三月目 其の一 好凮寺⑤
無事に弟子を手に入れた邦実は満足したらしく、身を翻して大方丈へと歩いて行く。
坊主も立ち上がり、邦実の後に続く。
坊主は昨日と同じ泥で汚れすり切れた僧服を身につけていて、頬もこけてやせ細っていた。
声変わり前だが、それ以上に幼く見え、見ているとなんだか心が痛くなるような身なりだ。
こんな子供が邦実にこき使われると思うと何ともいたたまれない。
「おい坊主。お前、本当にあんなのに弟子入りするつもりか? 言っておくがあいつは寺に勝手に住み着いてるだけの、元アイドルの馬鹿女だぞ」
声をかけると坊主はこちらを見上げて答えた。
「自分は師父より、人成山で修行しなければ本願を成就できない呪いをかけていただきました」
「本願?」
首をかしげたが坊主は答えず、代わりに慧乃が教えてくれた。
「禅宗で言うのなら、悟りを開く、といったところかな」
「悟り? それにしても、人成山で修行するのなら、こんな寺に来ることはないだろう。寺なら他にもあるし、修行なら寺じゃなくたって出来るだろ」
諭すように言ったが、坊主は首を振った。
「この好凮寺が、自分が初めて見つけた人成山のお寺です。自分はその縁を大切にしたいと思うのです」
「また縁か」
どうもこの坊主、どちらかというと慧乃に近い思考回路を有しているようだ。
だからこそ邦実とは正反対の位置にいるはずで、とても気があうとは思えなかった。
「きっと素敵な縁になるはずだよ。本願を成し遂げられると良いね」
「はい。ありがとうございます」
慧乃の言葉に坊主は頷いた。邦実よりこっちに弟子入りしたら良いのに。と思ったが慧乃が弟子をとるとは考えづらい。周りの人間に通り魔のごとくお節介は焼いても、誰か一人に親身になってお節介を焼き続けるようなことはしなかったはずだ。
「ちょっと待ってなさい」
先を行く邦実はそう言い残して一人小方丈に入った。
何事かと思ったが待っていろと言われたので待つほかなく、その場で足を止めると直ぐに邦実は小方丈から出てきた。
「ほら、あんたこれ着なさい。その汚いのは自分で洗っとくのよ」
「はい、ありがとうございます」
邦実から作務衣を押しつけられた坊主はそれを恭しく受け取って、着替えてきますと言い残すと大方丈近くの小部屋へと入っていった。
「あの汚いままあたしの部屋に入られたら大変だわ。後で風呂にも入るよう言っておかないと」
「お前本当に自分のことしか考えてないのな」
「そりゃそうでしょ。あんただってそうでしょ。黙ってなさいよ。それより慧乃様。お昼ご飯の時間です」
「そうですね。お昼の準備をしましょうか。今日は多めに作ってきて良かったよ」
「わあ! わたしも頂いていいですか!」
「もちろん! 良いですよね、邦実さん」
「ええ! 慧乃様の妹なら当然だわ!」
慧乃は廊下に置いてあった荷物を指し示して、小方丈で頂きましょうかと口にする。
どうやらまた弁当を作ってきたらしい。言われてみれば時間はちょうど正午で、朝から登山をしてきたので腹もだいぶ空いていた。
弁当を慧乃に変わって小方丈へと運び込む。
脇にどけてあった大きめの机を部屋の中央に置き、五人分の座布団を並べた。慧乃とハナが厨房でお湯を沸かしてお茶を入れると、着替え終わった坊主もやって来て、弁当を囲うように五人座布団に腰を下ろす。
「それでは頂きましょうか」
「頂きましょう」
邦実は手を合わせると、早速箸を手にする。
その様子を見て、坊主が呟いた。
「食事五観の偈はいかがいたしましょうか」
「何それ」
坊主の言葉に邦実は首をかしげる。
きいたことのない言葉だ。『ショクジゴカンノゲ』とは一体何か。食事と入っているから食事に関係することだというのは分かる。
ふと正面の慧乃に目をやると、慧乃はにっこりと坊主に向かって微笑んで答えた。
「そうですね。読みましょうか。まず私が読ませて頂きますので、皆さんが後に続く形でよろしいですか、邦実さん?」
「慧乃様が言うなら、是も非もありません」
邦実の了承も得られたため、慧乃は手をあわせて目を瞑る。
それに習って手を合わせてまぶたを閉じると、慧乃がゆっくりとした口調で何か呪詛のようなものを唱え始めた。
「一つには功の多少を計り彼の来処を量る」
同じ言葉を四人が呟く。
邦実もハナも、そして自分も一度きいただけでうろ覚えなためあやふやだったが、坊主ははっきりとした口調で慧乃の言葉を復唱していた。
「二つには己が徳行の全欠とはかって供に応ず」
同じように後に続ける。
「三つには瞋を防ぎ過貪等を離るゝを宗とす」
いくつまで続くのだろうか。トガトントウとは何か。考えながらも後に続けて声を出した。
「四つには正に良薬を事とするは形枯を療ぜんが為なり」
だんだん邦実が復唱しているか怪しくなってきた。
「五つには道形を成ぜんが為に当に此の食を受くべし」
復唱すると、慧乃はそのあとを続けなかった。
気になって目を薄く開けると、目を閉じて手を合わせたまま祈っていた。
食事の時に祈るのは慧乃の習慣のようなものだと言っていた。そういえば、水一滴を拾えという呪いをかけられる前日、慧乃と共に食事をしたとき、慧乃は手を合わせたまま何か小さく呟いていた。今となって分かったが、あのときも慧乃はこの『ショクジゴカンノゲ』を唱えていたのだろう。それほどに大切なことなのだろうか?
「さあ、頂きましょうか」
それを合図に、邦実は目をぱっと開いて弁当に手をつけた。待ちきれなかったのか、本当に自由な奴だ。
「それで、何だったんだ? さっきのは?」
「君は分かっているはずだよ。一滴の水へと手を伸ばしたのだから」
「また一滴の水か。伸ばしはしたが拾えちゃいないぞ」
「さて、それはどうかな」
慧乃はそれだけ言うと、もう他に何も言うことはないとばかりに黙々と食事を続けた。
仕方なく反対側に目をやって、何か知っているらしい坊主へ視線で訴えかける。
「食事五観の偈は禅宗のお寺等で食事の時に唱えるもので、食事への感謝と自らを戒める訓文です。詳しい字義が知りたいのでしたら、後で簡単な現代語訳を作成いたします」
食事への感謝と自らの戒め。確かに一滴の水の時に少しばかりふれた話だ。読んだままの形だと全くもって意味が分からないから、現代語訳をもらえるのなら嬉しい。
「ああ、頼んでいいか」
「はい」
「ちょっとちょっと。あんた人の弟子を何勝手に使ってるわけ? そいつはあたしのものよ。忘れないで」
こちらのやりとりに気が触ったらしく、邦実は食事をしながら文句をつけてきた。
「こいつはこいつのものだ。お前のじゃない」
「あたしのよ。あたしの弟子だもの。そうよね」
邦実が威圧的に尋ねると、坊主は頭を下げた。
「はい。自分は、お師匠様の弟子です」
「お前、そんなこと言うとろくな事にならないぞ」
坊主がこれ以上余計なことを言わないようにと止めに入ろうとすると、隣の慧乃がこちらをそっと小突いてきた。
「何だ?」
尋ねると、慧乃は申し訳なさそうに小さく笑って小声で答える。
「君は知らないかもしれないけれど、禅門で誰かの弟子になると言うことはそういうことなの。無茶苦茶を言っているように聞こえたかも知れないけれど、ここは邦実さんが正しいよ」
「マジかよ」
だとしたらこの坊主は、このアホ女の言いなりになるほかないというのか。このまるで他人のことなど考えぬアホ女の。
「何あんたその目は。じろじろ見るなら金取るわよ」
「黙ってろアホ女」
「だーれがアホよ。あんた、慧乃様の知り合いじゃなかったら追い出してるわよ。分かってんでしょうね」
悪態をつく邦実を無視して、もう一度坊主へと声をかける。
「本当にこいつに弟子入りして良いのか? やめるなら今のうちだぞ」
「いいえ。門をくぐった以上、自分はここに弟子入りすると決まったのです。何か得るまで出ることは出来ませんし、そのつもりもありません」
幼く見えるくせに、なにげに頑固な奴だった。この強情ぷりったるや、慧乃と比肩しうるレベルだ。
「ふふん。きいたわね。分かったらあんたは口出し禁止よ」
「へいへい」
これ以上何も言えることはなかった。こうなってしまったらもう、坊主が自発的に邦実の弟子を辞めると言い出さない限りは二人の主従関係が途切れることはないのだ。
「五観の偈は私が清書するよ。一つは見えるところに置いておいた方が良いし、現代語訳があった方が理解もしやすいだろうからね」
「恐れ入りますわ慧乃様」
柄にもなくお嬢様言葉で礼を述べた邦実に嫌悪感を感じながらも、これ以上話すのも嫌だったので黙々と食事を続けた。
食事の片付けが終わると、慧乃はすっと立ち上がって小方丈を見渡した。
「邦実さん。着替えが出しっぱなしですよ」
「直ぐ片付けます慧乃様!」
指摘されると邦実はすぐさま散らばっていた衣服を回収してたたむと箪笥へとしまい込んだ。
「さて、今日もお掃除をしましょうか」
「そうですね慧乃様。ほら、坊主、あんたもやるのよ」
「かしこまりました」
坊主は早速邦実の言いなりになって、掃除にかり出された。しかしまあ、寺の弟子なのだから掃除するのは当たり前と言えば当たり前だ。高校の修学旅行で京都の寺に行ったとき寺の掃除をさせられたことを思い出して、これはこういうものなんだと納得することにした。
「私たちも手伝っていいですか?」
「勿論! 慧乃様に手伝って頂けたら嬉しい限りです!」
「私たちねえ。たちってのは誰のことなんだか」
慧乃から目をそらしたが、その先にいた少女はすでにやる気に満ちあふれていて、こちらに向けて不可思議な言葉を言い放つのであった。
「頑張りましょうね! お兄ちゃん!」
「逃げ場はなかったか……」
こうして今日も好凮寺の掃除を手伝うこととなった。
昨日念入りに掃除した大方丈を邦実と坊主に任せ、慧乃とハナと三人、無駄に広く長い廊下の掃除を始める。
「貧乏くじひいたなあ」
障子戸の隙間にたまった埃をはき出しながらため息つくと、廊下を雑巾がけしていたハナが話しかけてきた。
「わたし、こういうの結構嫌いじゃないです」
「そうみたいだな」
微笑むハナはどこか楽しそうで、本心からそう思っているらしかった。
「でもあの子、凄いです。わたしより年下みたいなのに、ずっとしっかりしてます」
「坊主のことか? まあそうだな。確かに、まるで集中力のない誰かさんと比べたら、しっかりしてるよな」
「誰のことです?」
「お前以外に誰がいるんだ」
「わたしですか? えへへ。そうですよね」
何故か照れ笑いするハナ。褒めてるつもりはまるでなかったのだが、どこでどう間違って解釈されたらこうなるのだろうか。
「あの子の本願って一体なんでしょうね」
「本願?」
ハナの言葉にこれまでの会話を思い出す。本願とは何か。しかしその答えは既に出ていた。
「悟りを開くことだろ」
素っ気なく答えると、ハナは首をかしげて重ねて尋ねる。
「その悟りって一体何でしょう。言葉としてはきいたことありますけど、実際どんなものかさっぱりです」
「言われてみれば……」
さて、悟りとは。なんだかまた難しい話になってきた。ここ最近、何かとこう意味の分からないふわふわした言葉の意味を重ねて問われているような気がする。
無心とは何か。本願とは何か。悟りとは何か。
きいたことのある言葉のはずなのに、その意味を尋ねられるとさっぱり分からない。
悟り、と一言に言うことは出来ても、それは何か説明しろと言われて説明出来るような代物ではないような気がする。
悟ったようなことを言う人、だなんて、偉そうなことを言う人間に対して使ったりする。何かこう、達観したとか、人より上にいる人間、みたいな印象はあるが、それを正確に指し示す言葉はまるで浮かんで来ない。
思案していると、そこへバケツに水を汲んできた慧乃がやってきた。
廊下にバケツを置いて、慧乃は雑巾を絞り始める。
その慧乃に、ダメ元ではあるが尋ねてみることにした。
「なあ慧乃。悟りって何だ?」
「お水を持ってきたよ」
「なあ慧乃、悟りって――」
「掃除をしましょう」
こちらの質問に答えることなく慧乃はそれだけ言って、掃除を始める。
肩をすくめてハナに視線を向けると、どうにも嬉しそうに微笑んでいたので、何事かと尋ねた。
「何だハナ」
「お兄ちゃん。怠けていたらいけませんよ!」
「お前が言うなお前が」
掃除中だから掃除に集中しろということだろうか。何か別の意味があるような気がしてきたが、とにかく掃除を終わらせることが先決だ。
さっさと終わらせて、それからまた尋ねてみよう。十中八九、「君はどう思うんだい?」なんて返ってくるだろうが、その言葉をきいておかないとどこか安心しないのだ。
廊下の掃除を終えると、全員で大方丈に集まって昨日と同様に仏像に向かって手を合わせた。
「今日もわずかばかりの糧を与えて頂き、主の御心に感謝します」
主って何だよイエス様か、なんて思ったが、口に出さずに邦実の祈りを見届けた。
「南無阿弥陀仏」
結局昨日言われたことを全く覚えていないようであった。この単細胞アホ女ときたら、まるで駄目だ。慧乃はこんなのに本当に好凮寺を任せるつもりなのであろうか。
「明日からここはあんたの仕事だからね」
「かしこまりました」
祈り終わった邦実は坊主に指を突きつけて命令する。坊主も坊主で一切反論することなく頭を下げた。
「掃除も毎日やるのよ」
「かしこまりました」
「お前もやるんだぞ」
「気が向いたらね」
邦実はそれだけ言い残して、今日の仕事終わり、だなんて呟くと慧乃に別れを告げて小方丈へともどっていった。
「おい慧乃。良いのか本当にこれで」
「君は何を心配しているのかな? 好凮寺は君のものではないはずだろう?」
「そうは言っても、あんなのに任せるくらいならお前が管理した方が良いだろう」
「そんなことないと思うけどね。さて坊主さん。あなたは邦実さんが好凮寺を任されるに値する人物だと思うかい?」
慧乃が坊主に向かってやんわりとした調子で尋ねると、坊主は慧乃へ向き直り恭しく頭を下げると、静かに答えた。
「はい。思います」
「本心からそう思うのか?」
「はい」
尋ねても肯定しか返ってこなかった。
この坊主は邦実に弟子入りしたことで、すっかり邦実の言いなりになってしまっている。
恐らく邦実が不利になるようなことは拷問されても言わないだろう。
「慧乃。お前はどう思うんだ」
「私かい? 実を言うとね、若干の不安があることは確かだよ」
「若干か? あんなんなのに、若干で済むのか?」
「君は人を見た目で判断するきらいがあるね。邦実さんはそこまで悪い人ではないと思うよ。と、自己紹介が遅れてしまったね。私は六宮慧乃。実は前の和尚様から好凮寺の管理を任されていてね。邦実さんは私の代わりに好凮寺の管理に名乗り出てくれて、今は任せられるかどうか見極めているところなの」
「そうでしたか。今後ともよろしくお願いします」
坊主は再び慧乃を仰いで頭を下げた。
「こちらこそよろしくお願いするよ。しばらくはここにも顔を出すから、何かあったら頼ってくれて構わないよ」
「ありがとうございます」
慧乃がいれば、この坊主が餓死することもなかろう。邦実にこきつかわれて過労死する可能性はなきにしもあらずだが。
坊主が仏像の正面に座って礼拝を始めたので、そういえばと慧乃に話しかける。
「そうだ慧乃。昨日ききそびれたんだが、無心って何なのか分かるか?」
質問に、慧乃は含みのある笑みを浮かべて、細めた鳶色の瞳をこちらへ向けてきた。
何が言いたいのかと尋ねようかと思ったが、何が言いたいかなんて分かっていた。
「君はどう思うんだい、ってのはなしにしよう」
「君はどうして、私の答えが分かっているのにわざわざ質問してきたのかな」
慧乃が笑うと、ハナもつられて小さく笑った。
たちの悪い姉妹だ。二人して真面目に質問している人間をあざ笑いやがって。
「それで、君はどう思うのかな?」
「結局言ったよ」
首をかしげる慧乃に対して若干腹立たしいと思う気持ちもあったが、これは結局自分で考えてみろと言いたいのだ。全く先が分からん問題ではあるが、可能な範囲で考えたことをぶつけてみよう。
「心を無くしてしまうってことではなさそうだ」
「そうだろうね」
「欲望をなくす、というのはどうだろう」
「どうだろうね」
投げかけても何も返ってきやしない。どうも今日の六宮さんは意地悪モードらしい。いつもなら一つ二つ何かしらヒントをくれたりするものなのだが、今日は今日とて鈍く輝く鳶色の瞳でこちらを見つめ、やんわりと笑みを浮かべるばかりだ。
「何かヒントとかないのか?」
「ヒントならいくらでもあるはずだよ。きっちり探してみてごらん」
見つからないから尋ねているのに、相変わらず食えない奴だ。
さて、こうなった慧乃は恐らくこちらが何らかの答えを出すまでは何も教えてはくれないだろう。となればここから先どうやって無心の手がかりを見つけるかは、自分で考えなければならない。
ハナは言った。お坊さんは修行して無心になると。
そういえばここは紛れもなく禅寺である。だとしたらここで修行することで無心の手がかりが見つかるかも知れない。
「坐禅でもしたら無心になれると思うか?」
駄目元で尋ねてみると、慧乃は何を考えてか表情をことさら緩くしてにんまりと笑った。
「君次第だろうね。試しに坐ってみるかい?」
いつもは見ない笑みだったので不安もあったが、何もしないより、何か行動したかった。
こころは無心にならなければならない呪いをかけられた。人成山の呪いを解くとはつまり、人に成ることだ。だとすれば、無心の先には必ず人に成る手がかりがあるはずだ。
自分自身の、十月十日人成山に登り続ける呪いを解くためには、最終的には人に成らなければならない。無心について知ることは自分の呪いについて知ることでもあるのだ。
だから、慧乃の質問には、自然と肯定を返していた。
「試しに坐ってみようかな」




