三月目 其の二 自分を観る①
翌日もすっきりとした天気で、どうにもこのまま本格的に夏になりそうであった。
照りつける太陽から逃れるように、緑の屋根が続くメインの登山道を登り山頂の石碑の元へと赴くと、下りは刺すような日差しに焼かれながら好凮寺へと続く登山道を歩いた。
時折吹く風も、いよいよ本気を出した太陽の前では無為に等しく、大粒の汗を流しながら好凮寺の山門をくぐった。
一応修行させて貰っている身なので、賽銭箱に一〇〇蘊硬貨をそっと落として手を合わせる。
そんな折、後ろから人がやってくる気配があった。
振り返ると坊主が大きな桶に水を汲んで運んできていた。坊主の小さな体に桶はいささか大きく、よろよろとおぼつかない足取りで少しずつ進んでいた。
思わず歩み寄り、桶の取っ手を掴んだ。
「運んでやるよ」
「いえ、これはお師匠様から運んでこいと命じられたものですから」
「邦実なら誰が運んでこようが気にしないだろ。それに、そんな危なっかしく運んでたらいつか水をこぼしちまうぞ。たかが一滴だって、その一滴は命の一滴だそうだから」
「命の一滴ですか。懐かしい言葉ですね。では、手伝って頂いてよろしいでしょうか?」
「もちろん」
桶を両手で受け取り軽く上下させてみる。そこそこ重いがこの間担いで運んだ水に比べれば随分と楽だ。
「寺の井戸は駄目なのか?」
「飲料水としては使えませんから。中層地区か、人成山神社まで水を頂きに行かなくてはならないのです」
「そうだったか。いや、神社の水は門外不出だってきいたぞ?」
以前知佳子からきいたことを思い出して尋ねると、坊主は頷いて肯定を示してから答えた。
「その通りですが好凮寺は人成山神社と縁のあるお寺で、特別にお水を使わせて頂いている歴史があるのだそうです。昨日、六宮様から伺いました」
「へえ。相変わらずあいつは何かと詳しいな」
「六宮様は不思議な方です」
「そっちに弟子入りした方が良かったんじゃないか?」
冗談のつもりで言ってみると、坊主は珍しく笑みを見せた。
「かも知れないですね。あ、お師匠様には今のは内密にお願いします」
こいつもそんな冗談を言うのかと驚いた。しかし考えてみれば坊主だって、恐らく中学生くらいの歳のはずだ。どうにも落ち着きがあるというか、しっかりしているせいで忘れがちだが。
「人成山に来る前はどうしてたんだ? やっぱり寺で修行してたのか?」
「修行していたことは間違いありません。実家がお寺でしたので、父に厳しく鍛えられていました。ですが義務教育期間中ですので、普通に学校にも通っていましたよ」
「実家が寺ねえ。道理でちゃんとしてるわけだ。邦実に変わって好凮寺をひきついで欲しいくらいだよ」
「自分はまだ修行中の身ですから。それに、お師匠様はきっと好凮寺を良い方向に導いてくださると思います」
「そればっかりは賛同しかねるなあ。あの邦実だし」
「お師匠様も、不思議な方だと思いますよ」
「だろうが、慧乃のそれとはベクトルが違うぞ」
愚痴っている間に厨房らしき場所へとたどり着き、備え付けられていた瓶に水を移した。最後の一滴まで、こぼさぬように。
「あなたも不思議な人ですね。一滴の水の話は慧乃様からですか?」
その所作を見ていた坊主が尋ねてきた。
「いや、山頂に住んでる意地悪なばあさんからだよ。慧乃にもあれこれ言われたりしたけどな」
「そうでしたか。是非一度お会いしてみたいものです」
「山頂に行けばいつでも会えるさ」
「お師匠様のお許しが出たら伺うことにします」
こいつにとっては、邦実はあくまでお師匠様なのだ。あんなんだろうが師匠であることには変わりない。あんなんだろうが。まるで駄目なあんなんだろうが。
それはこいつが決めたことだし、慧乃が決めたことでもある。正直未だに納得はしていないが、認めないでいることも出来なさそうだ。
「あなたは無理にお師匠様に従わなくてもよろしいかと思います」
こちらの思考を読んでいるのではないかという問いかけに、一瞬たじろぎながらも返答する。
「どうしてだ?」
「あなたには六宮様がいますから」
「慧乃は別に師匠ってわけじゃないよ。あいつは誰にでもお節介焼いては楽しんでいるような人間だからな」
「そうでしょうか? 自分には六宮様はすっかりあなたにご執心なように見えます」
「ないない。だってあいつときたら、こっちが真剣に悩んで尋ねてるのに、いつもいつも「君はどう思うんだい」なんて有耶無耶に返すだけなんだから」
「そうでしたか。それはそれで六宮様らしいですね」
「慧乃らしいって何だよ」
「さて、何でしょう」
坊主はこちらの問いかけを適当にはぐらかすと、汲んできた水でお湯を沸かし、湯飲みと急須を用意する。
この坊主もやはり慧乃と同じく尋ねても真っ当な返答が返ってこないタイプの人間だ。
「これからお昼なのですが、ご一緒にどうですか?」
「んー、どうするか。貰ってもいいのか?」
「勿論です。きっとお師匠様も許してくださいます」
「それはどうだかな。ま、どうせ顔ださないといけないし頂いていこうかな」
「分かりました。では五つですね」
坊主はお茶を五つ用意するとお盆にのせて小方丈へと運んでいく。
長い廊下を進み小方丈の戸を開けると、既に弁当箱を並べて準備を整えていた女性陣の視線がこちらへと向いた。邦実に慧乃にこころの三人だ。
「って、あんたも来たの? 取り分が減るじゃないの」
口を開くなりやはり邦実は邦実であった。
しかしなんだろう。取り分が減るということは、食べていくことには異論はないらしい。反対されるのではないかと構えていたから若干拍子抜けであった。
「たくさん作りましたから、むしろちょうど良いくらいですよ」
邦実の隣に座っていた慧乃が微笑んで、座布団の位置を詰めて一人分の場所を作る。
礼を述べて座布団をその場に敷いて腰を下ろした。
坊主がお茶を配り終えると、邦実は待ってましたとばかりに手を合わせて「いただきます」と口にし箸を手に取った。
――が、直ぐに慧乃によって制止された。
「邦実さん。食事五観の偈がまだですね」
「すっかり忘れていたわ。直ぐに読みましょう。今日の当番は」
いつの間にか当番制になっていたらしい。
邦実は面子を順々に見渡して、目が合った坊主を指名した。
「坊主、あんたが当番だったわね」
「はい」
明らかに今決めた当番であったが、坊主は返事をして「それでは手を合わせましょう」と合図すると食事五観の偈を読み進めていく。
いつの間にか壁には慧乃が清書したらしき『食事五観の偈』が掲げられていて、改めて字を確認すると、なんとなく意味が伝わってくるような気がした。
『
一つには功の多少を計り彼の来処を量る
二つには己が徳行の全欠とはかって供に応ず
三つには瞋を防ぎ過貪等を離るゝを宗とす
四つには正に良薬を事とするは形枯を療ぜんが為なり
五つには道形を成ぜんが為に当に此の食を受くべし
』
つまるところ食事に対する感謝と心構えを述べているのだろう。
寺の生まれである坊主がわざわざ読まないのかと聞いていたので、お寺では食事の時にこれを読む決まりがあるのだろうか。お寺でなくても、どれも一般的な道徳の範囲のことを述べているように思える。
彼の来所を量るは、当たり前のように目の前に並んだ食事がいくつもの数奇な縁によって存在することに感謝する意味だろうし、己が徳行の全欠とはかっては、食事に値する徳を積んでいないのにこうして食べ物を得られたことに対する感謝だろう。
全て読み終えるともう一度食事に対して一礼して、邦実の「ではいただきましょう」の一言で食事が始まった。
「お弟子さんが増えるとは邦実さんの人徳のおかげでしょうか」
食事を終えると、ふと慧乃が呟く。
「まあね! あたしにとってはこのくらい当然だわ」
慧乃はこころに話しかけていたようだが代わりに邦実が胸を張って答えた。
「邦実さんは立派な方です。もう私が食事の準備をしなくても大丈夫そうですね」
「勿論――あ、ちょっと待ってください慧乃様」
思わぬ一言に慌てふためく邦実だが、慧乃は軽くあしらう。
「邦実さんが正式に好凮寺の管理人となるには、自立して生活を送れるようにしなければなりませんからね」
「そうですよね。その通りです慧乃様」
慧乃の言葉に邦実は肯定を返す他なかった。管理人になるには自立して生活する、は言い換えてみれば自立して生活できなければ管理人にはなれない、だ。
「こころさんは無心にならないといけない呪いにかかっているとききました」
「はい、その通りです」
こころが答えると、慧乃は意地の悪い笑みを浮かべてこちらの顔をのぞき込んできた。
「どうして君が突然無心だなんて言い始めたのか気になっていたのだけれど、こういうことだったの。相変わらずだねえ」
「何だよ、悪いかよ」
「まさか。悪いとは言っていないよ。それにしても無心か。難しい問題だねえ」
慧乃はぴんと飛ばした人差し指を顎に当てて何事か思案する。
そんな慧乃に対してこころが尋ねた。
「あの、慧乃様。無心になるにはどうしたらいいのでしょうか?」
こころは慧乃とは初対面だ。
だからこいつが、そんな質問をされたら「君はどう思うんだい」としか返してこないことを知らないのだろう。
しかし慧乃の答えはそれとは若干異なる物だった。
「こころさんは邦実さんの元で修行すると決めたのだから、その質問はきっと邦実さんにするべきだと思うよ。それと、様はいらないよ。慧乃って呼んでくれると嬉しいな」
これまた酷い答えだ。邦実にきけとはどういうことか。意訳するのなら「自分で考えろ」だろう。何しろ邦実はそんな質問に決して答えない。答えないというか、答えられないだろう。邦実が無心になる方法を知っているとは思えないし、そもそも無心が何かすら分かっちゃいないはずだ。
「邦実様――」
こころは慧乃の言葉を受けて、不安そうな視線を邦実へと向けた。その結果は試すまでもなかったが。
「無心ね。考えとくわ。こころも考えといて」
言うなり邦実はそそくさと立ち上がって小方丈から出て行ってしまった。
「まずは自分で考えてみなさい、って事かも知れないね」
慧乃は精一杯に邦実をフォローする言葉をかけた。こころはこころで、またしても今のでやる気に火が付いたらしい。真剣に相手にしてもらえないことを悔しいと感じるこころにとって、先ほどの邦実の態度はくるものがあったのだろう。
「考えてみます」
こころはそれだけきっぱりと言葉にすると頭を下げて、小方丈を後にした。
「無心になるだなんて、人成山もまた随分と意地の悪い呪いをかけたものだね」
「全くだ」
人ごとのように――実際人ごとなので間違いじゃないが――のんびりと呟いた慧乃の言葉に肯定を返す。
「こんなときくらい、六宮さんが意地悪じゃないと良いんだが」
「また君はそういう事を言って。良いかい? 君が悩んでいる以上、その悩みは君自身の物だよ。かつてはこころさんの呪いだったとしても、今は君の呪いでもあるのだから」
「そりゃあまあそうだろうけど」
半ばふてくされたように答えると、慧乃はにんまりと笑顔を作った。
「分かっているのなら、良く悩むことだね。どうしてこころさんの呪いを自分のものにしてしまったのか。答えの先に何があるのか。考えるのは誰だい?」
「分かってる。分かってるよ」
悩むのが自分なら答えを出せるのも自分だけ。
まだ自分の答えを出していないのだから、まずはそこから。
何しろ未だ、慧乃から出された坐禅をもう少し続けてみることに対する回答すら出せていないのだから。
「それは良かった。それなら、私はここにいたらお邪魔だね。坊主さん、お世話になりました。もし何かあったときは遠慮せずにいつでも呼んでくださいね」
「こちらこそお世話になりました。今後ともよろしくお願いします」
坊主は丁寧に平伏して礼を述べる。
慧乃はそんな坊主に一礼を返して、空になった弁当箱を片付けると小方丈を立ち去っていった。
小方丈に坊主と二人になった。坊主は慧乃の足音が遠くになると、小さな声で呟いた。
「やはり六宮様は不思議な方です」
「全くだ。ただ、いつもいつもああやって意地悪してるだけじゃなくて、本当に行き詰まったときは手を貸してくれるから」
「そうでしょうね。そのような気がします」
坊主は小声で答えて、小さく笑った。
「何かおかしかったか?」
「いえ、やはりあなたも不思議な方だと思いまして」
「何を言うかと思えば。人成山には変なやつしかいないんだ」
その答えにもやはり坊主は小さく笑って返して、いつもは無表情にしか見えない瞳を輝かせた。
「蝋燭に火を灯していても日中はそのことに気がつかないものです」
それだけ言うと満足したようで、笑うのを辞めて空になっていた湯飲みを片付け始める。
続きがあるのではないかと思って待っていたのに何も言わないので、こちらから催促した。
「結局何が言いたいんだ?」
質問に、坊主は首をかしげて、無機質な瞳でこちらを見つめて冷淡に答えた。
「さて、何でしょうね」
その答えには低くうなり声を上げるほか出来なかった。
またしても、自分で考えてみろと指摘された訳だ。
結局今やることは自分で考えることなのだろう。
悩んで悩んで、行き詰まるまで悩んで、助けを求めるのはそれからでも遅くない。
今日の分の坐禅をしようと決意して、坊主に昼食の礼を言って小方丈を出ると隣の大方丈へと向かった。




