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人成山登山記録  作者: あゆつぼ
人成山登山記録 三月目
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三月目 其の一 好凮寺⑥

「良い心がけだね。坊主さん。坐禅の準備をしてもらえるかな? 私は邦実さんを連れてくるよ」

「はい。かしこまりました」


 慧乃が小方丈へ赴くと、坊主は大方丈の近くの小部屋の箪笥から、座布団を取り出した。


「一人二つずつあれば良いと思います」

「一人で二つ使うのか?」

「はい。本来でしたら坐禅堂ですべきなのでしょうが、今日は大方丈で行いましょう」


 言われるがまま坊主とハナと共に座布団を大方丈へと運んだ。

 畳の上に二つずつ重ねると、邦実を連れて慧乃がやってきた。


「そうだね。今日はここで坐りましょうか。邦実さんは坐禅の経験はありますか?」

「全くないわね。足痛くなりそうだし。めんどくさそうだし」

「そうでしたか。確かに、足は痛くなりますし、面倒くさいですね。でもここは禅宗のお寺ですから」

「ですよね! 慧乃様がおっしゃるのなら、ちょっと足が痛くなるくらい平気よ」

「そう言ってくださると嬉しいです。坊主さんは坐禅の経験はありますよね」

「はい」


 坊主は慧乃の質問に頷いた。

 続いて慧乃はこちらに視線を向けてきたので、ハナと二人首を横に振る。


「直日は私でよろしいですか、邦実さん」

「慧乃様に全てお任せしますわ」


 邦実はそう答えたが、たぶんその直日がなんなのかなんてさっぱり分かっていないだろう。なんて、自分でも分かっちゃいないのだが。


「では坐り方から説明しましょうか」


 慧乃に言われるがまま、座布団を一枚敷いて、その上に半分に畳んだ座布団を乗せる。そこへと尻をつけて坐る訳だ。

 坊主は座布団の準備を整えると、そこへと腰を落とす。


「あれ、お姉ちゃん。壁に向かって坐るってきいたことあります」


 ハナが慧乃に尋ねる。確かに坊主は壁を背にするように坐っていた。


「禅宗にもいくつか種類があるのだけれどね。ハナちゃんの言うとおり曹洞宗の場合は壁に向かって坐るのだけれど、好凮寺みたいな臨済宗のお寺は壁を背にして坐るの」

「わあ。お寺によって違うんですね!」


 お寺なんて何処も同じようなもんかと思っていたがそうではないらしい。示された通りに座布団を置いてその上に座った。


「大切なのは腰骨をきっちり立てることだよ。そうそう、坊主さんみたいにね。坐る場所を決めたら一度前屈みになって、背中を反らせながら持ち上げるの。腰骨が立ったらその上に背骨、頭が真っ直ぐになるように――」


 あれこれ説明されながら形を整えていく。肝心の足の組み方は、最初は痛いだろうから無理に組まなくても良いよとの言葉があったので、右足だけ左ももの上にのせて、左足は普通にあぐらをかくような感じにした。手は腹の前で手のひらが上になるよう重ねて、両手の親指を合わせる。


「姿勢はこれで整ったね。最初だからゆっくり息を整えて坐りましょう。ゆっくり息を吐いて心の中で数を数えるの。吐いたら吸わないとだからゆっくり吸って、吸ったら今度は吐く。なんて、説明しなくても大丈夫かな? とにかく自分の呼吸にだけ集中して、ゆっくり息を数えてごらん」


 言われるがまま坐ったままの姿勢で鼻からゆっくりと息を吐いていく。息に合わせるように、心の中でひとーつと数えた。

 そして腹の中が空っぽになると、今度は息を吸っていく。吸い終わったら今度は吐いて、数を数える。


「そうそう。そんな感じだよ。あまり長いと大変だからね、十五分だけ坐ることにしましょう。集中が途切れるようなら起こすけれど」


 慧乃は仏像の隣にまとめられていた仏具の中から先端が平たくなっている樫の棒を手にとって肩に担ぐ。

 説明されるまでもなく、その棒については知識があった。あれでもって集中力の途切れた怠け者を叩くのだ。


「警策が欲しい時は手を合わせてね。そのときは――」


 慧乃の言葉が途切れると、坊主が坐ったまま手を合わせて頭を下げた。

 慧乃は棒を担いだままその正面に赴いて、頭を下げた坊主の左肩に棒をとんと乗せる。

 なんだそんなもんか、なんて思っていた矢先、慧乃は棒を振り上げて坊主の左肩を二回打った。

 パシーン。と高い音が二回大方丈に響き渡るが、慧乃は続いて坊主の右肩に棒をとんと当てて、それから同じように二回肩を打った。


 その甲高い音にハナは身をすくませ、邦実は口元を引きつらせていた。

 されど坊主は表情を変えず、今一度慧乃に向かって頭を下げて、ありがとうございますと口にした。

 きっとあれだ。音は大きくても、実際は痛くないのだろう。竹刀と一緒だ。びっくりさせるために、大きな音が出るように作られているに違いない。


「では十五分坐りましょう。準備は良いですか?」


 視線を動かして四人とも頷くのを確認すると、慧乃は一枚だけ敷いた座布団に腰を下ろして、拍子木を打った。


 ――地獄の修行、開始の合図である。


 半分だけ目を開ける形で、少し先の畳をぼんやりと見つめ、とにかく集中せねばと息を吸った。


 ひとーつ。


 心の中で数えて、息を吐いていく。

 ああやばい。慧乃が棒を肩にかけて歩き始めた。

 並び順は慧乃の側から坊主、邦実、自分、ハナである。慧乃はゆっくりと。本当にゆっくりと足を進めて坐る四人の前を移動していく。

 いや、そんなことを考えていては駄目だ。数を数えなければ。


 ふたーつ。息を吐きながら数を数える。


 吐き終わる頃にちょうど慧乃が目の前までやってきて、ぼんやりとした視界の中に入ってくる。

 何と恐ろしい光景だろうか。思わず半分開いていた目を閉じて、呼吸にだけ集中しようと息を吸い込み、そして吐き出す。


 みーっつ。


 ゆっくり吐いたつもりなのに、呼吸は乱れ、途切れ途切れになって吐き出されていく。慧乃は移動してハナの前まで行くと、折り返してこちらに戻ってくる。

 目を開けて慧乃がやってくるのを確認すると、緊張で組んでいた足に力が入ってしまう。

 ああ、こんな事では駄目だ。数を数えよう。いや待て。幾つまで数えた? ああ駄目だ、忘れてしまった。仕方ない、最初からやり直そう。


 ひとーつ。


 息を吐いていく。

 心は少しも休まらない。

 慧乃の存在がどうにも気にかかり、落ち着かない。

 慧乃は自分の座布団の元へと戻ると、どうやらそこに腰を下ろしたようだ。

 良かった。助かった。いや、慧乃のことだ、こちらを油断させ、その隙を見つけて殴りに来るに違いない。気を抜くな。数を数えるんだ。


 ふたーつ。


 息を吐いて数を数える。

 数分経っただろうか。まだ数十秒しかたっていないのだろうか。定かではないが、緊張のせいですっかり体はこわばり、足は既に痺れていた。

 それでも途中で投げ出すことは出来ぬ。


 みーっつ。よーっつ。いつーつ。


 数を数えていく。段々と慣れてきただろうか。

 そんなとき、すっと慧乃が立ち上がった気配を感じた。

 やばい、また来る。いやしかし何故――

 横目でちらと見たが、ハナの方はまだ大丈夫そうだ。いや、だいぶ不自然な汗をかいてはいるが、寝てはいないし姿勢も崩れてはいない。というかガチガチに固まってしまって姿勢が崩れるような状況ではなさそうだ。


 となると――

 反対側をちらと見ると、邦実の馬鹿、前のめりになり、両手の親指が離れてしまっていた。

 この状況でよくも気が抜けたものだ。さあ邦実よ。自分の愚かさを思い知るがいい。

 慧乃が邦実の正面に立ち、肩へととんと棒を乗せる。


「あ、マジで」


 顔を上げた邦実に対して、慧乃は笑顔で答えた。

 邦実は一瞬抵抗を考えたようだが、観念したらしい。手を合わせてつるつるの頭を下げる。


 慧乃は棒を振り上げて、邦実の右肩を二回打った。

 静かだった大方丈に甲高い音が響く。

 それと共に、邦実の短い悲鳴も聞こえてきた。

 されど慧乃は続けて左肩も二回打った。肩を叩く音が響き、畳に吸い込まれていく。

 邦実は頭を下げたまま固まっていたが、少しして頭を上げると、泣きそうな声でありがとうございます、と口にした。

 横目でちらと見ると、邦実は目を涙でいっぱいにしていて、目尻から一筋こぼれていた。


 やばい。

 これ、音だけじゃない。ガチだ。

 あの邦実が泣くほど痛いとしたら、本当に痛いに違いない。

 これはなおのこと気を抜けなくなった。

 息を数えなければ。あれ幾つまでいったっけ。ああもう最初からだ。


 ひとーつ。


 またもや慧乃が目の前を通る。なんとかやり過ごさなければ。

 心拍数が高まり、自然と呼吸も荒くなる。

 早く行ってくれと思いながらもみっつまで数える。

 慧乃はハナの前まで移動していた。

 ハナは――がちがちに緊張して震えている。

 寝てはいないが、これはこれで大丈夫なのだろうか?

 と思ったら、駄目だったらしい。

 緊張に耐えきれなくなったのか、ハナは自分から手を合わせて頭を下げた。


 慧乃はゆっくりと棒をハナの右肩にとんと当てて、それから勢いよく二回叩いた。

 邦実の時と同じ、甲高い音が響く。

 まさか、慧乃がハナ相手に手をぬかないだと。

 これは大変だ。ハナに対して手を抜かないのに、こっちに手加減するとは考えられない。

 続いてハナの左肩も二回叩かれ、ハナは涙声でありがとうございますと口にして坐禅の姿勢に戻った。


 慧乃はハナの前を折り返して、こちらへと戻ってくる。

 まずい。数を数えていなかった。

 いくつまでいったか。いやもう分からん、最初からだ。


 ひとーつ。


 心臓が高鳴り、呼吸も落ち着かない。

 足は痺れて痛くなってきたし、指先は小刻みに震えてしまって止まらない。

 こちらの心境を見透かすかのように、慧乃はゆっくり、ゆっくりと目の前を歩いて行く。


 誤魔化しきれるか? なんて一瞬頭の中をよぎったが、慧乃がこの程度見抜けないわけもない。普段から、こちらの思考を読んでいるのではないかというほど鋭い奴なのだ。

 きっと見透かされているだろう。こうなったらもう破れかぶれだ。観念して、潔く頭を下げよう。


 手を合わせて頭を下げる。

 通り過ぎようとしていた慧乃は半歩引き戻して正面に立つと、棒を左肩の上にのせてきた。

 場所を確かめるようにとんとんと棒が当たったかと思うと、棒が振り上げられ、勢いよく打ち据えられた。

 ぱしーん、と甲高い音が響く。

 瞬間的に痛みが弾けたが、息をのむ暇もなく二発目が打ち据えられた。

 甲高い音。鋭い痛みが肩に走り、その後にじわじわとした痛みが浸透していく。肩が熱く、焼けた鉄板を押しつけられたようだった。


 されど慧乃はそれで終わってはくれず、今度は右肩に棒をとんとのせた。

 覚悟を決めて歯を食いしばると、素早く二回打ち据えられた。

 先ほどと同じ痛みが走り、肩全体が熱く火が付いたようだった。

 それでも次の言葉を言わないと慧乃は立ち去ってくれないだろうと、息を整え言葉を吐いた。


「ありがとうございました」


 顔を上げると慧乃は立ち去ろうとしたが、その姿を恨めしそうに睨んでいると戻ってきて、小さく微笑むのだ。


「足りなかったかな?」

「いえ結構」


 短く返すと姿勢を正して、視線を畳へと落として息を数え始める。

 慧乃はその後は自分の座布団に戻って静かに坐っていたが、それでも一瞬たりとも緊張を解けず、息を数えるのもいつつむっつ数えてはいくつ数えたか分からなくなって最初に戻るといった有様だった。


 外では蝉が鳴いていた。

 蝉の鳴き声の中に、時折響く添水の音が心地よい。

 空気は熱気を帯びていたが、時折涼やかな風が吹くのであった。

 ああ、また数を数えていなかった。また最初から。


 ひとーつ。


 数えた矢先に拍子木の乾いた音が鳴って、ぼうっとしていた意識が無理矢理に戻される。


「ここまでにしましょうか」

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