三月目 其の一 好凮寺⑦
足を組んだまま、頭を下げて大方丈にたたずむ仏像へ向かって頭を下げた。
「邦実さんはぐっすりだねえ。疲れていたのかな」
隣に目をやると、邦実はすっかり寝息を立てていた。
慧乃が邦実の肩を叩くと、邦実は目をぱっと開いた。
「邦実さん、もう終わりですよ」
「あら終わったの」
悪びれる様子もなく答えた邦実は、足を崩して立ち上がると大きく体を伸ばした。
「あー、だめだめ。あたしにゃ向かないわこれ」
「だろうな。もう一回ひっぱたかれろ」
「あんたは黙ってなさいよ。ほら、片付け片付け」
邦実は我先にと座布団を重ねて、元あった部屋へと持って行く。全く、集中とは正反対の場所にいる女だ。
邦実に習って全員座布団を片付けると、慧乃は坐禅堂の様子を見てくるといって大方丈から出て行った。
「慧乃様の悪魔! 鬼!」
「悪魔か鬼かどっちかにしろよ。っていうかきかれたらお前追い出されるぞ」
「だって痛かったんだもん! あ、告げ口したら許さないわよ!」
邦実は畳の上に寝転がって悪態をつく。本当に子供っぽい奴だ。
「絶対赤くなってる。紐が食い込んでめっちゃ痛かったもん」
「なんの紐だよ」
「赤くなってないか確かめてよ」
邦実が転がってきて、着ていた作務衣をはだけて肩を露出させる。相手にしたくなかったのでそっぽ向いてあしらった。
「自分で確かめろ」
「見たいくせに。分かってるのよ」
邦実はなおもこちらに体を寄せてくる。
「しつこいな。んなもん見たくも――」
邦実がはだけた作務衣の隙間から見えたのは、両端を細かい装飾で彩られた紺色の紐。それがなんだか理解すると同時に、はだけられた胸元に白く柔らかそうな物体が見えてしまい――
「痛っ!!」
目の前で稲妻が弾け眼球の表面が焼かれると同時に身をひねって視線をそらした。
触って確かめるが眼球は無事だ。未だ目の前がちかちかと調子の悪い電球みたいに瞬いているが、これくらいならしばらくすれば何とか元に戻るだろう。
「何その反応。今時中学生だってブラごときでそんなに興奮しないっての」
興奮してなどいない。いや若干したのだから呪いが発動したのだろうが。とにかくこれ以上は視力に影響がでると、邦実に背を向けた。
「大きいです!」
そんなこと知ってか知らずか、ハナは邦実の胸元に興味を示したらしい。姉がアレなので、こういうのは見慣れていないのだろう。
「そう? ハナもちょっとすりゃ大きくなるわよ。まだ小学生でしょ」
「あの、わたし中学三年――」
言いかけて言葉が途切れる。過去を思い出しそうになったせいで呪いが発動し、記憶が飛んでしまったに違いない。時折こうして思い出しかけては、前後の記憶ごとばっさり忘れさせられているのだ。
「あれ? 何でしたっけ」
「ま、未来は分からないもの。それより坊主ちょっときてよ。絶対背中赤くなってるって」
邦実は坊主を呼び寄せて、どうも背中を確認させているらしい。そこまでして確かめることでもないだろうに。
「紐の下大丈夫? 変な跡残ってない?」
「はい。問題ないと思われます」
「ならいいんだけど」
寺の坊主に一体何を確認させているのか。この常識知らずのアホ女ときたら。
「いやよくない! 痛かった! ってかまだ痛いし! 慧乃様はぺったんこだから分からないのよ!」
「ぺったんこだなんて言ってやるなよ。確かに慧乃はぺったんこかも知れないが、あいつだって好きでぺったんこになったんじゃないだろうし」
「全くだねえ。それで、君は壁に向かって何を言っているのかな?」
低く、何かこう恐ろしいところのある声が背中に投げかけられた。
恐る恐る振り向くと、慧乃がこちらにとても明るい笑みを向けていた。
同じくそちらに背中を向けるようにしていた邦実は表情を凍らせて、こっちにお前が言い訳しろと視線で促してくる。
「邦実が言い始めたんだ」
「あ、あんた! あたしを売る気!」
「両方きいてたよ。全く失礼な話だよ。私だってブラジャーくらいするからね」
「え、嘘だろ。あ、今のなし」
言ってからしまったと口をつぐんだが時既に遅し。慧乃はこちらに標的を定めにんまりと怪しい笑みを浮かべるのだ。
「さて、今日は長いことお邪魔してしまったね。邦実さん」
「は、はい!」
突然名前を呼ばれた邦実は瞬時に衣服を直し、正座して慧乃に正対した。
「もしよろしければ明日もお昼ご飯を作ってこようかと思うのだけれど、どうかな?」
「それはもう! 喜んで!」
平伏し声高々に返事をする邦実。どっちが寺の人間か分かったもんじゃない。
「それではお暇しますね。ハナちゃんはまだ残るかい?」
「お姉ちゃんと一緒に行きます!」
ハナは立ち上がり、慧乃の元へと駆け寄っていく。
さて、残る一人に慧乃はなんと声をかけてくるだろうか。
慧乃の鳶色の瞳がこちらを向いて、柔らかく微笑む。
「君はまだ残るのかな?」
さて、何と答えたものか。
しばらく留まってほとぼりが冷めるのを待つというのも手だが、早めに謝っておかないと後が怖いというのもある。
二つを天秤にかけて、結局謝ることを選んだ。
「帰ろうかな。まだ下りも残ってるし」
立ち上がり、坊主に別れを告げて慧乃の後を追いかける。
邦実がこちらに「さっさと帰れ」と声をかけて中指を立てていたが、相手にしたら負けだ。無視して大方丈を後にした。
三人で好凮寺をでて、直ぐに慧乃へと声をかけた。
「さっきのは悪かったよ」
「さっきの?」
慧乃が首をかしげる。
仕方なく、恐る恐るながら答えた。
「ブラジャーがどうのこうの」
「ああ、あれね。全く、君は時折言わなくていい一言を言ってしまう癖があるよね。まあそこが君の良いところでもあるのだけれど」
なんて、慧乃の答えは明るく、表情にも別に怒っている様子は感じ取れなかった。
「怒ってないのか?」
「怒って欲しいのかい?」
不思議な問いかけだ。正直、怒って欲しかったところもあった。悪いことを言ったとは思っていたし、慧乃だって普通の女の子に違いはない。言われれば傷つく言葉だってあるのだから。
なので答えた。あくまで控えめに。
「ちょっと」
「ちょっと?」
慧乃が微笑んで再び問う。為す術もなく、素直に答えた。
「いや、だいぶ」
「だろうね。君は表情が分かりやすいから、直ぐ分かったよ。でも、それなら怒ったりしないよ」
「なんでだ?」
「さあね。自分で考えてごらんよ」
慧乃は意地悪そうに微笑みかけると、もう話は終わったと歩幅を落として、ハナと並んで歩きながら尋ねる。
「ハナちゃん。坐禅どうだった?」
「全然駄目です。わたし、昔から集中力がなくて」
「そうだったねえ。それに、だいぶ怖がってたみたい。肩は大丈夫?」
「はい。痛かったけど、もう大丈夫です!」
ハナは朗らかに答えるが、あのときハナは涙を流していたはずだ。
「それなら良かった」
本当に良かったのだろうか? 起こすためならあんなに強く叩く必用もないだろうし、そもそもハナは邦実と違って寝てはいなかった。集中という意味では完璧に途切れていたが、それも慧乃が坊主や邦実をばしばし叩いたりするものだから、怖くなって震えていたのだ。
「君はまた考え事かい?」
気がつくと隣に慧乃がいて、鳶色の瞳でこちらをじっと見つめていた。
居心地が悪くなって半歩距離をとる。
「少しくらい手加減してくれたって良かったのに」
「おかしな事を言うね。君は自ら頭を下げたのに」
「それはそうだが」
あれはもう、慧乃は逃がしてくれないだろうと観念して、自分から頭を下げたのだ。決して殴って欲しかったのではない。
「それに、君は何故坐禅したのか覚えているかい?」
「何故ってそりゃ、無心に――」
口にして気づいた。
あの坐禅では、全く無心になれていなかった。
最初は慧乃に怯え、その後もまるで集中できず息すら満足に数えられなかった。足のしびれや周りの音にばかり気をとられてしまっていたのだ。
「無心にはなれたのかな?」
慧乃は大きな鳶色の瞳でこちらの顔をのぞき込むようにして、ふんわりと尋ねる。
その問いかけは、肩を打ったあの棒よりも強く、心を打ち据えてきた。
「そう簡単にはなれないよね。なかなか難しい話だと思うよ」
「どうしたらなれるんだ?」
きっと明確な答えが返ってくることはないだろう。分かっていたが、どうしても尋ねておきたかった。
「さてね――なんて、あんまりいじめて影でぺったんこだのなんだの言われるのも心苦しいからね」
「根に持ってるのかよ」
慧乃は苦笑しながらも指を一つぴんと立てて突き出すと、やんわりと優しく語りかけた。
「もしやる気があるのなら、もう少し坐禅を続けてごらん。時間も場所も君の自由にしていいし、十月十日続けろとも言わないよ。でも、十月十日続けるくらいの気持ちで坐ってみたら、君なら何か分かるかも知れないね」
「十月十日続けるくらいの気持ちねえ」
今だって、十月十日の登山の最中だ。
されど、最初の頃こそ意識して一日一日を登っていたけれど、いつしか登山は生活の一部となり、山頂まで登って山を下るのが当たり前になっていた。
それくらいの気持ちで坐禅に挑めと言うことだろうか? その先には、何か答えが――答えに至る何かが待っているのだろうか?
「もし何か気づくところがあったら、そのときは是非呼んで欲しいよ。容赦なく警策を打ちに行くからね」
「警策って、あの罰棒か? 何で気づくとことがあったのに叩かれないとならないんだ」
「そういうものだからさ」
意味ありげに笑ってみせるが、果たしてこれは何を言いたいのか。お前が気づくようなことじゃあ無心にはなれないということか。だとしたら、この高慢な態度のぺったんこ女に、完璧な答えを突きつけてやりたい。叩けるものなら叩いてみろと、それくらい言えるような答えを出してみせようじゃあないか。
「もう少しだけ、続けてみようかな」
「きっとそれがいいよ」
「わたしも、もう少し頑張ってみます!」
「また楽しみが増えてしまったねえ」
慧乃は登山道の下に見えてきた中層地区を見つめて、感慨深そうに呟く。
さて、言われるがまま坐禅を続けて、何か気づくところがあるだろうか。
そういえばあれ以来こころに会っていないが、あいつは何か気づいているのだろうか?
中層で二人と別れて一人下山しながら、無心とは何か、だなんて荒唐無稽な問題について今一度頭を悩ませてみるのであった。




