三月目 其の二 自分を観る④
今日も相変わらず天気が良かった。
既に高くまで昇った太陽はさんさんと辺りを照らし、懸命に太陽へと手を伸ばしていたはずの若葉たちまでもそのあまりの暑さにしおれてしまうほどであった。
昨晩の夜更かしのせいもあり頭はどこかぼんやりしていて、それでも登山に臨むに当たって中途半端な気持ちではならないと頬を叩き、意を決して頂上を目指す。
気温も湿度も共に高く、立ち止まっていても汗が吹き出し、一向に引いていかない。
それでも夏本番らしい暑さはどこか懐かしく、不思議と気持ちは落ち込まなかった。登山にはこれくらいのほうがちょうど良いのかも知れない。
いつもより多く休憩を挟んだため若干時間はかかりもしたが、何事もなく山頂にたどり着くことが出来た。
山頂の石碑にふれて、元来た道に戻らず、用事のある崖の方へと足を進めた。
この天気だからいないかも知れないが、念のため確認しておこう。
二輪の花が咲く崖にたどり着くと、その正面に小さな折りたたみ椅子を置き日傘を差して坐っている少女の姿が確認できた。
近寄ると向こうもこちらに気がついて、ぱあっと明るい笑顔を向ける。
「お兄ちゃん!」
「元気そうだな。しかしこの天気じゃまた熱中症で倒れやしないか」
「だいじょーぶですよ! 日傘もありますし、危ないと思ったら直ぐに山頂に戻りますから!」
危ないと思ったときには動けなくなってるような気もするが、これは本当に大丈夫なんだろうか。前回慧乃からきつく言われていたようだし、無茶しないでいてくれると良いのだが。
「しかし花を見てる感じじゃなかったが、何してたんだ?」
「えへへ。この間の坐禅の続きみたいなものです。少しでも集中出来るようにしようと思いまして。無心についても気になっていましたし」
ハナはハナなりに、あれ以来何かと考えていたようだ。自分の呪いよりも他人の呪いが気になってしまうハナだからそれも当然のことだったのかも知れない。
「わざわざここでか?」
「はい! わたしにとっては、この場所が一番集中出来る場所なんです!」
「そうか。言われてみれば、そうかも知れないな」
ハナはこの場所で日の出から日の入りまで花を見つめ続けなければならない。集中出来る、というよりかは集中しなければならない場所と言えるだろうか。
「ところでお兄ちゃんはわたしに何かご用ですか?」
「そうだった。これを見せようと思って」
ここに来た目的を思い出して、ザックから折りたたんだ模造紙を取り出す。
広げて見せると、ハナはきらきらと瞳を輝かせて模造紙に見入った。
「わあ! お家の設計図ですね!」
「家というかは小屋だけどな」
設計図にハナは満足してくれたようだ。中層で買った建築の教科書を参考にして夜更かししながらも書いた甲斐があった。
「覚えていてくれたんですね」
「そりゃあお前との約束を忘れる訳にはいかないよ」
「流石はお兄ちゃんです! えへへ。やっぱり、お兄ちゃんがお兄ちゃんで良かったです」
「そりゃどうも」
軽く返すとハナは満面の笑みをこちらに向けた。
そして受け取った設計図をまじまじと見つめて、いくつか気になったところを指摘していく。
「入り口はもっと大きくして欲しいです」
「狭い方が視界が制限されて良いかと思ったんだが、広くして大丈夫か?」
「はい! ここの景色、大好きなので、たくさん見られた方が良いです!」
「そっか。何だか違う気もするが、ハナがそう言うならそうしよう」
「あと、こんなに頑丈にしなくても大丈夫ですよ。すきま風が入っても構わないので、中のスペースをもう少し横に広く出来ませんか?」
「冬は雪も降るみたいだぞ?」
「大丈夫ですよ! 寒かったら毛布を持ち込みますから! それに、ここでお姉ちゃんと一緒に花を見つめるのがわたしの夢なんです。二人は寝転がれるようにしないと!」
「それなら横方向は場所的にまだ余裕あるし、横に広めにしようか」
「いえ、このままで大丈夫ですよ。お姉ちゃんとくっつけた方が嬉しいです!」
ハナの意見をメモ帳に書き込んでいると、自然と笑みがこぼれてしまった。
つられたように、ハナも嬉しそうに笑う。
「やっぱり、お兄ちゃんがお兄ちゃんで良かったです」
「こっちの台詞だよ。別に荷物がいくら増えようが気にしないってのに、遠慮することないだろう」
「お兄ちゃんだって、わたしのことばかり考えてます。ちょと冷えたくらいじゃへっちゃらですよ! こう見えて体は丈夫ですから!」
「熱中症で倒れてた奴が言っても説得力ないぞ」
「むー。そうやって直ぐ昔の話を引っ張り出して」
ハナはむくれていたが、その表情はどこか嬉しそうであった。
お互い顔を見合わせてほのかに笑い合う。
そうしていると、ふと、昨日好凮寺で坐禅した時には気づかなかった、大切なことに気づかされた。
果たしてこれが無心なのだろうか。
昨日坊主の示した、何か得るところ、というのはこのことであったのだろうか。
「どうしました、お兄ちゃん?」
表情の変化を読み取ってか、ハナが尋ねた。
何と答えるべきか一瞬戸惑ったが、この気づきのきっかけを与えてくれたハナに対しては、全部話してしまいたかった。ハナが与えてくれた縁に対して、こちらも応えなければという思いがあった。
「無心について、薄らとだけど気づいたことがあったみたいだ」
ハナはその言葉に落ち着いて頷くと、柔らかに微笑んだ。
「是非、教えて欲しいです」
「まだしっかりとまとまった考えがあるわけじゃないが、いつもいつも何かしら考えるときも行動するときにも、中心に居座っている自分ってものを一度余所へやってしまうことじゃないかって思ったんだ」
「自分をですか?」
「ああ。自分がどう感じるかじゃなくて、自分を対象そのものに置き換えて成り切ってしまうんだ。こうすればほら、自分は自分の中からなくなっているはずなのに、自然と相手に優しくなれるだろう? これがハナの言っていた、修行を積んだ坊さんは誰に対しても優しいってことに繋がるんじゃないかって思ったんだ」
「そういえばそんなことも言いました」
「何かを見るときも見ようとする自分を一旦捨ててしまって、自分に対して何かを見せようとする相手そのものに成り切れたなら、自分の視点からじゃ見えなかったものが見えてくるんじゃないか。なんて口で言うだけだから簡単に言えてしまうのかも知れないけど」
「見えなかったもの、ですか」
ハナは頷くと、視線を横へやって崖の元で咲く二輪の小さな花を見つめた。
二輪の花は相変わらずそこにあって、降り注ぐ強烈な太陽の光を浴びながらも、時折吹くそよとした風にその身を揺らしていた。
「相手に成り切る――。見ようとする自分を外へ――相手そのものに――」
ハナは小さく途切れ途切れに呟いてから一つ大きく頷くと、二輪の花の元へと駆け寄って微笑みかけた。
「無心というのは自分の中だけのことだと思っていたけれど、そうじゃなかったんですね」
「さあ、どうだろうな。さっきも言ったとおりまだはっきりと分かったわけじゃないからな」
「でも、そういうものの見方もあるのかも知れません。見えなかったものが、見えると良いですね」
ハナはしゃがみ込んで二輪の花へとまた微笑みかけると、手にしていた水筒の水を花の根元にそっと注いで、明るい表情で花へと語りかけた。
「また来るから、待っててね」
小屋の設計図を書き直すのに、ちゃんと机のあるところが良いとハナが言い出したので、二人で中層地区まで下山することになった。
相変わらず日差しは強く歩いているだけで汗が頬を伝ってゆくが、ハナと二人で下山しているとそんなことも忘れてしまうほどで、あれこれ話しながら歩いている間に山腹の神社までたどり着いた。
少し休憩にしようかと茶屋へと足を向けると、その入り口でこころの姿を見かけた。
ここで見かけるとは珍しいとこころの姿を観察すると、以前坊主が着ていたような僧服を身につけて、両手で鉢を持っていた。
その格好がどうにも不自然きわまりなくて、無視することも出来ずに話しかけた。
「お前、何やってんだ?」
「托鉢」
簡潔にそれだけ返したこころは、どうにもこちらに会いたくはなかったようで、視線を逸らす。
そんなこころに対して興味を持ったらしい。ハナは珍しいものを見るようにこころの姿を観察して、話しかける。
「初めまして! わたし、伊与田ハナです」
「どうも。長洲こころです」
満面の笑顔を向けるハナに対して、ぎこちない笑みと挨拶を返すこころ。
そういえばハナはこころとは初対面であった。無心について相談したときも、こころのことは話していなかったっけ。
「こころさん、ですね! すいません、托鉢って何ですか?」
気になったことを率直に尋ねたハナに、こころは戸惑いながらも応える。
「その、要するに恵んで欲しいの。お金とか、食べ物とか」
「乞食か」
「托鉢!」
余計な口を挟んだせいか、こころは顔を赤くして反論する。
どうにも他人に金品や食事を無償提供してくれと懇願することはあまり好きではないようだ。まあそりゃあそうだろうが。
「お寺の人間は営利活動に手を出したら駄目だって。でも賽銭箱のお金だけだと三人が食べて行くには足りないし、どうしたらいいかって慧乃様に相談した結果がこれ」
「お姉ちゃんのお知り合いだったのですね」
慧乃の名前が出てきたからか、ハナは俄然こころに対する興味を強めたらしい。
ハナは財布を取り出して、千蘊札をこころの持つ鉢へとそっと入れた。
「何だかよく分からないですけど、頑張ってください!」
「ありがとう、ハナ様。これでなんとか邦実様に怒られずに済みます」
ハナは様付けで呼ばれたことに「そんな大げさですよ」なんて頬を赤く染めていたが、どうにもこころの言葉は聞き流せず、尋ねた。
「邦実の命令か」
「わたしも邦実様の弟子だから」
「そりゃそうだが、お前は寺の人間じゃないだろう」
「今じゃすっかり住み込みで働かされてる」
「最初と話が違うじゃないか」
こころは一般の身でありながら寺に通って修行するという約束のはずである。
それがあっという間に寺に住まわされて、挙げ句の果てに托鉢とやらにかり出されている。
「邦実は何やってんだ?」
「邦実様ならお寺でやることがあると」
「絶対サボってるだろそれ。おいおい大丈夫か? 言わないといけないことは言っておかないと、あいつには常識が通じないぞ」
「邦実様のことを悪く言わないで」
なんて口では言っているが、表情はどこか暗い。
こころもようやく、邦実の下で修行するということの恐ろしさに気がついてしまったのだろう。こうなってしまったら無心どころの話ではないのではないか。
「本当に大丈夫か? お前から言いづらいならこっちから邦実に言ってやるぞ」
「大丈夫。だと思うけど、最近本当に邦実様で良かったのかな、なんて思うこともあるのは事実」
「だからやめとけってあれほど言ったのに」
「今なら分かる気がする。でも、一回決めたことだし、無心になるためだから」
こころは笑顔を作って見せたが、どうにも不安が残る。
財布を取り出して五千蘊札を取り出すと鉢の中へと突っ込む。
「たまに様子を見に行くよ。そっちで無心について何か分かったら教えてくれ」
「あんたもちゃんと考えておいてよ」
「分かってるって」
それだけ返すとこころの前を通り過ぎて、茶屋へと入る。
席に座ると目つきの悪い店員が注文をとりに来たので適当に注文する。
「無心、ですか」
ハナがふと呟いた。
「元々はこころさんの呪いだったのですね。えへへ、お兄ちゃんは相変わらずですね」
「姉妹そろって同じような顔をしやがって」
お節介なのは分かっているが、どうにも放っておけないのだ。
自分の呪いを解くには最低でも十月十日かかる。ただただ登って降りているだけで本当に呪いを解くことが出来るのか、それは最後まで分からない。
だからこうして、誰かの呪い解くことで安心したいのかも知れない。少しでも人に近づいて、人成山から突きつけられた呪いの答えを見つけ出すために。
「お姉ちゃんもきっと喜んでくれてますよ。お兄ちゃんのそういうところは、お姉ちゃん大好きなはずですから」
「どうだか。怪しいもんだ」
「でもお兄ちゃん。元々はこころさんの呪いだったのなら、どうしてこころさんにさっきの話をしてあげなかったんですか? きっとこころさんも、喜んだと思います」
ハナの疑問は当然のものだった。
こころだって自分の呪い解除につながるヒントを渇望しているだろう。それでも――いやだからこそ、こころに自分の気づきを教えるわけにはいかなかった。
「だろうけど、こころの呪いはこころのものだから、あいつ自身が自分で答えを見つけ出すのが一番良いに決まってるだろ。それにあいつはああ見えて根は負けず嫌いで真っ直ぐな奴だから、あっという間に答えを見つけるさ」
それをきいたハナは微笑んで、柔らかな視線を真っ直ぐこちらへと向ける。
「お兄ちゃん、お姉ちゃんみたいです」
「慧乃とは違うさ」
「そうですか? わたしはそんなことないと思いますよ」
「思い違いだろう。あいつみたいにはなれないよ」
「かも知れないですね」
ハナは意味ありげに微笑んで、やってきた抹茶を笑顔で受け取った。
人のことを慧乃のようだと言うけれど、こっちの方がだいぶ姉に毒されているじゃあないか。
「でもわたしも、こころさんがどんな風に呪いを解くのかちょっと気になってきました」
「解けるかどうかわからんがな」
「お兄ちゃんたら、心にもないことを言って」
「さあ、どうだか」
こころはきっと呪いを解いて見せるだろう。
こころがどうやって呪いを解くのか。どういう手段で無心に気づくことが出来るのか。確かに楽しみではある。
たった一つ不安があるとすれば、それはこころの師匠が邦実だということだろう。あいつの元にいてこころは本当に大丈夫だろうか? どうにも未だにあの南陽邦実という女については信用し切れてはいなかった。
さて、こころはあの邦実の元で、どのように無心へと手を伸ばすのだろうか。




