三月目 其の三 こころの鏡⑥
「二つには己が徳――ぎょう、の全欠と――うん?」
「はかって」
「はかってきょう」
「『く』です」
「はかって供に応ず」
いつも一緒に読んでいるはずの食事五観文。
慧乃様は今日の当番に邦実様を指名して、邦実様は任せなさいと二つ返事で了承したものの、壁に掛けられた食事五観文を見ながら読んでも難しい漢字の度につまずいて、隣でささやく坊主君に助けられては読み進めていく。
慧乃様はそんな邦実様に何も言わず、ただ邦実様が一文を読み終えるとそれを復唱するのだが、そんな態度がよりわたしを不安にさせた。
食事五観文もそうだけれど、それ以前にまず食卓に並ぶ料理が何かおかしい。
今日は邦実様が好凮寺の管理人としてふさわしいかを見極める日。だからこそか邦実様は張り切って、今日の食事の支度は任せなさいと胸を張り、買い出しから全てご自身でやった。
その間坊主君は慧乃様が来るまで徹底的に好凮寺の掃除。わたしは暗唱を命じられた般若心経を覚えると共に中層地区まで慧乃様を迎えに赴いた。邦実様は自身の思うとおりに料理に専念することができ、結果として食卓に並んだのは、形の崩れた若干焦げ付いたハンバーグである。
わたしが慧乃様をお連れして小方丈についたときには既にこれが並べられていて、流石の慧乃様も一瞬表情を変えていた。これはいけないと止めるわけにもいかずまごついていると慧乃様が不思議な笑みを浮かべて「今日は変わったお食事ですね」なんて言うものだから心臓が飛び出してしまうかと思った。対する邦実様の言葉が「今日はあたしの自信作です」だからもう何と言っていいものか分からなくなってしまった。
邦実様の辿々しい食事五観文がようやく終わると、続いて食事の合図がされる。
されどこの食事に本当に手をつけて良いのだろうか?
思いっきりハンバーグだ。牛肉と豚肉の合い挽き肉だ。わたしのおぼろげな宗教知識を巡っても仏教は肉食厳禁だったはずである。
どうしたものかと辺りの様子をうかがっていると、邦実様にじとっとした視線を向けられた。
「何よこころ、食べないの?」
「食べます、はい」
覚悟を決めて、ハンバーグを箸で一口サイズに切って口へと運ぶ。
若干焦げたハンバーグは過剰に投与された塩によってかなりしょっぱかったが、それでもちゃんと肉の味がした。
隣では慧乃様も提供された食事を食べていた。しかしその表情はどうにも読み切れず、怒っているのかそうではないのかわたしにはとても区別のつけようがなかった。
「ちょーっと塩入れすぎたかもね」
邦実様は知ってか知らずかそんな風にこともなげに呟いて、次々に食事を口へと運んでいく。久々の味のある食事だというのに、またしても味わっていられる余裕なんてなかった。
その後も邦実様はお祈りの際に「南無阿弥陀仏」と言ってしまったり、邦実様の掃除した場所だけ明らかに綺麗になっていなかったりと、慧乃様は口にこそださなかったがきちんとその辺りを確認しているようで、心の安まる隙がまるでなかった。
慧乃様は夕方近くまで好凮寺に滞在して邦実様の様子を具に観察しているようだった。
しかし夕方に坊主君がいれたお茶を頂くと、本日はこれでお暇しますと頭を下げて好凮寺を後にした。
邦実様が好凮寺の管理人として認められるかどうかは、教えてもらえなかった。
山門まで慧乃様を見送りにでると、夕刻の太陽をそのぴかぴかの頭に反射させた邦実様が自信満々に胸を張る。
「まああたしのことだから大丈夫大丈夫。慧乃様もきっと分かってくれてるはずよ」
「はい」
坊主君は頷いたが、わたしは即座には頷けなかった。
邦実様はきっと好凮寺にふさわしい管理人になれるはずだ。でも、今日の邦実様は慧乃様の瞳にどう映ったのだろうか? もしわたしが慧乃様だったら、邦実様に好凮寺を任せられるだろうか?
「す、すいません! ちょっと出かけてきます」
じっとしていられなくて山門を飛び出した。
慧乃様の後を追いかけて中層地区へと続く山道をかけていく。
やがてその道の向こうに、長い黒髪の美しい、女性の後ろ姿が目に入った。
「慧乃様!」
声をかけると慧乃様は黒髪をふわりとゆらして振り向いて、いつもの柔らかな笑みをこちらへと向ける。
「あら、何か忘れ物があったかな?」
「い、いえ、その――」
声をかけてくれた慧乃様に言葉を返そうとしたけれど、走ったせいで息が切れて思ったようにしゃべれない。
「ゆっくりでいいよ。それともお水飲むかい?」
「はい」
差し出された水筒を受け取って、一口水を飲んで息を整える。
そして、慧乃様のきらきらと輝く鳶色の瞳を真っ直ぐに見据えて、伝えなければならない思いを口にした。
「邦実様は普段はあんなじゃないんです! 今日はちょっと張り切りすぎてしまったけど、いつもはちゃんとしてる人なんです! これまでずっと怪我をしたわたしの代わりに掃除をやってくれていたし、いつだってわたしと坊主君のことを考えてくれてる人なんです! わたしにも坊主君にも邦実様が必要です! だから慧乃様、邦実様を追い出したりしないでください!」
そこまで一口に言って頭を下げる。
あんな醜態をさらした邦実様を、そう簡単に許してもらえるとは思えない。でも、どうしてもわたしには邦実様が必要なんだ。
慧乃様はわたしの思いとは裏腹に、いつもの優しい不思議な声でわたしに話しかけた。
「顔を上げてくださいこころさん。何か勘違いしているようだけれど、私は邦実さんを追い出そうと考えたことは一度もないですよ」
「え!? あの邦実様ですよ!?」
思わず出てしまった言葉に、慧乃様は声を出して笑った。
「あの邦実さんでもさ。流石にハンバーグにはちょっとびっくりしたけどね」
苦笑いする慧乃様に、わたしもつられて笑ってしまった。やっぱりあれはお寺としてあまりよろしいことではなかったみたいだ。
「師匠がどんな人なのかは、そのお弟子さんを見れば分かるものだよ。こんなにも師匠のことを思ってくれているお弟子さんがいるのだから、邦実さんが悪い人なわけないよ」
「そんな……もったいないお言葉です」
褒められてちょっと照れくさかった。顔を赤らめていると慧乃様は言葉を続ける。
「こころさんが邦実さんのことを思っているように、邦実さんもずっとこころさんたちのことを思ってくれていたはずだよ」
「思って、くれていたのでしょうか?」
きっとそうだと信じていた気持ちも、やっぱりどこかあやふやで、素直に頷くことが出来なかった。
そんなわたしに慧乃様は微笑みかける。
「言っただろう? 見ていないように見えて、結構見ているものなのさ」
見ていてくれたのだろうか? 邦実様は、わたしのことをしっかり見つめてくれていたのだろうか?
悩んでいたわたしに、慧乃様は一歩歩み寄ってきて、小さな声で内緒話をするように語りかける。
「本当は口止めされているけど、こころさんには伝えておかないといけないと思ってたの。でも、私がこんなこと言ったなんて、邦実さんに言わないでもらえると嬉しいな」
「は、はい。なんでしょうか」
恐る恐る尋ねると、慧乃様は耳元にそっと顔を寄せて呟く。
「あの日、こころさんを病院に連れて行って欲しいって頼んだのは、他でもない邦実さんですよ」
「え?」
「お腹を空かせているこころさんに、お腹いっぱいおいしいものを食べさせてあげて欲しいって頼んだのもね」
慧乃様の最初の言葉に戸惑っていると追い打ちをかけるように次の言葉が投げかけられる。言葉の意味を理解すると、不思議と涙が一粒頬を伝った。
そういえばあの日は、邦実様の指示が二転三転した日だった。
最初は外の掃除を命じられたのに、直ぐに小方丈の掃除をするように言われた。食事の当番も、邦実様の命令で坊主君と二人で行うことになった。
あの時信じていいか迷ってしまったけれど、今なら信じることが出来る。邦実様はわたしのことをきちんと見ていて、だからこそわたしに簡単な仕事を命じてくれたんだ。
「邦実様は、ずっとわたしのことを見ていてくれてたんですね」
「ちょっと不器用で照れ屋だけどね。それが邦実さんの良いところだと私は思うよ」
「はい。邦実様を信じていいか迷っていた自分が情けないです」
「迷いは晴れたかな?」
慧乃様は一歩離れると其の鳶色の瞳で優しくわたしを見つめて問いかけた。
今度こそきっちり答えようとしたけれど、結局わたしは迷ってしまった。
「そうですね――今は」
「今は?」
首をかしげる慧乃様に対して、苦笑いで答える。
「あの邦実様ですから」
「そうだねえ。あの邦実さんだものねえ」
慧乃様も口元をそっと手で押さえながらも笑って見せた。
「邦実さんを見ていると、危なっかしくてたまにどぎまぎしてしまうよ」
「それは慧乃様だからたまにで済むんです。わたしはもう、いつもいつも心が安まらないですよ」
「それはきっと、私よりこころさんのほうがしっかりしているからですよ」
「いやいやそんな。わたしなんてとても――」
手を振って否定してみせるが、慧乃様は薄らと微笑んで「そんなことないよ」だなんてつぶやく。
慧乃様は本当に不思議な人だ。慧乃様が大きく開いた鳶色の瞳は澄んだ水のように透き通っていて、見つめているとすうっと吸い込まれてしまいそうになる。
その感覚は、この一週間お祈りを捧げ続けたお釈迦様の瞳と似ていて、そう思って見つめてみると、慧乃様はとても神々しく光り輝いているように感じた。
「慧乃様は、仏様のような人ですね」
小さく、独り言のように呟くと、慧乃様は慈愛のこもった笑みを浮かべた。
「こんなにも近くに仏様はいてくれたのですね」
「はい。慧乃様は素晴らしい方です」
「それは違いますよ」
慧乃様の否定に思わず「え?」と小さく声が出てしまった。
慧乃様はやはり優しいまなざしをこちらへ向けて、その鳶色の大きな瞳に困惑した表情の女性の顔を映すと、諭すような口調でゆっくりと語り始めた。
「誰かの中に仏様を感じることが出来たのならば、こころさんのその心こそが、本当の仏様ですよ」
「わたしの、心……?」
胸に手を当ててみても手のひらに心臓の鼓動が伝わるばかりであった。
不安げに顔を上げて慧乃様の表情を見つめ直すと、慧乃様はまたにこりと笑う。
「その素敵な心を、これからも大切にしてくださいね」
「はい!」
自然とわたしは返事を返していた。
「やっぱり、邦実さんのお弟子さんは立派だね。直ぐに返事をするのは簡単そうに思えてなかなか難しいものだよ。これも日々の修行のおかげかな?」
「はい! そこだけは鍛えられていますから!」
自信満々に答えると慧乃様はやっぱり優しく微笑みかけてくれた。
「日が落ちる前に戻った方が良いでしょうね。それとも、私と一緒に来るかい?」
「いえ、邦実様が待っていますから」
意地悪な問いかけにももう迷わない。
慧乃様は演技めいて残念そうな表情を浮かべて「やっぱり嫌われちゃったかな」なんて柄にもないことを口にする。
「慧乃様、ありが――。いえ、これからもよろしくお願いします」
「こちらこそよろしく、こころさん。でも次からは普通に呼んでくれると嬉しいな」
「前向きに検討しておきます!」




