたしの課題だ。きっとこの先に無心になる手がかりがあるのだろう。それを掴まないと、わたしの携帯は電波を受信してくれないのだから。
鏡を包み直して机へ置くと、背負っていた鞄を下ろして中から一冊の本を取り出した。
『禅関策進』。以前坊主君から貸して貰った、古びた漢文の本。
漢字を一つ一つ追ってみたがとても内容は理解できなかった。分からないままなのもなんだかすっきりしないので、今度坊主君に読み方を教えて貰おう。
鞄の中身は以前人成山に訪れたときよりかは物が多かったものの、直ぐに荷物整理は終わってしまった。
持ってきた和菓子は慧乃様と山役所のお姉さんに一つずつ配って、残りは邦実様に渡してしまおう。あの人はあれば食べるので、いくらあっても困らないだろう。
荷物整理が終わると手持ちぶさたになって、部屋の掃除を始めた。
綺麗に掃除されていた書院は掃除のしがいもなく、やはり手持ちぶさたになって廊下の掃除を始める。
大方丈横の長い廊下は風通りをよくするため障子戸が開けられていて、外から埃が入ってくる。
これは掃除のやりがいがありそうだ。まずははたきで障子戸の木枠に積もった埃を落としていく。
長い長い廊下を掃除していると、人成山で修行していた当時の記憶が蘇ってくる。
わたしが人成山で修行した最後の一週間は掃除に参加できなかったけれど、代わりに邦実様が掃除をしてくれた。邦実様は口も悪いし、傍若無人なふるまいをしているように見えるけれど、実際は誰よりもわたしたちの事を考えてくれている、とてもお優しいお方なのだ。
とんとんとんとリズム良くはたきを振るっていると、だんだん気分が乗ってきた。
好凮寺の廊下には心地よい風が吹き抜けていて、熱気と湿度をどこかへと連れ去っていってくれる。
ついつい掃除をしながら鼻歌なんか歌ってしまう。曲名は知らないけど、何故か昔から知っているわたしの大好きな歌だ。
「こころ」
そんなとき、背後からわたしの名を呼ぶ声が聞こえた。
この威圧的な声は、紛れもなく邦実様である。
「も、申し訳ありません。鼻歌なんて駄目ですよね」
振り向いて頭を下げたが、邦実様はじとっとした感情の薄い瞳でこちらをじっと見つめていて、怒っているのかどうかいまいち判別がつかなかった。
「その歌、どこで知ったのよ」
邦実様は別に怒っているわけではなく、ただ起きたばかりで表情が悪かっただけのようだった。
「ええと、どこでしょう?」
「はっきりしなさいよ」
「申し訳ありません。小さい頃から知っている歌なので、たぶん子供の頃きいたと思うのですが、詳しいことはちょっと……」
「ふーん」
邦実様はとろんとした眠たげな視線でわたしをじっと見つめていたが、やがて大きなあくびを一つすると話題を変えて尋ねてきた。
「何時までいるの」
「はい。八月一杯までは」
「そ。勝手にしなさい」
聞くことは聞いたと興味をなくした邦実様はその場を立ち去ろうとしたが、慌てて制止する。
「邦実様、ちょっと待ってください」
「ああん? なんであたしがこころのために待たないといけないのよ」
「直ぐですから!」
邦実様がどこかへ行ってしまう前にと、急いで書院へ戻りお土産の和菓子の箱を持って戻った。邦実様は眠い眼をこすりながらも待っていてくれたので、和菓子の箱を手渡す。
「両親から、わたしがお世話になったお礼だそうです」
「へえ、娘と違って良く出来た両親じゃない」
何を失礼な、なんて口走りそうになったけれどここは我慢だ。わざとらしくならない程度に笑顔をこさえて堪え忍ぶ。
「ふふん、たまには良いこともするものね」
邦実様の中では良いことをしたということになっているらしい。
事実わたしとしても邦実様からはたくさんの大切なことを教えて頂いたので間違ってはいないのだが、こうして口にされるとどうにも胡散臭く感じてしまうから不思議なものだ。
「あんたも精々邦実ちゃんの役に立つようしっかり働くのよ」
「はい、それは分かってますが、今日はちょっと」
「ちょっと?」
「出かけてこようかと……」
咎められるのではという思いがあって、段々と声はしぼんでいった。
「泊まり?」
でも邦実様の返答は素っ気なく、わたしの心配は杞憂に終わった。
「いえ、暗くなる前には帰ってこれると思います」
「あ、そ。好きになさい」
邦実様はそれだけ答えると、用事は済んだとばかりに和菓子の箱を覗き込みながらその場を離れていく。
そんな背中を見送っていたら、邦実様は顔だけこちらに振り向いて、眠たげな視線でじとっとわたしの顔を見つめたかと思うと、短く言葉を投げかけた。
「髪、伸びたみたいだから今度暇なときに切ってあげるわ」
「はい、よろしくお願いします!」
邦実様の許可も得られたので、満を持して外出が出来る。
やりかけた障子戸のはたきがけはとりあえず廊下の端までやってそこで切り上げた。
書院に戻ると外出用の小さな鞄に財布と携帯電話だけ詰めて、大方丈へ向かいお釈迦様に短くお祈りす
る。
「お師匠様の許可は得られたようですね」
立ち上がると、掃除道具を持った坊主君が廊下から声をかけた。
「うん。夕方には戻ってくるつもりだけど、それまで邦実様をよろしくね」
「はい、確かに任されました。では、お気をつけて」
「君もね。それじゃあ行ってくる」
坊主君に別れを告げて出口へ向かう。
靴を履いて外に出ると強い日差しが照りつけてきたが、それでも風があり不快には感じなかった。
山門へと向かいながら途中で賽銭箱に寄り道して、財布から五千円札を取り出してそっと入れた。夏休み中泊めて貰うのでその分の宿泊費ということにしよう。
いよいよ外へ出ようと一歩踏み出すと、大方丈へと続く小道を小さな影が横切った。
「坊主君?」
声をかけるが反応はなく、じっと小道の方を見つめてみても誰も見つけられなかった。
「気のせいかな? ま、いいか」
坊主君でないとしたら迷い込んだ狸とか鹿とか。自然の残る人成山では野生動物が入り込んでいても不思議ではない。
そんなに気にすることでもないので考えるのを止め、山門をくぐり中層地区を目指した。




