三月目 其の三 こころの鏡④
「買って頂くだけでなく運んで頂いて、本当に何から何まで――お礼は駄目でしたね」
四人前のお豆腐を好凮寺まで持ってくれた慧乃様に「ありがとう」と言いかけたが、寸前で言い留まった。
「そうそう。お礼を言うのはこちらの方だからね。今日はいろいろとありがとう、こころさん」
「何だかやっぱりむずがゆいですね」
「無心になるためには必要なことだよ」
慧乃様がさらりと口にした言葉に、はっとして慧乃様の顔を見据えた。
「あの、慧乃様。無心についてですけど――」
「こころさんの呪いは、無心になることだったね」
「はい」
慧乃様からの問いかけに、しっかりと頷いて返した。
慧乃様はわたしの瞳をその鳶色の瞳で真っ直ぐに見据えて、真剣な表情で重ねて尋ねた。
「無心になるのに、私の助けが必要かな?」
即答しかけたが、ぐっと返事を飲み込んだ。
はいと答えたのなら慧乃様はきっと助けてくれる。
わたしに足りないものをきっと明らかにしてくれるだろう。
呪いは解きたい。こんな呪いさっさと解いて、元の大学生活に戻りたい。
でもここで慧乃様に泣きついても良いのだろうか?
一度決めた道から外れてしまって、無心になることが本当に出来るのだろうか?
少しだけ思案したが、直ぐに答えは導き出せた。
きっとこれが、わたしが無心になるための最短ルートだ。
「いいえ。わたしには、邦実様がいますから」
答えを聞いて、慧乃様は満足そうに、でもどこか寂しそうにして、
「あらら、嫌われちゃったかな」
なんて呟いて見せた。
「そういうわけではないです。ただ一度自分で決めたことですから」
「そうだったね。その道を進んで無心に成ることが出来るのか、それとも出来ないのか――」
慧乃様のゆっくりとした言葉に、今一度自分の選択が正しかったのか思案する。
確かにこれは自分の選んだ道だ。
でも、道の先が目的地に続いているとは限らない。
行き止まりかも知れないし、別の場所に繋がっているのかも知れない。
この道の先は、一体何処へと続いているのだろう――
「心が揺れたかな?」
気がつくと目と鼻の先に慧乃様の大きな鳶色の瞳があって、吸い込まれそうなその美しい輝きに驚いて思わず一歩後ずさった。
それでも慧乃様の言葉に対して精一杯見栄を張って返す。
「いえ、これから無心になるからその程度じゃ揺れません!」
答えを聞いた慧乃様はにんまり笑って、ぴんっと指を一本立てると目の前に突きだした。
「必要ないとは思うけれどね、一つだけお節介」
その言葉に自然と頷くと、慧乃様はゆっくり言葉を紡ぐ。
「こころさんの選んだ道が正しいかそうでないか。決めるのはこころさん次第ですよ」
「はい」
慧乃様の優しい言葉に強く頷いて、同時に決意を固める。邦実様を信じると決めたのは他の誰でもないわたしだ。だから、わたしが無心にたどり着けなかったとしたら悪いのはわたしだ。目的地にたどり着くその日まで決して引き返したりしない。
自分の選択の重さに身が震える。
思わず身震いしたわたしに、慧乃様は柔らかな笑みを向けて、そして優しく声をかけた。
「こころさんはきっと、この道の先でかけがえのないものを得ることが出来る。私はそう信じています」
「はい!」
慧乃様の言葉は他のどんな言葉よりも、わたしの背中を強く押し出してくれた。
わたしの選んだ道は間違ってない。だからわたしは、目的地にたどり着くまでただ真っ直ぐ進んでいけば良い。
今まで真っ暗で何も見えなかった道が、蝋燭が灯ったようにぱあっと明るくなっていくように感じた。
「慧乃様はきっと、こんなこと言われたくないと思いますけど、どうしても言わせてください。――ありがとうございます」
嫌がるかと思っていたが、慧乃様は嬉しそうに微笑んでくれた。
「お礼を言われるというのも良いものだね。こちらこそありがとう。こうしてこころさんと出会えた縁は私にとってかけがえのない宝物だよ」
「そんな滅相もない! わたしこそ!」
「素敵な巡り合わせだね。これも邦実さんとあの人のおかげかな?」
慧乃様は小さく笑ってそんな風に呟くと、大方丈に上がって奥へと進んでいった。
「? もしかしてあの登山どう――あ、慧乃様! 待ってください!」
調理場へと向かって足を進める慧乃様を、慌てて大方丈に上がって早足で追いかけた。




