三月目 其の三 こころの鏡⑤
少し遅めの昼食を終えると、慧乃様は邦実様へとお礼を言って好凮寺を後にした。
邦実様は慧乃様を山門の所まで出て見送った後、小方丈へと戻って昼寝のため布団の支度を命じた。
「そういえばこころ、怪我してたんだってね」
「はい。ですが布団を敷くくらいなら大丈夫ですよ」
「そう? なら良いけど」
「あ! そうでした邦実様! 慧乃様から頼まれていたものがあります」
懐に入れていた手紙の存在を思い出して、腕を枕にしてちゃぶ台に突っ伏していた邦実様の目の前へと差し出す。
「慧乃様から? 何でわざわざ手紙よ」
邦実様は大きくあくびをしながら封を切って手紙を取り出すと片手でばっと広げた。
「こころ、一週間は手を使わせるなって書いてあるわよ」
「はい? お医者様は二、三日だと言ってました」
「医者と慧乃様どっちを信じるの」
「慧乃様です」
邦実様の問いかけに即座に応えると、その答えをきいて邦実様は満足そうに頷いた。
「なら従いなさい。って、追伸から先に読んじゃったわ」
突っ伏していた邦実様は顔を上げて、手紙の本文へと目を通す。
その表情が、見る間にどんよりと曇っていった。
一体慧乃様はどのような内容をしたためたのだろうか? 気にはなったが、邦実様が手にしている手紙をのぞき込むわけにもいかないので、坊主君と二人、正座して邦実様の言葉を待った。
「一週間後に、このあたしが好凮寺の管理人としてやっていけるかどうかを確かめるそうよ」
一週間後。
聞き間違いかと耳を疑ったが、邦実様は確かに一週間後と言った。
「もうすっかりあたしのことを認めてくれたもんだとばかり思ってたのに」
邦実様は不機嫌そうに唇をとがらせて、それから目線をこちらへと向けた。
「こころは一週間手が使えないんだったわね」
「はい」
慧乃様から指示されたのだから、わたしはそれに従わなければならない。
でもその場合、好凮寺はどうなってしまうのだろうか?
心配していると、邦実様の視線は隣に座る坊主君へと向いた。
「坊主、あんたがこころの分も掃除するのよ」
「はい」
坊主君は邦実様の言葉に頷く。
続いて邦実様はこちらに再び視線を向けた。
「こころ、あんたは念仏でも唱えて、ちゃんと仏さんに祈っておきなさい」
「はい」
手が使えないわたしに出来ることはそれくらいだった。
でもここはお寺で、仏様を礼拝する場所だ。だから仏様に祈ることにはちゃんと意味がある。邦実様が好凮寺の管理人としてふさわしいと認められるためには、お祈りは欠かすことが出来ない。その大役を、わたしが任されたのだ。
邦実様の次の言葉を待っていると、邦実様はじとっとした眠たげな瞳を坊主君へと向けた。
「何してんの。こころが手を使えないってきいたでしょ。あんたが布団準備すんのよ」
邦実様が命じたが、坊主君は返事をしなかった。
いつもと異なる反応に顔をしかめた邦実様に対して、坊主君は正座したまま恭しく頭を下げた。
「自分はお師匠様の弟子です。お師匠様が準備せよと命じられるのであれば拒むことは出来ません。ですがその前に、一つだけ自分の質問に答えて頂いてよろしいでしょうか?」
まだ大人に成りきっていないアルトソプラノの声。だというのにその言葉は今まで耳にしてきたどんな大人の言葉よりも重々しく、厳かな雰囲気を醸し出していた。
「何よ」
対する邦実様は不機嫌を隠すそぶりも見せず、さぞかし面倒そうに聞き返した。
一呼吸の間を置いて、坊主君が答える。
「これより一週間、お師匠様は何をなさるおつもりですか」
間髪入れずに邦実様が返した。
「何って、これまで通りよ。あたしは自分を曲げる気はないわ」
坊主君は答えに対して応答せず、そのままじっと頭を下げていた。
気がつくと、わたしも自然と手をついて頭を下げていた。どうしても、ここで言わないといけないことがあるような気がしてならなかった。
「わたしからもお願いします。わたしの不注意で怪我をしてしまったのにこのようなことをお願いするのはおこがましいかも知れません。ですが、邦実様が今まで通りの生活を続けたら、きっと慧乃様は邦実様を好凮寺の管理人として認めてはくれないと思うのです」
額を畳にぴたりとつけて頭を下げたため、邦実様の表情は覗えなかった。
それでも耳には指先で机をとんとんと叩く音と邦実様のため息が聞こえてきた。
「坊主、あんたはこのあたしが好凮寺の管理人にふさわしいと思う?」
「はい」
一寸の迷いもなく、坊主君が答えた。
「あんたは人を見る目があるわ。こころはどう? あたしが好凮寺の管理人にふさわしいと思う?」
一瞬、戸惑ってしまった。
だってこのままでは、慧乃様は邦実様を認めはしないであろうから。
でも、わたしの信じる邦実様は、きっとこのままぐうたら寝て過ごすような人ではない。その気になったら、わたしよりも坊主君よりも、そして慧乃様よりも好凮寺にふさわしい人になるはずだ。
「はい」
邦実様を信じて頷く。
「あんたは人を見る目がないわね」
邦実様は冷たくそう言い捨てた。
だけど動揺なんてしない。わたしはこれから無心になるのだ。今のはわたしの答え方が悪かったに違いない。信じてそのまま頭を下げ続けた。
しばらくするとまた邦実様がため息を吐いた。
「言っとくけど、あたしはそういうの無理だから。あくせく働いたりなんて絶対しないの。分かる? 何度だって言うけど、あたしは自分を曲げないわ」
その言葉にも、じっと頭を下げ続ける。
坊主君もわたしも、微動だにせずそのまま頭を下げていると、邦実様がしびれを切らしたのか再び口を開いた。
「分かったわよ。坊主。あたしがここを追い出されたら、あんたが管理人になりなさい」
「出来ません」
坊主君の回答に迷いはない。
何の迷いもないその回答に、邦実様は直ぐに諦めた。
「だったらこころ。あんたが管理人になりなさい」
「出来ません」
わたしにも迷いはなくなっていた。
この道はわたしが信じると決めた道だ。それに歩くのはわたし一人じゃない。わたしのとなりには、小さいけどとても頼りになる男の子がいてくれる。慧乃様もわたしたちの背中を押してくれる。もう怖いものは何もない。
「なら慧乃様が管理人になるだけよ。坊主は悟りを開くため、こころは無心になるため、慧乃様の元で修行なさい」
「「出来ません」」
心は坊主君と一つだった。
度重なる否定に、邦実様は語気を強めて言葉を発する。
「こころ、顔を上げなさい」
「はい」
命ぜられるがまま、下げていた頭を上げて、正面に坐る邦実様の顔を真っ直ぐに見据える。
いつもの眠たそうな瞳ではない。ぎらりとした、刺すような視線を受けて、それでもただ真っ直ぐに邦実様の瞳を見つめる。
「あんたは無心になって呪いを解くためにここに来たはずよね」
「はい」
「だったら、ここから出て行ってどうやって無心になるつもりなの」
邦実様のゆらりと揺れる瞳を見つめる。
答えは決まっている。道は真っ直ぐに伸びている。わたしはただ、前に進むだけだ。
「わたしは、形はどうあれ邦実様に弟子入りした身です。邦実様が好凮寺を出て行くというのなら、わたしも共に出て行きます」
邦実様はつまらなそうに「ふーん」と小さく相づちを打った。
続いて坊主君へ向かって視線を向ける。
「坊主、顔を上げなさい」
「はい」
言われるがままに頭を上げた坊主君は、感情の薄い瞳で邦実様を見つめる。
「あんたはどうすんの」
問いかけに、坊主君は一呼吸置いて静かに、されど重々しく答えた。
「自分は命を賭してお師匠様に弟子入りを懇願し、お師匠様はそれを認めてくださいました。既に身も心もこの命すらもお師匠様に預けております。自分の居る場所は、お師匠様のおそばの他にありません」
しばしの静寂。
静けさが満ちた小方丈に、中庭から鹿威しの心地良い音色が響き渡った。
鹿威しの音色の余韻がすうっと小方丈に吸い込まれていき再び静けさを取り戻すと、邦実様は机に肘をついていた右手を下ろしていつもの眠たげな視線でこちらを睨むと口を開いた。
「坊主、あんたはさっさと掃除。こころ、あんたは念仏読む前にいつも掃除してるところ教えなさい。一週間だけ、この邦実様が代わりに掃除してあげるわ」
「邦実様!」
邦実様の言葉に、坊主君とそろってまた頭を下げた。
「「ありがとうございます!」」
感謝を述べると邦実様は勢いよく立ち上がり、目の前まで歩み出た。
「身の程をわきまえなさいよあんたたち。二人とも、この邦実様が特別に弟子にしてあげてるって事を理解してんでしょうね。こころ」
「はい」
名前を呼ばれたため顔を上げて返事をした。邦実様は続いて坊主君を睨む。
「あんたも。この邦実様の弟子にして貰ったこと当然感謝してるはずよね、坊主」
「はい」
坊主の返事を受けて邦実様は言葉を続けた。
「だったらあんたら、常日頃からこのあたしに感謝してて当然でしょうが。それなのにわざわざありがとうなんて言葉を使うのは、日頃の感謝が足りてないからだわ。次その言葉を口にしたら速攻で破門よ」
そっか。そうだったのか。
邦実様はわたしたちに対して一度も感謝を述べたことはなかった。それは感謝していないのではなくて、いつもいつも感謝しているから言葉にする必要がなかったんだ。
慧乃様はわたしたちのためにお金を寄付して、更にお礼を述べた。
感謝されてしまうと見返りを求めて寄付したようになってしまうから、感謝されたくないという慧乃様の言葉。あのときはよく分からない物言いだと感じたが、今なら分かる。
邦実様はわたしたちがお寺の雑務をして邦実様の生活のお世話をしても一度もお礼を述べることはなかった。そのおかげでわたしたちは、たくさんの功徳を積むことが出来た。
功徳がどんなものなのかはわたしにはさっぱり分からないが、それはきっと、無心になるために、あるいは本願を成し遂げるために必要な物に違いない。
「分かったら返事」
「「はい」」
とん、と足をついて返事を求められたので慌てて返した。
「ほら、さっさと言われたことやりなさい。時間は待ってくれないわよ。だいたい好凮寺には働きもしないで怠けてるような奴を置いておく余裕なんてないんだから」
「「はい」」
邦実様の命を受けて坊主君は小方丈を出て行った。
わたしも邦実様と一緒に掃除用具を取りに向かう。
一週間後、慧乃様は邦実様を認めてくれるだろうか?
ううん。きっと認めてくれる。邦実様は、好凮寺にふさわしい方だ。
「邦実様! 頑張りましょうね!」
「なーに言ってんの。頑張るのはこころでしょ。そこんとこ忘れんじゃないわよ」
「はい!」




