三月目 其の一 好凮寺⑨
三人が返事を返すと満足したらしく、邦実は小方丈へと戻った。
全く最悪な女だ。人にあれこれ命じてい置いて当の本人はこれから昼寝だろうか。是非とも慧乃に今の邦実を見せてやりたいものだ。
「今日は慧乃は来たのか?」
「はい。先ほどまでいらっしゃっていて、昼食をごちそうになりました」
「入れ違いになったか。道理で邦実が好き勝手してるはずだ」
今日はもう慧乃が来ないからといい気になっているのだろう。このままではこころまで自分のためにこきつかいかねない。
「掃除は大切ですから」
「そうだな。じゃ、さっさと終わらせるか」
坊主と分担して大方丈と廊下の掃除をあらかた終わらせると、境内の掃き掃除を終えたこころが戻ってきた。
「お祈りは? 邦実を呼ばなくていいのか?」
「はい。お師匠様から自分がやるようにと仰せつかっています。お二人も一緒にどうでしょう?」
「ついにここまで投げたか……。ま、いいさ。邦実がいないほうが静かでいい」
「そのようなこと、言うものではありませんよ」
坊主はやんわりそう言うと、仏像の前の座布団に座って礼拝する。
同じようにこころとその後ろに坐って、仏像を拝んだ。
坊主は邦実とは違い、一つ一つの動作に無駄がなく、手を合わせると何事か念仏らしき物を唱えていた。これが本当のお祈りなのだろうと。邦実が今までやってきたのとはまるで違うその雰囲気にのまれて、いつの間にか手を合わせて仏像に頭を下げていた。
「さて、それでは修行――と言いましても自分も修行中の身ですのであまり指導は出来ないのですが、せっかくいらしたのですから少しだけ坐って行きませんか?」
「元からそのつもりで来たんだ」
「同じく」
坊主に返すとこころも頷く。
「では、坐りましょうか」
前回同様に座布団を用意して、こころのために坊主が坐り方を一通り教授すると、坊主は短い線香を取り出した。
「この線香は燃え尽きるのにおおよそ十五分かかります。この線香が燃えている間、坐ってみましょう」
「十五分か」
昨日の坐禅も十五分だった。十五分間どころか一分たりとも集中を保てなかったが、まずは十五分くらい出来るようならなければならないのだろう。そうでなければ無心など夢のまた夢だ。
「あまり無心を意識せず、自分の呼吸だけ数えてみましょう。あれこれ考えるのは、それからの方がいいと思います」
「だな」
「分かった」
今一度足の位置を直して、坐る準備を整える。
準備が出来ると、坊主が火をつけた線香を立てて拍子木を打った。坊主も自身の座布団へと戻り坐禅を開始する。
戸を開けられた大方丈には周りからいろんな音が入ってくる。
添水の音、鳥や蝉の鳴き声、風の吹く音。
耳に入ってくるそんな音を気にしないようにして、ゆっくりと息を吐いては吸って、呼吸を数えていく。
ひとつ、ふたつ、みっつ……。
こころの方は大丈夫だろうか? いきなり坐れと言われて、ちゃんと出来ているだろうか?
なんて考え事をしていたら、幾つまで数えたか分からなくなっていた。むっつまでは数えた覚えがある。ななつはどうかと問われると微妙なところで、仕方なく最初から数え直すことにした。
ひとつ、ふたつ、みっつ……。
蝉の声がきこえる。どうも大方丈の柱にとまったらしく、大きくがなりたてるように鳴き声を上げる。こんな時に何もそこにとまらなくたっていいだろうに。
そしてまた数を忘れてしまった。最初からやり直し。
ひとつ、ふたつ、みっつ……。
どれくらい時間が経っただろうか? ふとぼんやりとしていた目線を上げて、ほのかに煙を放つ線香を見やった。
最初とあまり長さが変わっていないように見える。
十五分なんてあっという間だと思っていたが、そうでもないみたいだ。まだまだ先は長い。考えているとまた数を忘れてしまった。集中せねば。
ひとつ、ふたつ、みっつ……。
数を数えていく。今度こそ十まで数えて見せると意気込んで数を数えた。
ななーつ。
ななつを数えた。次は八だ。これは新記録かも知れない。
どたどたと廊下を走る足音が聞こえる。
ぼんやり開いた視界の中に、邦実の姿が映った。
「ちょっとあたしの寝間着どこ干したの――って何、また辛気くさいことやってるの? 仕方ないわね、手伝ってあげるわ」
邦実は仏具の置かれていた場所から樫の棒を取り出して、ずかずかとこちらに歩いてきた。
こっちに来るなこっちに来るなと心中で唱えたが邦実は真っ直ぐこちらに歩いてきて、樫の棒を横にしてかつんと頭を打ってきた。
「頭を殴るなよ」
「何、あたしの指導が気にくわないっての? あんた、全然集中してなかったでしょ。駄目よ駄目。そんなんじゃ叩かれたって文句言えないわよっ!」
振り上げた棒の腹で肩を打たれる。
ばしんと鈍い音が響いて、肩に痛みが走る。この野郎、思いっきり骨を叩いてきやがった。
「結構これ難しいのね。ほら、反対。頭下げなさいよ」
「お前なあ」
「坐禅中に口をきかない。当たり前よね。ほら、頭下げなさい」
そう言われると言い返せず、仕方なく頭を下げた。
ばしーんと甲高い音が響く。今度はうまく叩いてくれたようだが、これはこれでじんじんと肩が痛む。
「うんうん。うまくいったわ。次はあんたね」
邦実は何を思ったか集中して坐っていた坊主の正面に立った。
坊主が頭を下げると、邦実はその左肩を容赦なく叩いて音を響かせる。
続いて反対側も思い切り叩くと、やることはやったとこちらに移動してくる。
邦実の足音が迫ってきて、思わずぴくりと肩が動く。
「ほらなーによそ見してんの。邦実ちゃんが可愛いのは分かるけど、集中しないと駄目でしょ」
棒の腹で頬をはたかれ、思わず言い返したくなるがぐっと飲み込んで目を瞑って無視した。
邦実はそのまま目の前を通り過ぎるとこころの正面に立つ。
「ほら、あんたも頭下げる」
こころは無言のまま頭を下げた。
その左肩に邦実は棒を軽く当てると振り上げて、ぱしんぱしんと叩いた。
続いて反対側も同じように叩く。
気のせいか音が軽く感じた。いや、本当に気のせいかも知れないが。
「やっぱりあたしにはこっちの方が向いてるみたい。じゃあね、また来るわ、あ、寝間着の場所だけ教えて」
坊主が小声で干した場所を伝えると、邦実はたいそう満足した様子で、樫の棒を肩に担いだまま大方丈を後にした。
数も呼吸もすっかり忘れてしまっていた。
されどこの程度で集中を切らすわけにいかない。肩の痛みがだいぶきついし足も痺れてきたが、それでも最初から数を数え始めた。
「ここまでにしましょう」
坊主の合図で仏像に頭を下げ、足を伸ばす。
ものの十五分と思っていたが、やはり集中し続けるのは難しい。恐らく今回も一分続けて集中し続けたことはなかっただろう。
それ程に集中するのは難しい事実と、まるで一つの事に集中できない自分のふがいなさにため息をつく。
同じように足を伸ばしていたこころも、大きくため息をついていた。
「どうした、こころ?」
「どうしたもこうしたも、全然集中できなかった」
「だろうな」
そりゃそうだと頷いて、唯一まともに集中できていたであろう坊主に尋ねる。
「お前はしっかり坐っていたみたいだが、何かコツみたいなのあるのか?」
「難しい質問ですね。恐らく最初のうちは誰もが集中出来ないものだと思います。しばらく続けなければ、そもそも足が坐禅を出来るようにならないのです」
「そうなのか? まあ無茶な姿勢だとは思っていたけど」
「続けていけば足の形が変わるので坐れるようになりますよ」
何と言うことか、そもそも物理的に集中出来ないようになっていたのか。
慧乃のもう少し続けてみろという言葉は、こういうことだったのかも知れない。
まずは体の方を坐禅できるようにしなければ、心を平静に保つことは難しかったのだ。
「だそうだけど、こころはまだ続けるのか?」
「ん? そだね。続けようかな」
素っ気ない返事に違和感を感じた。
来たときは、あんなにやる気に満ちあふれていたのに。
「なんかあったか、こころ? 坊主が言ったように、いきなりこれで集中しようなんて結構無理のある話だぞ」
「そういうことじゃないの。あのさ、あんた、肩大丈夫?」
「肩? ああ、邦実のアレか。まだ痛むよ。あいつ、骨を叩きやがったんだ」
「大丈夫ですか?」
こころへと答えると、坊主が心配して肩を確認してくれる。
「少し腫れてますね。湿布を用意してきます」
「いや別にいいのに」
止めたが坊主はきかず、どこかへと小走りで向かっていった。
こころと二人きりになると、こころはTシャツの上から自分の肩をなでてまたもやため息をついた。
「どうしたんだよ。痛いのか?」
「ううん、痛くない」
「なら何が問題なんだ?」
尋ねると、こころはふてくされたような顔を浮かべた。
「あんたが言うようにさ、全く集中なんて出来なかった。足は痛いし、蝉はうるさいし、かっこんかっこん鹿威しが鳴るし、邦実様も好き勝手あんたたち殴るし」
「そりゃそうだって。そんなもんさ。全く集中なんて出来ない。結局最後までここのつを数えることなかったし」
慰めるように言ったものの、こころの表情はいまいちぱっとしない。
その表情は人成山の呪いに対して真剣に悩む人間特有のもので、こころが何か思い詰めていることが自分のことのように理解できてしまった。
「悩み事なら話してくれよ。言ったはずだ。人成山の呪いは一人では絶対に解くことが出来ないって」
「そうだった」
こころは小さく声を出すと、体を伸ばしてから独り言のように語り始めた。
「邦実様が正面に立ったとき、わたし全然集中なんてしてなかったんだよね。自分がこれから殴られるんだなーって思うともう息を数えるどころか息することすら忘れるくらいでさ、もう全然駄目だった」
「その気持ちは分かる」
慧乃が正面に立ったとき、自分から頭を下げたことを思い出す。集中とはかけ離れたところにいて、どうにも言い逃れ出来ない状況だった。慧乃の容赦ない罰棒も、当然と言えば当然だ。微塵も集中などしていなかったのだから。
「それは良いんだけど、いや良くはないんだろうけどさ、邦実様に肩を叩かれたとき、あんまり痛くなかったんだよね」
言われて、こころが叩かれた時の音が軽かったことを思い出す。あれは気のせいなんかではなく、実際に手加減して打たれていたのか。
「あんたたちとは明らかに叩きかたが違ったから、どうしたのかなって。言ったとおりわたしはまるで集中してなかったし、叩かれて当たり前の状況だったにも関わらず、邦実様が手加減して打ってくるから――」
手加減して肩を打たれた。
そのことに対して、こころは思い悩んでいる。一体何がそんなに気になるのかと、頷いて先を促した。
「やっぱり見抜かれてたのかなーって。そこまで真剣じゃなかったとか、本気で無心になろうとしてないとか。だから邦実様はわたしには手加減して打ったのかなって」
「まさか。あの邦実がか?」
自堕落で自分中心な自我の塊であるところの邦実である。そんな邦実がそこまで考えているだろうか?
いや待てよ。本当に邦実が自我の塊であったのならば、何故こころに対して手加減して打ったりしたのだろうか――。手を抜くからには、何か理由があるはずである。女だから? 初心者だから?
もし、もし慧乃がこの場にいたとして、邦実が慧乃の肩を打つような事になったら邦実は手を抜いただろうか?
そこまで考えると、確かに何か邦実なりの考えがあったようには感じる。
「わたしは真剣なつもりだったけど、邦実様から見たらそうは見えなかったんだと思う。だから悔しい。お前なんて無心になんてなれっこないって突きつけられたような気がして、悔しくてたまらない」
手加減されて悔しいと感じる。
本気でやっていたつもりなのに、相手にはその気持ちが伝わらなかった。
その気持ちは本物のようで、こころの褐色の瞳は、これまでに見たことないほどに煌々と輝いていた。
「あんたは邦実様のことを悪く言うし、ここで修行なんてやめろって言うけど、わたしは続けてみたいと思う。邦実様にわたしは本気で無心になりに来たんだって分からせてやるまで」
「悔しいからか?」
「そう。悔しいから。だから見返してやるの」
こころの言葉に思わず小さく笑ってしまうと、こころは機嫌を損ねたらしく眉をひそめて睨んで来た。
「何、わたしおかしいこと言った?」
「いや、なんか似合わないなーって」
「どういうこと?」
不機嫌全開でで詰め寄ってくるこころに対して、言って良い物かどうか考えはしたが、結局言ってしまうことにした。慧乃曰く、言わなくて良いことを言ってしまうのが良いところらしいから、言わなくても良くたって言ってやりたかったのだ。
「こころってさ、なんか周りに流されやすそうな奴だって思ってたから」
怒るかと思ったが、返ってきた反応は微妙なものであった。
「全くその通りで反論も出来ない」
素直に認めてしまったこころはどこか嬉しそうでもあった。つん、と視線を逸らしてはいるものの、口元は緩んでいて不思議と微笑んですら見えた。
「しばらく通うつもりなら一緒だな」
「あんたもか。それじゃあさ、邦実様がわたしのことちゃんと叱ってくれるようになるまで、あんたがわたしのこと見ててよ。集中が切れてたら容赦なくひっぱたいていいから」
「いいのか、そんなこと言って」
若干演技めいて尋ねると、こころは真剣なまなざしでこちらの瞳を真っ直ぐに見据えて答えた。
「いいの。だってわたし無心にならないといけないの。邦実様の態度で分かった。無心なんて普通にしてたら絶対なれっこない。本気で無心になろうとするなら、それなりの覚悟を決めないと」
覚悟か。
たった十五分の坐禅――それどころか少しだけ顔を出した邦実によって、こころの心持ちがこんなにも変化してしまった。
もしかしたら邦実は実は凄い奴なのかも知れない。普段はまるで駄目な人間を装っていて、内心では――
等というのは流石に考えすぎか。今回はたまたまこころが勝手に邦実の行動に意味があると解釈しただけだ。あいつは無心について何にも分かっちゃいないから、こころが何か尋ねても適当にはぐらかすだけだろう。
人成山の呪いは一人では解くことが出来ない。
邦実が当てにならないのは明白なのだから、他の誰かがこころの力にならなければこころの呪いが解けることはない。
こころの身近な人物。坊主か、もしくは自分か。
少しでも可能性があるなら力になってやるのも良いかも知れない。自分が無心について知るきっかけになる可能性もあるし。
「分かったよ。ちゃんと見といてやる」
「かなり考えたでしょ今」
「癖なんだ、悪かったよ」
あれこれと思案していたことを謝ると、こころはぴんっと人差し指を真っ直ぐに立てた右手を目の前に突きだしてきた。
「わたしも、あんたのことちゃんと見てるから。何かあったら容赦なくひっぱたく」
「そりゃどうも。嬉しい限りだね」
演技混じりで答える。
こころは突きだしていた手をぱっと開いてそのまま差し出してくる。
「改めてよろしく」
「ああ――っと、危ない。こころ相手でもどうなるか分かったもんじゃないからな」
握手をしようと差し出した手を引っ込めた。
かけられた呪いは童貞が卒業できないというものではあるが、何も本番行為まで行かなくてもちょっとした下心か、あろうことか女性と接触した程度でも発動する。
慧乃のように女性としてより人間として尊敬している相手ならともかく、こころとのつきあいは女友達レベルだ。誓って下心など全くないが、呪いが発動しない保証はないのだ。
「もしかしてあんたの呪い? そういえばきいてなかった。わたしの呪い無理矢理聞き出したんだから、当然教えてくれるでしょ」
有無を言わさず詰め寄るこころに何と答えたものか。
この呪い、他人に説明するのはどうもはばかられる。特に女性に対しては。
しかしこころの態度はどうにもそれを許してはくれなさそうなので、意を決して口を開いた。
「他言は無用だ。当然邦実にも、坊主にも」
「それは勿論。二人だけの秘密にしてあげる」
実は慧乃が知っていたりするのだが、そんな野暮なことは言わないでおこう。
こころの耳元に顔を寄せて、間違っても邦実に届かぬよう小さく呟いた。
「十月十日の間人成山に登り続けないと、童貞を卒業できない呪いだ」
言葉の意味を理解するのに若干の時を要したが、理解できると同時にこころは大きな声で笑った。
「何それ、あんたそんなことのために呪い解こうとしてるの!」
「うるせー電波女。お前も大概だろうが」
「だってだって、童貞って、下らなすぎ! 十ヶ月も山登って何しようとしてんのよ! 相手はどこのどいつよ」
「いねえよ、いたこともねえよ! でももしかしたら突然出来るかも知れないだろうが!」
「ないない。絶対ない! あっはっは。こりゃ傑作だ。あーあ、誰にも言わないなんて約束するんじゃなかった」
「絶対言うなよ。言ったらタダじゃ置かないからな」
「えー、言いたい」
「おい、頭下げろ、ひっぱたいてやる」
拳を振り上げるとこころは両手のひらを突き出して制止して、笑いながら答えた。
「冗談冗談。それに、そんな呪いなら二人でいても安心だしね」
「お前なんて襲わないっての。そのボブカット似合ってないんだよ」
「うっさい。地元の大学で流行ってたの。だいたいぼさぼさ頭に言われたかないし」
こころとにらみ合い、同時に顔を背ける。
「これからよろしく」
強い口調でこころが言うので、同じように返した。
「ああよろしく」
喧嘩別れのようだが、こころの本当の気持ちは分かっていた。
これから邦実の元で修行するのだ。
こころとは、無心という同じ目的を目指す修行仲間であり、同時にライバルでもある。だからこいつとの関係性はこれで良いのだろう。
互いに切磋琢磨して、どちらが先に無心にたどり着けるか競い合う。
そんな感情は無心とはほど遠い物のように感じはするが、今は何よりも前と進む原動力が必用だ。
きっと邦実の修行はそう簡単な物ではない。あいつには指導するつもりなんて全くないし、雑用としてこき使うことだけを考えている。ひとまずは坐禅に体を慣らすまでは、その無理難題に耐え抜かなくてはならない。
そんなこんなで、坊主から湿布を受け取って肩に張って貰うと、大方丈を片付けて好凮寺を後にした。




