三月目 其の四 心の鏡
こころは「自分を見ろ」と言った。
あいつも何かしら、無心について気がついたところがあったみたいだ。
でもそれは自分の導き出した答えとはどこか違うようで、気になってしまい鏡を見つめてじっと坐り続ける。
ぼうっとした視界の先にある小さな丸い鏡には、当たり前だけど自分の姿が映っている。
どうして鏡なのか。こころにとってこの鏡はどんな意味を持っていたのだろうか。そしてこころは、何故この鏡を自分に託したのだろうか。
思考は延々と繋がっていききりがない。
一体どれほど坐っていたのか分からなかったが、唐突に拍子木を打つ乾いた音が好凮寺の大方丈に響いて、意識が現実へと引き戻された。
「何か得るところがあったみたいだね」
声の主は、六宮慧乃だった。
視線を上げると、鏡の向こうで体をかがめてこちらを覗き込むように見つめていた。
「いや全く。ほとんど寝てたようなもんだ」
「そっか。それなら起こしてあげよう」
慧乃は拍子木を置くと樫の棒を持ってきて、その棒の先を左肩の上へとトンと乗せる。
なされるがまま頭を下げる。
慧乃は樫の棒を振り上げて、鋭く二回左肩を打った。
続いて反対側も同じように打たれる。
警策の余韻が収まると痛みに耐えるため止めていた息を吐き出す。そして顔を上げて、にやにやと意地の悪い笑みを浮かべる性悪女を見つめた。
「相変わらず容赦ないな」
「そういう物だからね」
慧乃はやっぱり笑ったままで、樫の棒を元の場所に戻すと、何故か正面に座布団を敷いて腰を下ろした。
「坐禅をするというのは本来の自分へと一歩近づくことに他ならないのさ」
「本来の自分ねえ」
本来の自分に近づくというのは、人成山で言うところの人に成ることだろう。
相づちを打つと、慧乃は話を続けた。
「する側も本気でやる以上、警策の手を緩めてしまうのは失礼なことだからね」
「それでハナに対しても手を抜かなかったって事か」
「そういうことさ」
相手に対して失礼だから本気で打つ。なるほど確かにそうだったのかも知れない。
しかし以前邦実はこころに対して、手加減して警策を打っていた。あれは何故だったのか? こころが本気で坐っていないのが分かっていたから、邦実も手を抜いたのだろうか? 邦実は一体何を考えていたのか――。
憎たらしいはげ頭の女の顔を思い浮かべると、一つ思い当たることがあった。
邦実はその前日に、慧乃に肩を思いっきり打たれて涙を流すほど痛い思いをしていた。同じようにこころの肩を打ったらこころはどう感じるのか。それが分かっていたから、邦実はこころに対してだけ手を抜いたのではないか。何しろこころは慧乃と違ってぺったんこではなかったのだから。
「でももう君には警策はしないよ。これからは自分で自分に警策をするようにね」
「自分を思いっきり引っぱたくのは、勇気がいるなあ」
「だろうね。でも、人に成るというのはそういうことさ」
人に成る。人成山は、人が人に成るための山。人は人に生まれただけでは人に成ることは出来ない。年を重ねて老いることは誰にでも出来ても、人へ成長するためには自分で努力しなければならない。
そのために、自分の過ちは自分で正せということだろう。でもそんなこと、言うのは簡単でも実行するのは果てしなく難しい。誰だって自分が大好きで、自分が過ちを犯していることにすら気がつこうとしない。だからこそ自分への警策は重要な意味を持つのだろう。
「そういえば無心について、何か気がつくことがあったようだね」
黙り込んで思案にくれていると、思い出したように慧乃が呟いた。
目の前に置いた小さな鏡をちらと見て、それから答える。
「どうだかな。こころの見つけた答えとは違ったみたいだし」
「それはそうだろうねえ」
何か含みのある答えに、思わず尋ねた。
「どういうことだ?」
「いつだったか君は私に、悟りとは何か、だなんて質問をしただろう?」
しただろうか? 記憶をたどると、確かにしていた。
あの坊主の呪いが気になるとハナが言い出して、悟りって何だと慧乃に問いかけていた。
あの時慧乃はとぼけて答えを返してはくれなかったはずだ。
頷いて慧乃に続きを促す。
「悟りというのは、それ単体で存在できるものではなくて、迷いがあるから悟りがあるのさ。悟りと迷いは表裏一体。つまり、迷いの数だけ悟りがあるということなの。分かるかい? 君の迷いには君の答えが。こころさんの迷いには、こころさんの答えがあったのさ。それだけのことだよ」
「そんなもんかねえ」
無心とは何か。
同じ問いかけに対して、こころはこころの答えを出した。
そういえば、慧乃は何かしら人成山の問題にぶつかると、こちらに何か分かったら答え合わせをしようと言ってきていた。
あれは答えが合っているかどうか確かめたかったのではなくて、同じ問題に対して他の誰かが出した答えがどんなものなのかを知りたかったのだろう。
そうだ。慧乃はいつだって、人成山の呪いに対してこれはこうだと教えてくれたりはしない。何か思わせぶりなことを言ったり言わなかったりして、こちらが答えを出すように仕向けてくる。
それは慧乃が意地悪だったからではなくて、自分の迷いに対する答えを出せるのは、自分に他ならないと深く理解していたからだろう。
「さて、ここしばらく君は坐禅を続けていたみたいだけれど、どうだったかな? もう坐るのには慣れたかな?」
「全くだ。足は痛いし眠くなるし、向いてない気がする」
「あらら。でもそういうものだよねえ」
私も実はあんまり慣れないだなんて本当かどうか怪しい一言を口にしながら慧乃は小さく笑って、それから諭すような口調でまた語り始める。
「坐禅坐禅と言うけれど、本来『坐』と『禅』は違うもののようだね」
「そうなのか?」
「昔の中国のお坊さんが、
外、一切の境界に於いて心念起こらざるを名付けて『坐』とし、
内、自性を見て動ぜざるを名付けて『禅』となす、
と『坐』と『禅』について説明したそうだよ」
『坐』と『禅』。外と内。
坐禅と言うからには、外と内両方において心を落ち着けなければならないということか。これまた難しいことを言う人も居たもんだ。
「君とこころさんは違った道をたどったかも知れないけれど、結局行き着くところは一緒だったようだね。君は自分と外との境界を取り払うことで、こころさんは自分を真っ直ぐに見据えることで、自分という存在を取り囲むかけがえのないものの存在に気がつくことが出来た」
「出来たかどうかは分からんけどな」
素直に褒められたのが気恥ずかしくなって軽口で返すと、慧乃はやはり笑って答える。
「かも知れないね」
「そこは否定してくれよ」
「だって君は、何かというと自分の中でだけあれこれ考えてしまうだろう?」
それを言われると言い返せない。
いつもいつも問題にぶつかってはあれこれ思案に暮れて、自分で考えた事にまた頭を悩ませてきた。それを慧乃はよーく分かっている。恐らく自分以上に。
「ま、こころさんもこころさんで、周りの環境に流されて自分を見失ってしまいがちだけれどね」
「そう言わてみりゃ、そうだったな」
こころは無心になると口にする割に、ちょっとすると心を揺らしていた。
「悪いことではないのさ。でも、偏りすぎるのは良くないだろうね。さっき言ったとおり、悟りと迷いは表裏一体だよ。迷いが悟りになるように、ちょっとした拍子に悟りも迷いになってしまうのだから」
「悟りが迷いに。そうならないためには、自分で自分に警策を打てってことか」
「その通り。警策の手を緩めてはいけないよ。
行もまた禅、坐もまた禅。語黙動静体安然。坐禅するだけが禅ではないよ。語るとき黙するとき、動くとき動かないとき、日常生活の全てが禅だからね」
「まーた難しそうだなあ」
「難しいだろうねえ」
でも、それが出来て初めて人に成れるのだろう。
自分自身に警策を。
やろうと思ってもなかなか出来ないことだ。でも、いつだって誰かが警策してくれるとは限らない。唯一自分に対していつでも警策を打てるのは、他でもない自分自身だ。
だって自分は、いつだってここに居るのだから。
胸をそっと押さえると、慧乃はこちらの心中を読み取ったのか優しく微笑んだ。
そして手を伸ばすと、正面に置いてあった小さな鏡を取った。
「無心というのは、鏡のようなものだね」
「どういうことだ?」
結局分からなかった、こころから手渡された鏡の意味。
君はどう思うんだい? なんて返されるのではないかと身構えたが、慧乃は鏡を覗き込み、続いてこちらへと鏡面を向けた。
「鏡は映す物を選ばないよ。それがどんな物でもそのままに映してしまう。人の心は、なかなかそういう風にはいかないものだろう?」
問いかけに一瞬思案したが、確かにその通りだった。
頷くと、慧乃は続きを口にする。
「どうしても人は先入観で映す物を選んでしまうね。本来の姿とは別の物を映してしまいがちなものさ。君は最初邦実さんのことを毛嫌いしていたし、私のことを気の触れた狂人だと見ていただろう?」
「確かにな」
「あ、認めるんだ」
慧乃はふてくされたような表情を作って、それからじとっとした視線をこちらへと向けたが、「悪かったよ」と謝ると笑顔を作る。
「とにかく、だ。誰しも心に映り込む何かを、どうしても自分の都合の良いように映しがちなものさ。でも本当は、目の前にあるものをあるがままに映すべきだろう? そのためには、心の鏡はいつも綺麗にしておかないといけないよ。この鏡のように曇りなく、映す込む何かを――自分自身すらあるがままに映せるようにね。それが私の考える無心かな」
慧乃の答え合わせ。
無心とは何か、なんて荒唐無稽な問いかけに対する慧乃の答えをきいて、もう一度胸に手を当てる。
自分はこれまで、あるものをあるがままに見てきただろうか?
答えは明白だった。見てこなかったから、無心とは何かという問いかけにこれほど心を悩ませたのだから。
どうしたら心の鏡を綺麗に出来るのか。答えは既に出ている。――自分自身に警策を。
「やっぱり難しそうだ」
「だろうね。でも気が変わったよ。君が道を外れそうなときは、容赦なく警策してあげるから」
「そりゃありがたいことだね」
「お礼はいらないよ。私の好きでやっていることだからね。それに、誰かを思いっきり叩ける機会はなかなかないものだよ。それ以上に私に小言を言われた時の君の何とも言えない表情が好きなのだけど」
「ふうん」
空返事をして、意地の悪い笑みを浮かべた慧乃の表情を真顔で見つめていると、慧乃の方が折れたのか首をかしげて声を発した。
「あら? 怒らないのかな?」
馬鹿げた問いかけだ。
でも答えないわけにもいかず、返答する。
「そんな言葉じゃ、あのこころだって揺れやしないぞ。だいたい全く慧乃らしさがない」
「あらまあ」
冗談みたいにぽかんと口を開けた慧乃は、それでもやっぱり微笑んで、人差し指をぴんっと立てた右手を前につきだして一つ尋ねた。
「なら一つ尋ねるけれど、君は私をどんな風に見ているのかな?」
問いかけに、今度は頭を悩ませる。
自分は慧乃をどう見ていたのか。
曇りのない心で慧乃を見たら、どんな風に映るのか?
――いや。それは慧乃の出した答えだ。
慧乃には慧乃の。自分には自分の答えがある。
自分が慧乃だったとしたら、どうしてそんな質問をしたのか。
慧乃はどんな風に見られていると思っているのか――。どんな風に見てもらいたいのか――。その先で、どんな人間に成りたいのか――。
「……答えて欲しかったなあ」
長い間黙って思案に暮れていると、慧乃が残念そうに思いを吐露した。
「だろうなあ。結局お前も、分かってなかったのか」
返す言葉に、慧乃は恥ずかしそうに微笑む。
「自分のことをきちんと分かる人間に成っていたのなら、人成山の呪いにはかからなかっただろうね」
「まあそうだよなあ」
「でもだからこそ、警策の手を緩めてはいけないのさ。私も君には容赦しないから、君も私が自分自身への警策を怠っていたら、遠慮なく警策して欲しいよ」
「ああ、お前に対しては遠慮なんてしないよ。だいたいお前は邦実と違って、思いっきり引っぱたいても肩紐が食い込んで痛いとか言い出さないだろうし」
「あ」
ことん、と音を立てて、慧乃が手にしていた鏡が畳の上に落ちた。
「え?」
真っ直ぐに見据えた慧乃の鳶色の瞳は、いつものきらきらとした輝きをまるで失って、深い波間のようにただゆらゆらと揺れていた。
「言わなくても良いことを言ってしまうのは、君の良いところだとは思うけれど、二度も同じことを言うとはねえ」
「悪かった。ホントにすまん」
あまりの剣幕に慌てて謝ったが、慧乃は音も立てずにすっと立ち上がり、先ほど片付けた樫の棒を手にする。
「私もたまには、邦実さんを見習って自分の気持ちに素直になってみようかな」
「いやー、邦実の真似はあまり感心しないなあ」
「頭を下げなさい」
とん、と肩に警策が置かれる。
「待ってくれ慧乃。弁解させてくれ」
「下げなさい」
「はい」
あまりの強い語気に反論する気力も失って、ただ返事をして頭を下げた。
慧乃は場所を確かめるように肩の上で警策を数回上下させて、それから思いっきり振りかぶった。
「私は確かに言ったからね。君には容赦しないって」
自分自身への警策を怠ってはいけない。
警策怠るところに、災い生じる。
心は誰かを映す鏡。鏡が曇っていれば、そこに映る相手の姿も曇ってしまうのだから。




