三月目 其の三 こころの鏡③
味噌汁をすする音が小方丈に響く。
邦実様はお椀いっぱいの味噌汁を飲み干すと、机の上にとんとお椀を置いた。
そしてじとっとした刺すような視線をこちらへと向ける。
「けちるなとは言ったけど、無駄遣いしろと言った覚えはないわ」
「すいません。入れすぎました」
気合いを入れて料理に取りかかった結果、味噌を入れすぎた。
いつも味の薄いお浸しを食べているわたしたちに気を遣ってくれたのか慧乃様が持ってきた漬け物は塩辛く、それと合いまって塩分の多すぎる朝食となってしまった。
当然邦実様はその結果に不満なわけで、そんな味噌汁を生み出してしまったわたしをそう易々と許してくれたりしないのだ。
「私はこういうの好きですよ」
フォローのつもりだろうか、慧乃様は味噌汁を一口飲んで感想を述べる。しかし邦実様は許してくれなかった。
「こころ、食事が終わったら托鉢に行くこと。味噌代回収できるまで戻ってくるんじゃないわよ。あと坊主。あんたも連帯責任。食事の片付けはあんたが一人でやること。こころの分の掃除もよ」
「「はい」」
命令されたらはいと答えるしかないのだ。今回の件についてはわたしが悪いので言い訳する気もなかった。ただ托鉢で味噌代が回収できるかどうかは怪しいところである。
そんなこんなで、久しぶりに味のある食事も味わうことなど出来なかった。
食事が終わると言いつけの通り直ぐに支度して、中層地区へと向かう。
今日も日差しが強く、外で突っ立って恵みを求めるのは大変である。
お金を恵んでくれる人などそうはいないというのに、それでもサボるわけにも行かずに中層地区入り口近くの大通りの脇で鉢を持って立ち尽くすのだ。
日よけに笠を被っていたが、強い日差しは大地を焦がし、熱せられた地面はいかんともしがたい熱気を放つ。とても笠だけではこの猛暑日を乗り切ることは出来ない。
小銭がいくつかもらえただけでとても味噌代にはほど遠い。だというのに既に正午に近い時間となっていた。暑さに耐えかねて持ってきた水筒を開けて水を飲み干す。
「水こぼしたぞ」
そんな様子を見ていたのか、誰かに声をかけられた。
視線を上げると、例の山登り童貞である。水を飲むときに水をこぼしたことを指摘しているようだ。全くもってうざったい。
「日陰に立ってりゃ良いんだよ。この暑いのにそんなとこにいたら倒れちまうぞ」
「うっさい。お金くれないならあっち行って」
「へいへい」
童貞は空返事して、ポケットの中から紙幣を取り出すと鉢の中へ放り込んだ。
「ありがとな」
「へ?」
何故かお礼を言われた。恵みを求めていたのはわたしのはずだ。それにお金を渡して、更にお礼を述べるとはどういうことか。熱で頭をやられたのだろうか?
「ちょっと、待ってよ」
背中に声をかけるが振り向きもせず早足で去って行った。
托鉢中なので追いかけるわけにも行かない。
一体どういう風の吹き回しだろうか? 意味が分からないがお金を恵んでもらえたのだから良しとしよう。
「って、あれ嘘でしょ」
いくらもらえたのか鉢の中身を確認すると、はいっていたのはなんと五万蘊札である。日本円にして一万円。おいそれと手放せる金額ではないはずだ。少なくともわたしなら、万札を募金箱に突っ込んだりはしない。
「こんにちは。こころさん」
「慧乃様!」
手にしていた五万蘊札を鉢の中へと放り込んで、訪れた麗しい女性へと頭を下げる。
この人のことだから、味噌代が回収できるまで帰ってくるなと言われたわたしのために、寄付するつもりで来てくれたのだろう。本当に素晴らしい人だ。
「様はいらないよ」
「いえ、そういうわけにはいきません。邦実様のご命令なので」
邦実様からは再三にわたり、慧乃様に対して粗相をしてはならないと命じられている。慧乃様は良くても、わたしが慧乃様を呼び捨てにしているところを邦実様に見つかっては一大事である。
「うーん、邦実さんの命令かあ。なら仕方ないかな。――さて、私も喜捨させて頂こうかな」
慧乃様は財布から一万蘊札を取り出すと鉢の中へとそっと納めた。
そして、両手を合わせて拝むようにして頭を下げる。
「ありがとうございます」
またお礼を言われてしまった。何かがおかしいと感じて、思わず頭を上げた慧乃様へと声をかける。
「あ、あの、慧乃様? 一つ質問があるのですけど」
「あら? 何かな?」
「どうしてわたしはお礼を言われたのですか?」
「あれ? そういえば言ってなかったかな?」
慧乃様はきょとんとした表情を浮かべて首をかしげた。
かしげたいのはこちらなのだけど、もしかして変なことをきいたのだろうか。でもわたしの常識では、募金箱にお金を入れたらお礼を言われるものなのだ。しかもわたしがやっているのは誰かの為の募金ではなく、自分が食べるためのお金を恵んで頂いているのだ。お礼を言われたらおかしいでしょうよ。
「あのね、こころさん。托鉢というのは、持つ者が持たざる者へと寄進する機会を提供して功徳を積ませてあげるという行為なの」
「うん?」
ちょっとよく分からない言葉の羅列に何を言われたのかちんぷんかんぷんだった。
「つまりね、私はこころさんから、こころさんの役に立てる縁を頂いたから感謝したわけさ」
「う、うん? 何だか不思議な物言いですね。それにやっぱり、寄付して頂いたのにお礼までされるというのは変ですよ」
「そうかな? ともかく、だ。私は感謝されたかった訳ではなくて功徳を積みたいが為にこころさんへと喜捨させて頂いたわけだから、どちらかと言うと感謝の言葉は受け取りたくはないの。こころさんにありがとうと言われてしまうと、見返りを求めて喜捨したようになってしまうからね」
何だか難しい物言いだったが、どうにも托鉢というのは相手にお金を提供する機会を与えて感謝されるためのもので、恵みを求めて相手に泣きつく行為とはまるで別のことのようだ。それはわたしの持つ常識とは全く別の世界の出来事のようで、何度考え直してみてもどうにも心に引っかかるものがあったが、慧乃様が言うことだからと無理矢理に飲み込んだ。
「それにしても、他にも功徳を積ませて頂いた方がいるようだね」
慧乃様の視線は鉢の中に入っていた五万蘊札へと向いていた。
あいつもお金を入れて、お礼を言って去って行った。あれも功徳とやらを積むための行為だったのだろうか。
「さてこころさん。少しつきあって欲しいのだけれど、いいかな? ああ、勿論邦実さんからは許可を貰っているよ」
「邦実様の許可があるのなら、喜んで」
味噌代の回収は終わっていたのでこれ以上托鉢に立つこともない。
それに加えて邦実様の許可も得ているのであれば断る理由は存在しなかった。
慧乃様に示されるがままに中層地区の大通りを歩き、ほんの数十秒ほどで目的の場所に到着したらしい。
「診療所ですか?」
「うん。こころさんが怪我しているようだったから」
「ご存じだったんですね」
「見ていないように見えて、結構見ているものなのさ」
慧乃様の目はごまかせなかった。昨晩ひねった右手のことを見抜いていたのだ。
「あの、でも診察料が……。このお金を使うわけにも……」
「気にしないで。私に払わせてもらえるかな」
「そういう訳には。怪我もそんなにたいしたことないみたいですし」
「言っただろう? 私は功徳を積みたいのさ。だから遠慮はいらないよ」
本当にこの人は不思議な人だ。どうしてこの人は、わたしのことをこんなに心配してくれるのだろうか。邦実様の弟子だから? いや、そうではない気がする。この人は、きっと誰が困っていても手を差し伸べるのではないか。山役所の人が慧乃様は信頼できると語ったのは、嘘ではなかったのだ。
「分かりました。慧乃様、ありが――」
お礼を言おうとしたら、慧乃様が口元に人差し指をとんと当てた。
「お礼はいらないよ。私は功徳を積みたいだけだからね。お礼を言われるわけにはいかないのさ」
「むう」
感謝したいのにお礼を言えないというのは何ともむずがゆい。
わざわざ診療所に連れてきてもらって、診察料まで出して貰っているというのにお礼を言えないだなんて。この恩をわたしはどうやって慧乃様に返したら良いのか。
――それはきっと、無心になることなのだろう。
慧乃様は邦実様の元で修行するわたしに、無事に呪いを解くことを望んでいる。
でもどうやったら無心になれるのか。慧乃様は教えてくれない。
わたしには邦実様がいるのだから、邦実様にききなさいと慧乃様は言う。
邦実様は、わたしが無心になるきっかけを与えてくれるだろうか? 今まで何一つ為になることは教えて貰ってないけれど――。
ううん。そうじゃない。
邦実様を信じると決めたのだ。
きっと邦実様はわたしが無心になれるようにヒントを与えてくれている。
何も教えてもらえないのではない。わたしが邦実様の与えてくれたヒントに気づいていないだけなんだ。
今度こそ、邦実様を信じてみよう。
それが恐らく、無心になるための唯一の道だ。
診察の結果右手首は軽い捻挫のようで、簡易ギブスで固定され二、三日は安静にしなさいとのことであった。
待合室で待ってくれていた慧乃様に診察結果を伝えると、それまで書いていた手紙に一文書き加えて、丁寧に封筒にしまい込むと宛名を書き込んで差し出した。
「邦実様に渡してもらえるかな? こころさんにしばらくは手を使う作務をさせないように書いておいたからね。こころさんも無理はしないように。捻挫癖がついてしまうと大変だから、しっかり治るまでは安静に」
「そんな大それたことでも――」
「返事は?」
「はい」
有無を言わさぬ問いかけに、思わず返事をしてしまった。
これも邦実様の元で雑務をこなしていたおかげであろうか。
「もうお昼過ぎだね。こころさん、一緒にお昼ご飯でもどうかな? お腹空いているでしょう?」
診療所から出ると慧乃様がわたしに問いかける。
朝からずっと托鉢に立っていたためすっかり時間の感覚がなくなっていたが、山役所前の時計塔を見ると、既に正午を過ぎていた。
そして慧乃様の言うとおり、お腹は空いていた。
それはもう、正午だからとかではなく、ここしばらくまともな食事をとっていないために空いていた。
大通りを見渡すと、いくつかの飲食店があった。
目の前にある洋食店からお肉の焼ける香ばしい香りが漂ってくる。ああお肉など、いつ以来口にしていないだろうか。でもオムライスも捨てがたい。卵なんて高級品、わたしが口にすることが許されるのだろうか。
暴力的な香りを放つ洋食店の誘惑に思わず「はい」と言ってしまいそうになったが、すんでのところで踏みとどまった。
「そのですね――」
「お金は私が払うから気にしないで」
「いえ、そうではなく」
言い淀むと慧乃様は不思議そうに首をかしげた。
慧乃様の好意はありがたい。食べることが許されるのなら、お腹いっぱい食べていきたい。
でも、それは駄目だ。やってはいけないことなのだ。
「慧乃様の申し出は嬉しいですけど、わたしだけ食べる訳にはいきません」
きっぱり言うと、慧乃様は優しい笑顔を浮かべた。
「言っただろう? 邦実さんの許可は貰っているよ」
「それでも駄目です。二人がお腹を空かせているのに、わたしだけ食べることは出来ません」
重ねて拒むと、やはり慧乃様はふんわり笑った。
「二人のことが心配かな?」
「それはもう。邦実様は絶対料理しないで出されたものを食べるだけです。問題は坊主君で、あの子ときたら食べるものがあるだけでもありがたい、みたいなことを本気で思っているらしくて、お粥とお浸しがあるだけで贅沢すぎるって考えてるところがあるんです。栄養バランスとか蛋白質を摂取しようとか、そういう常識的な考えが存在しないんですよ」
まくし立てるように説明すると、慧乃様は鳶色の綺麗な瞳を輝かせてさぞかし可笑しそうに笑った。
「邦実さんも坊主君も、愛されてますね」
「愛ではないです。ちょっと怒っているんです」
「かも知れないね。では皆さんの分、何か買って帰るとしましょうか」
その申し出に、一瞬素直に「はい」と言っていいのか戸惑った。
でも慧乃様が最初に言った言葉を思い出す。
慧乃様は感謝されたいから恵んでくれているのではない。持たざるわたしたちに何かを与えることで、功徳を積みたいから恵むのだと。
それは慧乃様にとっては感謝されるより大切なことで、わたしたちは与えられることによって慧乃様に功徳を積む機会を与えることが出来る。
それでもいつか恩返しはしなければならないが、そのためにもしっかり栄養はとっておかないと。このままでは三人そろって栄養失調で倒れかねない。
「はい」
慧乃様の鳶色の瞳を真っ直ぐに見据えて頷いた。慧乃様はそれに笑顔を返してくれる。
「何が良いですか?」
「お肉!」
思わず願望が口からあふれてしまったが、考えてみればお寺でお肉はちょっとまずいのではと思い直して、小声で修正した。
「は、まずいですよね。お豆腐で」
「そうですね。お豆腐を買っていきましょうか。お肉はこころさんが呪いを解いてから、二人で食べに行きましょう」
「はい!」




