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人成山登山記録  作者: あゆつぼ
人成山登山記録 三月目
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三月目 其の三 こころの鏡②

「後片付けは出来ましたけれど、障子戸は買わないといけませんね」

「だよね……」


 早朝五時から片付けを始めたものの、へし折ってしまった木枠はどうにも修繕不可能らしかった。なんとか真っ直ぐにして障子を張り替えればいいだろうだなんてのは甘すぎる見通しだった。


 ただでさえお金がない状態なのに余計な出費を増えたことになる。これを見た邦実様はなんというのだろうか。


 ともかく朝から慧乃様が訪れるそうなので、先に掃除だ。少なくとも山門から小方丈までの間は綺麗にしておかなければならない。


「おはよう。早いのね」


 掃除の準備に取りかかろうとすると、珍しく早起きした邦実様がのっそりとやってきた。


「おはようございますお師匠様」


 坊主君が頭を下げて挨拶すると、邦実様は眠そうにしながらも頷いた。

 どうやってこれについて説明しようかと考えていると、邦実様の方から声をかけられた。


「ちょっとこころ。挨拶くらいちゃんとしなさい。まだ寝てんの? 違うでしょ。だったら言うことがあるでしょーよ」

「は、はい。おはようございます。邦実様」


 邦実様は基本的に朝起きてこないが、朝の挨拶をしないと機嫌を損ねる。普段昼過ぎに起きては「朝くらい挨拶なさい」と怒ってくるので今ひとつ納得がいかなかったりするのだが、昨晩の坊主君の言葉を思い出して、邦実様の言うことに素直に耳を傾けることにした。


 そして、駄目にしてしまった障子戸についても、隠し立てせず正直に告白することにした。


「邦実様、一つお伝えしたいことが」

「何?」


 眠たげな視線を向けて邦実様が尋ねる。


「昨晩不注意で障子戸を一枚駄目にしてしまいました」

「あー、夜中に騒いでたわね。次にあたしの睡眠を妨害したら容赦しないから」


 そう言って一枚だけ取り外さた障子戸のあった場所を眺める。


「あの、木枠が曲がってしまったので買い換える必要があります」

「どんだけ勢いよく突っ込んだのよ。で、いくら?」

「それは、ちょっと」


 障子の価格など知らなかったので首をかしげ、隣に立つ坊主君へと視線を向けた。


「一枚でしたら四万から五万蘊程度になるかと」

「四万!? たっか! 良いわよ一枚くらいなくたって。風通しも良いし、夜中は雨戸閉めときなさい」


 邦実様は雨戸が閉まることを確認すると、じとっとした視線でこちらを睨む。


「返事」

「「はい!」」


 思わず返事を返すと、邦実様は満足したらしい。


「それじゃ掃除始めるわよ。慧乃様が腰抜かすくらい綺麗にするのよ。分かってるでしょうね。こころは外、坊主は大方丈と廊下ね」

「はい」


 坊主君は邦実様の言葉に頷いて、掃除道具を取りに向かった。


「こころ返事。何回も言わせないで」

「あ、あの邦実様!」


 機嫌を損ねて目を細める邦実様に臆せず面と向かって再度告白する。


「昨晩障子戸を壊してしまったのですが」

「それはもうきいたわよ」

「いえ、その、怒らないのですか?」

「何、怒って欲しいの?」


 怒られるだろうと思っていたのに怒られなくて不安になって尋ねたものの、邦実様は意味が分からないといった感じで顔をしかめてこちらの顔をのぞき込んで尋ね返してきた。


「その、そういう訳ではないのですが――」

「はっきりなさい」

「あたっ」


 邦実様にデコピンされ思わず打たれた額を押さえる。


「今のは気持ちよく寝てたあたしを起こした罰よ。次はこれじゃ済まさないから覚悟なさい」

「う、うう」

「返事」

「はい!」


 額を押さえていると返事をしなかったことに怒った邦実様に胸ぐらを掴まれたので、慌てて返事をした。


「あとこころ。あんたみたいなおっちょこちょいは夜中に徘徊するの禁止」


 おっちょこちょいとはまた酷い言われようだ。わたしだって転びたくて転んだのではない。


「返事。いい加減にして」

「は、はい!」


 またしても凄まれたので即座に返事をする。


「どうしてもって時は蝋燭使いなさい」

「ですがもったいないから蝋燭は使うなと――」

「口答えしない。蝋燭と障子どっちが高いの」

「障子です」

「なら蝋燭使いなさい。いいわね」

「はい」


 全くもってその通りだと、返事を返した。


「最後に、あんたおっちょこちょいだから、蝋燭使うときは火事にならないように注意すること」

「別におっちょこちょいでは――」

「つべこべ言わない。返事は?」

「はい!」


 邦実様の有無を言わさぬ剣幕に思わず頷いた。


「あんたみたいなのに外の掃除任せて慧乃様に何か言われたら大変だから、あたしの部屋の掃除でもしてなさい。特に鏡は念入りに綺麗にするのよ」

「は、はい」


 何を思ったのか気変わりしたらしい邦実様に小方丈の掃除を命じられてしまったので、命令に従って小方丈へと向かった。時折こういうことがあるのも邦実様だ。でも邦実様の言うことだから、何かきっと真意があるのだろうと信じて小方丈へ入る。


 布団は朝起きたままのようで出しっ放しだったが、部屋は綺麗に片付いている。

 邦実様は慧乃様の言うことにはちゃんと従うし、部屋を散らかすことが悪いことだと知っている。普段からの掃除のおかげか小方丈は朝の軽い掃除だけで綺麗になりそうだった。


 とりあえず布団を片付けて部屋全体を掃き掃除したが、いまいち綺麗すぎて掃除した感覚がない。

 それでも念を押して掃除しておけと命ぜられた鏡だけはピカピカにしておかなければならない。これにも何かきっと、邦実様なりの考えがあるのだろう。


 どこかの部屋から運んできたらしい年代物の鏡台は、年代物らしい艶やかな質感をしていたが、鏡面はピカピカに磨かれていて埃一つついていなかった。

 自分が手を触れたところでこれ以上に綺麗にはならないだろう。しかし掃除しないわけにもいかない。


 ふと鏡台の引き出しに気がついて、中身をあらためてみた。

 中は邦実様の私物らしき化粧品だった。どれも見たことのないブランドの、いかにも高そうな奴である。

 これはふれてはいけないと引き出しを閉じて、下の段の引き出しを開けた。

 こちらは古びた香炉や書簡箱が入っていた。恐らくこの鏡台の前の持ち主の物だろう。

 その中に紫色の布に包まれた円形の物体があって、興味を引かれつい取り出してみた。


「鏡だ」


 出てきたのは円形の鏡である。

 飾り付けの少ない簡素な作りをした、まあるい形の鏡である。

 鏡面は薄らと曇っていて、正面からのぞき込むとぼやけた自分の顔が映った。


「これも鏡だよね」


 はたきで埃を落として、磨き布で鏡面を磨く。

 念入りに磨いていくと鏡面は輝きを取り戻してピカピカに輝いた。

 正面から見据えると、眠そうな顔をした女の顔が良く映る。

 思い切って鏡に向かってにこっと笑顔を作ってみた。


 ――可愛い。なんてのは自意識過剰だろうか。うん、でも悪くないよ。悪いとしたら髪型だ。

 誰だこんな髪型を流行らせた奴は。

 わたしには似合いっこないのは分かってたんだ。絶対昭和初期の学童みたいな結果に終わるって。

 でももしかしたら良くなる可能性もあるにはあったし、結果として良くはならなかったけど……。


「長洲さん?」

「あ、何、坊主君」


 気がつくと小方丈の扉が開いていて、坊主君がこちらを見ていた。

 あろうことか鏡に向かって一人でぶつぶつ言っている所を見られてしまうとは!

 恥ずかしさで爆発しそうになりながらも、慌てて鏡を布でくるみ直して引き出しの中へとしまいこんだ。


「お師匠様が食事の支度をするようにと」

「あ、ああ、食事ね。そうだった」

「二人で用意するようにとのことです」

「あれ、今日はわたしの当番だったよね」

「六宮様がいらっしゃるからでしょう」

「うーん、それは昨日から分かってたでしょ。邦実様って時折直前で指示を変えてくるよね」

「長洲さん?」


 思わず邦実様に対して愚痴をこぼしてしまうと、坊主君が意味ありげに目を細めて問いかけてきた。


「あ、そういうことじゃなくて。邦実様が間違ってるとは思わないの。ただ、直前に言うのはなーって」

「お師匠様にはお師匠様の考えがあるのでしょう」

「そうだよね。うん。きっとそうだ」


 邦実様を信じると決めたのだ。ここで折れるわけにはいかない。

 決意したばかりなのに、昨日の今日でこの有様では無心になんてなれっこないじゃないか。


「では分担して準備いたしましょう。自分はお水が足りなくなりそうなので神社に行ってきます」

「うん。お願い。それじゃあわたしはできる限り準備進めておくね」


 昨晩の事故で右手首をひねっていたので、坊主君がお水を汲みに行ってくれるのはありがたかった。その分わたしは料理を頑張らないと。

 小方丈から少し離れた場所にある調理場にたどり着くと、まず飲料水の量を確認する。

 食事を作る分にはぎりぎりと言ったところだろうか。お茶をいれたりしたらたぶんなくなっていただろう。何はともあれ、邦実様の気まぐれで坊主君が手伝いに来てくれて助かった――。


「まさか。まさかね……」


 頭を振って否定しようとしたが、昨晩の坊主君の言葉を思い出した。


 ――お師匠様のことを信じてみませんか。


 信じていいのだろうか。そんな思いは今でも持っている。

 でも、もし本気で信じてみたら、わたしは何か変われるのだろうか。無心に近づくことが出来るのだろうか?


「こころ、何ぼけっとしてるの」

「は、はい、すいません」


 背後から声をかけられて、思わず謝って水を汲み始める。


「今日はあのクソまずいお浸し作らなくて良いからね」

「はい。分かりました」


 あのおいしくないお浸しを自らの手で生産しなくて済むことにほっとして胸をなで下ろした。

 しかしあれがなくなるとして、今朝のおかずはどうなるのであろうか? まさかついにお粥と汁物のわびしい食事に突入するのであろうか。


「慧乃様が何かしら持ってきてくれるらしいから感謝しなさい。あと味噌汁の味噌けちるんじゃないわよ。慧乃様が来るんだからね。粗相のないように」

「はい!」


 何ともありがたいお言葉であった。

 本当に慧乃様には感謝してもしきれない。ああ、慧乃様。いや慧乃菩薩様。

 なんて言っていてはいけない。わたしは慧乃様よりも慕わなくてはならない人がいるのだから。


「あの、邦実菩薩様」

「その気持ち悪い呼び方やめなさい」


 うっかり変な呼び方をしたことを見るからに嫌そうに拒否されたので、すぐさま訂正した。


「はい、邦実様。今朝のことですけど――」

「先にきいておくけどその話は朝食の準備にどうしても必要なことなの?」

「いえ、そうではないです」

「なら食事の準備に専念なさい。誰があんたの代わりに掃除してるのか忘れないように」

「はい」


 有無を言わさぬ物言いに、ただ返事を返すことしか出来なかった。

 でもこれでいいのだ。きっと邦実様は何か思うところがあるのだろう。

 調理場を立ち去った邦実様を見送って、腕まくりをすると朝食の準備に取りかかった。

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