三月目 其の三 こころの鏡⑦
好凮寺へ戻る頃にはすっかり日が落ちていて、暗がりの山門では蝋燭を持った坊主君が待っていてくれた。
「ごめんね、わざわざ待っててくれたんだ」
「お構いなく。自分と長洲さんは同じお師匠様の弟子ですから」
坊主君は蝋燭でわたしの足下を照らして、歩幅を揃えて大方丈へとゆっくり歩いてくれる。
「邦実様は小方丈かな?」
「はい。直ぐにお戻りになりました」
「そっか。話したいこともあったけど明日にした方が良いね」
話しかけると、坊主君はそんなわたしの顔を感情の薄い瞳で見つめた。一見何も考えていないような表情だったが、わたしには、笑っているように感じた。
「何か得るところがあったようですね」
不思議なその物言いに首をかしげる。
「得るところって、なに?」
「長洲さんは、無心について何か気がついたことがあるように見えたので」
坊主君の言葉を頭の中で反芻する。
無心とは何だろう。無心、無心……。
「そうだ無心! すっかり忘れてた!」
この一週間邦実様のことばかり考えていて、無心について考えている余裕なんて全くなかった。ようやっと坊主君の言葉で思い出せたが当初の目的をすっかり忘れ去ってわたしと来たらどんなとんでもない頭をしてるんだ全くもう!
自分の馬鹿さ加減にあきれかえっていると坊主君は何故か微笑んでいるように見えた。
「無心になろうなろうと考えている内はなかなか無心になれないものです。無心になろうという気持ちすら空じてしまって、初めて無心にたどり着くことが出来るものかも知れないですね」
「いや、そういうのじゃなくて。単純にわたしが忘れっぽかったってだけだから……」
「自分は、それが長洲さんの良いところだと思いますよ」
「む、むう。絶対褒めてないでしょそれ。いいよ、もう」
ふてくされたふりをして、廊下の途中で坊主君と別れる。
書院までは直ぐの場所だ。坊主君にさっさと自分の部屋に戻るようあしらって。暗闇の廊下を勘を頼りに歩いて行く。
この間のわたしとは違う。
わたしの心の中には、ちゃんと仏様がいてくれる。
だから暗闇の中でも、心の瞳には真昼のように明るい廊下の姿がしっかり――
「いった――」
何かを足の小指で蹴っ飛ばした。
あまりの痛さに膝を抱えて片足で飛び上がってしまい、そのままバランスを崩した。思わず手をつこうと右手を壁のあるだろう方向へと伸ばしかけ、されど寸前で手を引っ込める。
そうだ! 学習しろわたし! ここで手を伸ばしたらこの間の二の舞――
「ごぅ」
頭から障子に突っ込んだらしく情けない声を発して、結局手をついてそのまま障子戸ごと床に倒れ込むのであった。
朝食の時間、邦実様は寝ぼけたとろんとした目をしていて、黙々と味の薄いいつもの料理を口に運んでいる。
昨晩の事故は前回より大きな音を立てたにも関わらず、邦実様のお咎めはなかった。
もしかしたら寝ていたのだろうかと考えもしたが、そんなはずもなかった。
食事が一段落した邦実様が、焦点の定まらない瞳で誰も居ない席を見つめながら呟く。
「そういえば夜中にうろつくなって言ってたはずよね」
「はい」
反射的に返事をすると、邦実様は眠たげな視線を坊主君へと向ける。
「食事の片付けと掃除はあんたがやりなさい」
「はい」
坊主君の返事を確認した邦実様はお茶を一口すする。
思わず邦実様に向き直って声をかけた。
「あ、あの邦実様! わたしも怪我が治ったので今日からは掃除します!」
「そんなの当然でしょ。でもあんた、その前にやることがあるでしょーよ。あたし言ったわよね。次は容赦しないって」
「は、はい」
恐る恐る返事を返すと、邦実様はやはり眠たげな視線でこちらをギロリと睨んで、冷淡に告げた。
「こころは残りなさい。坊主、さっさと食器持って出て行きなさい」
「はい」
ああ、待って坊主君! わたしと邦実様だけにしないで!
願いはむなしく、邦実様の命に忠実に従った坊主君は三人分の食器をお盆にのせて小方丈から出て行ってしまった。
そっと戸の閉められた小方丈で、邦実様はじとっとこちらを一瞥して、おもむろに立ち上がるとちゃぶ台を持ち上げた。
「ひっ」
「あんたそこ邪魔」
「すいません!」
邦実様はちゃぶ台を部屋の隅に寄せて、わたしも部屋の隅へと追いやると、鏡台の引き出しから風呂敷を取り出して鏡台の前へと広げて敷いた。
その場に椅子を一つ置くと、こちらに視線を向ける。
「座りなさい」
「あ、あの」
「座りなさい」
「はい……」
有無を言わさぬ剣幕に、邦実様が用意した椅子に大人しく腰を下ろした。
「あの邦実様。今回はその、怪我とかしてないですよ。至って健康です」
「ああん? 何こころ、あんたあたしがあんたのこと心配するとでも思ってるの?」
「はい」
「やっぱり人を見る目がないわね」
邦実様は不機嫌そうに呟く。
そしてわたしの顔を後ろから両手で押さえて正面を向けさせた。
「目を開けなさい。何が見える?」
「わたしと、邦実様です」
鏡に映る自分たちの姿を見て、素直に答える。
「そうね。それで、何かおかしいところがあるでしょうよ」
「え? ええと、すいません。分からないです、痛っ」
邦実様は無表情のままわたしの後頭部を軽く小突いた。
そしてもう一度わたしの頭を押さえて鏡を見つめさせる。
「その髪型似合ってないのよ」
「え、いや、その」
「その髪型似合ってないのよ」
「二回も言うことないじゃないですか……」
自分でも分かっていたことを指摘されて、反論の声は小さくしぼんでしまった。
「自分でも分かってるならなんでそんな髪型にしたのよ」
「学校で流行ってたんです」
「流行ってたってあんたには似合わないでしょーよ。できの悪い日本人形だってまだあんたより可愛げがあるってもんよ」
「むう」
言われたい放題だがやはり反論できない。似合わないのを承知の上でこの髪型にしたのは他でもない自分だ。
言い返せず悶えていると邦実様はそんなことお構いなしで、鏡台の引き出しからはさみを取り出す。
「切ってあげるわ」
「え? いや、ちょっと待ってください。邦実様、ちょっと待ってください。あの、その、ちょっと待ってください」
はさみを手にした丸坊主の邦実様は、とろんとした瞳を歪めてにやりと笑う。
容赦しないとは言っていたが、まさかこんな目に合うとは。ああ、グッバイわたしの髪の毛。今まで散々似合ってないって文句ばっかり言っていたけれど、別れるとなると惜しい物があるね。ああ、丸坊主になったわたしは一体どれほど滑稽になるのだろうか。それとも今よりはましになるのだろうか。
「別に丸坊主にはしないわよ」
「え? しないのですか?」
「しないわよ。何、こころはあたしの言うことが信じられないの?」
「いえ、そんなことないです。信じています」
「なら前向いてじっとしてなさい」
「はい」
言われるがままに正面を向いて、姿勢を正して座り直す。
邦実様はわたしの髪の毛を手ですきながら、小さなはさみで器用に切っていく。
「うまいですね」
「そりゃデビュー前はヘアスタイリストしてたもの」
「そうなんですか?」
「ま、邦実ちゃんは何やってもうまく出来ちゃう天才だからねー」
「はあ」
「なによそのため息は」
「いえ、深い意味は」
自分で自分のことを天才って言ってしまうのか。でもよく考えたらそれが邦実様の良いところだ。口にしたら絶対あらぬカットをされるから言わないけど。
しばらく邦実様は鼻歌なんか歌いつつご機嫌にわたしの髪の毛を切り続け、ものの十数分で完成したらしい。
「ま、こんなもんでいいでしょ。いつか切ってやろうと思ってたけど、やっと切れて清々したわ」
「あまり変わらないような」
鏡を見つめるが、確かにボブカットではなくなったが遜色ないショートヘアである。
「ちゃんと見なさい」
邦実様は強引にわたしの頭をひねって横に向ける。
横目で鏡をみるとサイドが短く切りそろえられていた。
「絶対こころは伸ばした方が似合うのよ。あ、でもロングは駄目よ。あんたが伸ばしても慧乃様みたいにはならないからよーく覚えときなさい」
どうせわたしは慧乃様みたいな髪型は似合いっこないと口をとがらせていると、軽く頭を小突かれる。
「返事」
「はい」
こんな時でも邦実様は邦実様だ。
でも、やっぱり邦実様はわたしのことをしっかり見ていてくれたんだ。
「ちょっと伸びたら整えてあげるわ。あと茶髪は二度とやるんじゃないわよ。あんたほど茶髪の似合わない人類もそうはいないわ」
「はい」
「素直でよろしい」
直ぐに返事をしたことに邦実様は喜んでくれたようだ。
鏡に映る邦実様の表情は、いつもと違ってどこか優しげで、小さい頃に見たお母さんのような笑顔だった。
「ちゃんと自分を見てあげないともったいないわよ。こころはこころなんだから」
「はい」
頷くと邦実様はふふんと鼻をならして、鏡台の引き出しを漁り始めた。
「あんたの部屋、鏡なかったでしょ。きったないのでもないよりましだろうから、ここにあった鏡あんたにあげるわ」
邦実様が取り出したのはいつぞや見た紫色の布に包まれたまあるい物体である。
邦実様が布を乱雑に取り払うと、現れた鏡はそのピカピカの鏡面を輝かせて邦実様を映した。
「あれ、こんなに綺麗だったっけ」
「邦実様が綺麗だからですよ」
「ふむ、一理あるわね。ま、これはあんたにあげるわ。ちゃんと毎日自分を見つめるのよ」
「はい」
受け取った鏡は、あの時綺麗に磨いたおかげでピカピカに輝いていた。
覗き込むとショートヘアに生まれ変わったわたしの顔が映り込む。
ちょっと笑顔を作ってみると、鏡の中のわたしも笑う。
自分を見つめる。邦実様から頂いた大切な言葉。
慧乃様は、見ていないように見えて結構見ているものだと教えてくれた。
事実、邦実様は自分のことばかり考えるように振る舞っていて、その実しっかりとわたしのことを見ていてくれた。
自分を見つめるように、自分以外の誰かを見つめることが出来る。そんな邦実様は、やっぱり素晴らしいお方なんだと思う。
手にしていた鏡を傾けると、今までわたしの映っていた鏡面に、邦実様の顔が映る。
鏡を見つめていると今まで人成山で出会った人たちの顔がぼんやりと浮かび上がってきた。
邦実様、坊主君、慧乃様、ハナちゃんに山役所のお姉さん。そして最後に、憎たらしい童貞の顔。
人成山の人は不思議な人ばかりだ。
思い返してみれば、誰も彼もがわたしのことを見ていてくれた。
わたしは、そんなふうに周りの人を見ることが出来ていただろうか?
自分を見るように、近くに居る誰かを見ることが出来ていたのだろうか?
近くに居た誰かは、そんなわたしをどんな風に見ていたのだろうか?
思いを巡らせていくと、涙がつっと頬を伝った。
「なーに泣いてるの」
邦実様が手にしたハンカチをわたしの頬にそっと当てる。
その暖かさはどこか懐かしくて、また涙が一粒あふれた。
「わたしが気づいていないだけで、みんなわたしのことを見てくれていたんだなーって」
「そりゃそうでしょ。あんたみたいなおっちょこちょい、その辺歩いてたら誰だって不安になるわよ」
容赦のない邦実様の言葉も今はどこか暖かくて、飛び出すように出てきてしまった実家のことを思い起こしてしまう。
ほとんど何も説明しないで家を出てきたけれど、お母さんもお父さんも心配してくれているだろうか?
「帰ったら?」
長いこと考え込んでいると、わたしの考えを知ってか知らずか、邦実様はこともなげにそう呟いた。
「いえ、邦実様、わたしは――」
「帰る場所があるんでしょ。帰んなさいよ」
手にした鏡をしまい込んで、邦実様の瞳を真っ直ぐに見据えて言い返す。
「わたしは邦実様の弟子ですから」
「最初に約束したでしょ、あんたは通いで好凮寺に来て修行するって」
「え? 覚えていたんですか?」
すっかり忘れられていたとばかり思っていたものだから、邦実様の口からそんな言葉が出てきたのには驚かされた。
「そりゃ邦実ちゃん記憶力抜群だから」
「食事五観文も覚えてないくせに……」
「なんですって?」
「邦実様は食事五観文すら覚えてないじゃないですか」
ぐいと顔を寄せてきた邦実様に、こちらから顔を寄せて言い返してやった。
「言うようになったじゃない」
邦実様はにやりと笑って、小さなほうきで乱暴にわたしの頭を数回払った。
わたしも手で首筋の髪の毛を払う。そして立ち上がると、邦実様へ向かって頭を下げる。
「今までお世話になりました。一度帰らせて頂きます」
「別に戻って来なくったって良いんだからね」
「そうですね。しっかり考えさせて貰います」
「それがいいわ。あんたみたいのは頭使わなくなったら終わりよ。精々よーく考える事ね」
軽口を言い合って、邦実様へと背を向けて小方丈の入り口に手をかけた。
「こころ」
邦実様に呼び止められて自然に振り返る。
邦実様は手を組んでふんぞり返った姿勢でこちらを睨んで、当然だとばかりに言葉をかけた。
「返事は?」
「はい。分かってますよ」
「分かってるなら返事くらいしなさい、馬鹿たれ」
「はいはい」
「はいは一回」
「はーい」
「伸ばさない」
「はい!」
最後の返事と同時に、戸をぴしゃりと閉めて小方丈を後にした。
これ以上邦実様と会話していたら、決心が鈍ってしまう。わたしは帰らなければいけない。
書院に戻って、作務衣を脱いで人成山に来るとき着ていた服に着替える。残りの着替えと空っぽの財布と紫色の布に包まれた鏡をカバンに詰め込んで、机の上に置いてあった禅関策進も詰め込む。
荷造りはあっという間で、部屋を片付けようにも常日頃の掃除のおかげで手をつける場所もなかった。
でも最後に、坊主君にだけは挨拶していかないと。そう思って書院を出ると、ちょうどそこに坊主君が居た。
「長洲さん、お帰りですか」
坊主君は、何もかも知っているようだった。
「うん。でも直ぐ戻ってくるから」
「はい。お待ちしております」
やっぱり坊主君はどこか不思議だ。
邦実様の一番弟子。わたしの兄弟子で、小さいけれど頼りになる男の子。坊主君も、ずっとわたしのことを見守ってくれていた。この子が居なければ、わたしは邦実様の弟子を続けてはいられなかったはずだ。
「坊主君、邦実様のことよろしくね」
「はい。長洲さんの分まできちんと面倒を見ておきます」
「そうそう。言いたいことがあるときはきちんと言わないと駄目だからね」
「善処します」
簡潔な答えに、思わずため息ついて、恐らく最も大事であろうことについて念を押しておく。
「きちんと食事をとらないと駄目だからね」
「はい」
「ホントに分かってる?」
尋ねると坊主君は頷いて、こともなげに返す。
「お師匠様が居ますから問題ありません」
「邦実様が居るから不安なんだよ。いや食事に関しては君も大概だからね。一つだけ、約束して」
人差し指をぴんと立てて突き出すと、坊主君はこくりと頷く。
「一週間に一度は必ず慧乃様に近況報告をすること。困ったことがあったら遠慮なく頼むの。分かった?」
直ぐに頷くかと思いきや、坊主君は若干の間を置いて、そして小さく笑って見せた。
「分かりました。他でもない長洲さんの頼みですから」
「大丈夫かなあ……」
不安はぬぐいきれないがこの子を信じるしかないか。きっと、うまいことやってくれる。好凮寺のことを気にかけてくれる人は慧乃様だけじゃない。きっと大丈夫。
自分にそう言い聞かせていると、坊主君が何か四角い物体を、丁寧に両手で持ってこちらに差し出してきた。
「何これ?」
「長洲さんの物ですよ」
「あ、携帯か。そういえば預けてた」
既にすっかりと存在を忘れていた携帯を受け取る。開いて画面を見てみると、電池はしっかり充電されていた。さて、坊主君は一体誰に頼んで携帯を充電したのやら。気にはなるけれど、詮索するほどでもないか。
「坊主君、いろいろありがとう――って、言って良かったかな?」
「はい。こちらこそ、ありがとうございます」
丁寧に頭を下げる坊主君に、こちらも頭を下げて返す。
別れるのはやっぱり寂しかった。でも、わたしは帰らないと。きっとみんな心配してくれてるはずだから。
「しばらくお別れだね」
「はい。どうかお気をつけて」
「うん。君もね」
名残惜しんでいたらきりがないと、坊主君に短く別れを告げるとその場から立ち去った。
大方丈を後にして山門へ向かう途中、賽銭箱の前で立ち止まる。
お賽銭をしようと思ったが、生憎財布は空っぽだった。
空っぽの財布をしまい込むと、背後から人の気配があった。
「慧乃様?」
「はずれ」
振り返るとそこにいたのは慧乃様――ではなく登山童貞であった。
「何だ童貞か」
「お前その呼び方やめろよ」
童貞はポケットから財布を取り出すと、そこから千蘊札を取り出してこちらにつきだした。
「足りない。五万蘊頂戴」
「どんだけ図々しいんだよ。この間乞食にやっちまって金欠なんだ」
「馬鹿なことするからじゃん。だったら一万蘊で良いよ」
「なんだこいつ」
言いながらも、童貞は財布から一万蘊札を取り出してこちらに差し出した。
先ほど差し出した千蘊札はそのまま賽銭箱へと入れてしまう。わたしもそれに続いて一万蘊札を賽銭箱へと入れた。
「で、その格好はどうした? ついに邦実の弟子をやめる決心がついたのか?」
「何言ってんの。邦実様の弟子をやめるわけないでしょ。一旦家に帰るの。家族も心配してるから」
「ふうん。家族ね」
そういえばこの童貞にも家族はいるはずだ。十月十日の間人成山に登り続けるこいつは、その間ずっと家族から離れて暮らすのだろう。その家族は、こいつのことを心配したりしないだろうか?
「で、無心はどうなったんだ?」
考え事をしていると、童貞に尋ねられた。
思わずその間抜けな顔を睨み付けて答える。
「はあ? 無心って、あんた何言ってんの?」
「はい?」
童貞はぽかんと口をあけて、間抜けな顔を更に間抜けにしていた。その滑稽な表情に思わず笑ってしまいそうになったが、何とかこらえて続けて口を開く。
「無心になろうだなんて思ってる内は無心になんてなれっこないでしょ」
「なんだよそれ」
童貞は納得いかない、みたいな顔して言い返してきたが、これ以上無心について話す気にもなれなかった。
でも、言っておかないといけないことがあった。
「……ありがとね」
「うん? 別に礼ならいらないぞ。どうせ賽銭箱に放り込もうとしてた金だしな」
「お金の話じゃないの」
「じゃあなんだ」
問いかけに、我ながら柄にもなくしおらしくして答えた。
「わたしが何かしら成長できたとしたらそれは邦実様と坊主君と慧乃様のおかげだけど、そのきっかけをくれたのはたぶん、あんただから」
「そうだったか?」
童貞がとぼけて答えて見せるので、わたしも同じようにとぼけて返してやった。
「さあ、どうだっけ」
童貞は苦笑いで「はっきりしろよ」と口にする。先にとぼけたのはそっちの方なのに。
でもやっぱりどこかこの人を憎めない。何故かこの人は、言葉とは別のことを内心では考えているような気がした。
「あんたは、無心について何か分かった?」
質問に童貞はもったいぶって考え込むふりをして、両手のひらを広げるて「さあ、さっぱりだ」と答える。やっぱりこの人は教えてくれない。でも、今ならそれがただ意地悪しているだけではないと理解できる。この人は、何かに気がついて、それをわたしにも気がついて欲しいと思ってる。だから直接答えを口にしたりしない。わたしの方から一歩踏み出すように、意地悪を口にして仕向けているのだ。
だからといって憎たらしいことには変わりはないし、たまにはこっちからびしっと言ってやろうと思い立って、カバンの中から紫色の布を取り出す。
「ならわたしが戻ってくるまでこれ貸しといてあげる。ちゃんと自分を見ないと駄目だからね」
「なんだこれ――鏡?」
布を広げて出てきた鏡を童貞は覗き込んで、間抜けな顔を鏡面に大きく映した。
「何で鏡だ?」
「自分で考えたら?」
一言言ってやると気分がすっきりして、最後に向けられた童貞のさぞかし不満そうな顔を目に焼き付けると身を翻して山門へと向かう。
心なしか足取りは軽く、気分も良かった。
「こころ」
背中にかけられた声に、精一杯不機嫌そうな表情を作って振り返る。
「何?」
童貞は何故かにやにやと笑っていて、気持ち悪さから更に不快な表情を向けても、やはり笑顔で声をかけてきた。
「その髪型、似合ってるぞ」
何だそんなことかと内心呟いて、折角だからとサービスで笑顔を作って大きな声で答えた。
「ばーか。当たり前でしょ! これからもっと可愛くなるから覚悟しておきなさい!」
「そりゃ楽しみだ」
馬鹿げた返答を聞き流して、でもやっぱり内心嬉しくて軽やかな足取りで山門をくぐった。
そのまま中層地区を抜け、その先の山道を下り、いよいよ人成山入り口の石造りの鳥居までやってきた。
久々に見るその光景はどこか懐かしく、鳥居を抜けた先の古びたバス停もまるでここだけ時間が止まってしまったかのように、訪れたあの日そのままだった。
バスの時刻表を調べながら、大切なことを思い出す。
「あ、お金持ってない」
財布は勿論空っぽだ。電子マネーなんて便利なものも持っていない。
「仕方ない、迎え呼ぼう」
突然帰ってびっくりさせたい気持ちもあったが、帰れないことには元も子もないのだから仕方ない。携帯電話を取りだして、自宅へと電話をかける。
「迎え来てくれるかな」
コール音を聞きながら、懐かしい家族のことを思い出す。
迎えどころか、怒って家に入れてくれないかも知れない。でもこんな状況で頼れる相手も他にはいなかった。
四度目のコールの後、相手が電話に出た。しばらくきいていなくても直ぐに分かる、お母さんの声だ。
「お母さん? いや、こころちゃんはやめてって言ってるでしょ。うん、心配かけたのは悪かったよ――いやそういうんじゃないから。女の人のとこだから――いやそういうのでもないから! ちゃんとした人だよ! うん、帰るよ、帰るから。迎え来て欲しいの、お父さんいる? あー、居るね、相変わらずうるさい。うん、代わって。
あ、お父さん? こころちゃんはやめろって言ってるでしょ! 心配かけたのは悪かったって。違うし、そういうんじゃないの! 彼氏じゃないって! 女の人――いや彼女でもないよ! ちゃんとした人だよ! とにかく迎え来て欲しいの! 人成山入り口ってバス停なんだけど。うん、詳しい場所は……。分かった? うん、いいよゆっくりで。四時間くらい? 分かった分かった待ってるよ。いや、やめて、兄貴には代わらないで。いいって言ってるでしょ! もう! じゃあ迎えよろしくね!」
通話を終了して携帯をポケットにしまい込む。
「相変わらずやかましい家族だった」
でも、ちゃんと心配してくれてた。お母さんもお父さんも。やっぱり、見てないようで見ていてくれてたんだ。
「四時間か……。お金もないし、行く場所もないし……」
中層まで戻る気にもなれない。外層や下層といった集落もあるらしいが、一度も行ったことがないので何処にあるかも分からない。
仕方ないのでバス停のベンチに腰を下ろして、カバンから古びた表紙の本を取り出す。
『禅関策進』。結局借りたまま持ってきてしまった。
表紙を開くと、やっぱり中身は漢文で、どうにも理解できそうにない。
でも漢字一つ一つはちゃんと読める。少しずつで良いから、漢字の意味を追ってみよう。
だってここは人成山。わたしも、人に成る努力はしないと。
一つ一つ漢字を追いかけていくと難しい漢字に当たってしまい、どうにも読めそうにないと集中が途切れた。
――その途端、ふと、何かおかしな事があった事実に気がついた。
「あれ? 電波繋がってた?」
一瞬顔を上げて思い返してみたが、直ぐに開いた本へと視線を戻す。
「どうでもいっか。この漢字は飛ばして読も」




