三月目 其の一 好凮寺③
翌日、空はからっと透き通っていていた。今朝のラジオで伝えていたように、ようやく梅雨が明けたようだ。
この先に待ち構えているのは本格的な夏の訪れだ。十月十日登り続ける以上、どんなに暑い日でも登山をやめるわけにはいかない。
覚悟を決めて人成山に入ったが、早朝から出たおかげか登山道は涼しく、大して苦にもならなかった。これくらいの方が登山をするのにはちょうど良いのかも知れない。
昨日の好凮寺の一件についてやはりどうしても気になったので、昼頃に好凮寺へと到着するように早朝から登山を開始した。
すっかり日が出るのが早くなっていて、六時に外に出たときには既に太陽が辺りを明るく照らしていたのには多少驚いた。
ようやく折り返し地点、山頂に到着し、人成山山頂の石碑の元へ赴くとそっと手を触れる。
既に二ヶ月以上こうしてこの石碑の元まで通い続けているのだ。全く我ながら良くここまで続けられたと思うが、まだまだ先は長く、十月十日の登山を達成するために大変なのはこれから先だ。夏から秋にかけては台風も来るだろうし、冬になれば雪が積もる。そのとき、果たして自分は登山を続けることが出来るのだろうか?
そんなこと今から考えていても答えなんて出やしないのに、こうして山頂に来る度に考えてしまう。先のことなんて分かりやしないのに、だからこそ気になってしまうのが人間という生き物だ。
いつまでも考え込んでいても時間の無駄なので、顔を上げ荷物を担ぎ直すと山頂にある休憩所へと向かった。
時間は八時少し前。すっかり登山に慣れてきて、二時間もあれば十分山頂までたどり着けるようになっていた。
ベンチに腰を下ろし、水筒を取り出すと、山頂に少女が一人やってきた。
麦わら帽子を被った、Tシャツにショートパンツ姿の、元気そうな少女だった。
少女はこちらを見つけるやいなや、駆け寄ってきて声をかけた。
「お兄ちゃん! 今日は早いですね!」
「ああ、ちょっとあってな。それよりハナはいつもこんな時間に来ているのか?」
やってきたのは伊与田ハナであった。
初めて人成山に訪れたとき山頂で出会い、それ以降人成山で会っては行動を共にしている。ちょっと注意力が散漫だったり考えなしに行動したりするのだが、明るく元気で、誰とでも親しくなれる不思議な奴だった。
「えへへ。もっと早く来ることもあるんですよ。わたしの呪いは、日の出からスタートですから!」
「そういえばそうだよな」
ハナの呪いは、山頂近くに咲く二輪の花を、日の出から日の入りまで見つめ続けなければ帰る場所が思い出せない、という呪いだ。
ハナは帰る場所を思い出せないばかりか、人成山に訪れる前のことは記憶が曖昧らしい。中学三年生だと口を滑らせていたが、本人はそのことを呪いによってすっかり忘れさせられていた。
そんなハナだから、呪いを解くためには日の出前に山頂に来ていなければならないはずなので、こうして太陽が高く上がり、空が青々と輝いている時間に山頂を訪れるというのは不思議なことでもあった。
「しばらく雨が続いたので呪いの解除は中断していたのですが、天気が良くなったので再会しようと思ったんです。でも、これからきっと日差しも強くなるし、何の準備もなしだと大変かなーって思いまして」
「だろうな。準備は大切だ」
自分も、十月十日の登山のため、登山道具は一通り揃え、不測の事態に備えた上で登山を開始している。
ハナの呪いは日の出から日の入りまでだが、ずっと花を見つめ続けなければならない以上、何らかの準備をしなければならない。
「で、どんな準備だ?」
「これです!」
尋ねると、ハナは自慢げに手にしていた杖を掲げた。
「杖か?」
「柱です!」
柱。
柱とは何か。
ハナが手にしていたのは、長さ一メートル弱程の木の棒である。杖にしか見えなかったし、実際にハナは杖としてこれを使っていたのだが、柱だという。柱と言って思い浮かべるのは家屋を支える柱だが、これは――
「もしかして、花の前に家を建てようとしてるのか?」
「家、まではいかないのですけど、屋根があれば日差しを遮られていいなーなんて思ったんです」
「そういうことか。だいぶ貧弱な柱だが、大丈夫か?」
「これ以上丈夫にすると、山頂まで運ぶのが大変かなーって」
確かにハナは中学三年生だが、見た目だけでは小学生と言われても頷いてしまう小柄な体格で、見てくれの通り力もあまり強くない。
「だろうな。だったら言ってくれれば材料くらいいくらでも運んでやるぞ」
「そんな、悪いですよ。お兄ちゃん、十月十日登山を続けないといけないんですよね? 荷物が増えたら大変じゃないですか」
「ちょっとくらい増えたって平気だよ。だいぶ荷物も減らしてるし、梅雨前なんてポリタンクいっぱいに水入れて運んでたんだ」
「そういえばそうでしたね」
ハナは微笑んで、わたしも少しですけど運びました、なんて当時のことを思い出して呟いた。
「だから、頼ってくれたっていいのさ。ここじゃ一応ハナの兄さんだからな。屋根と言わず、小屋くらい作ってやるさ」
「お兄ちゃん、頼もしいです。そうですね、小屋も良いかもしれないです」
ぼんやり空を見上げて、何か考えるハナ。小屋のイメージを思い浮かべているのだろうか。表情がとても楽しげで、見ていて飽きない。
「でもお兄ちゃん。一応だなんて言わないでください。お兄ちゃんはわたしの自慢のお兄ちゃんですから」
「また変なこと言い始めた」
ハナはずっと一人っ子だったとかで、兄弟がずっと欲しかったらしい。ずっと妹が欲しかった慧乃とはたいそう気があったようだが、それと同じ物を求められてもとても答えられない。
「変なことじゃないです。わたし、お兄ちゃんがお兄ちゃんで良かったと思ってます。お姉ちゃんもそう思ってくれてるはずです」
「慧乃はハナが関わると途端に駄目になるから当てにならん。それより、柱、置きに行くなら持ってやるぞ」
「むう、ごまかしましたね」
むくれながらも柱をこちらへと手渡してきたので受け取って軽く振ってみる。随分軽い素材のようで、柱にするにはだいぶ強度が足りないのではなかろうか? これは杖として今後とも使った方が役に立つと思う。
「でもお兄ちゃん、もし嫌じゃなかったら、わたしが呪いを解いた後も、お兄ちゃんでいてくれると嬉しいです」
背中にかけられた声に、全く馬鹿なことを言うもんだと振り返ってその場で立ち尽くしていたハナへと声をかける。
「呪い解けたらな。だから今は、呪い解くことに集中したらどうだ」
「またごまかしましたね。お兄ちゃんはすぐそうです」
「分かってるならさっさと行くぞ」
足早に歩いて行くと、ハナも小走りで後ろを着いてきた。
二輪の花の咲く崖までやってくると、花は相変わらず綺麗に咲き誇っていて、斜陽を浴びてきらきらと輝いていた。
図鑑に載っていない、空色の花と薄い桜色の花。
ハナはそんな花を愛おしそうに見つめた後、そこから三メートル程歩いて行って地面を示した。
「ここに屋根を作ろうと思ったんです。下にはシートを引いて」
「結構広いな。小屋くらいなら作れそうだ」
崖の前と言うこともあって地盤がだいぶ不安だが、ハナが一人収まって雨風がしのげたらいいわけだからそんなに立派にする必要もない。ハナが一日二日で呪いを解けるとも思えないし、やはり小屋を作っておいた方が良さそうだ。
「今度家造りを手伝ってやるよ。まずは設計からだな」
「意外と本格的ですね」
「設計が大切なんだよ。設計さえちゃんとしてれば何とかなるもんさ。それで、いつもどうやって花を見てるんだ?」
「いつも、ですか? いつも気分次第みたいなところはありますけど」
ハナは答えると、カバンからシートを出してその場に引くと、そこへと俯せになって寝っ転がった。
「こんな感じです! でもいつもは枕を用意してですね」
「ぐっすり眠ると」
「はい! よく分かりましたね! 流石お兄ちゃんです!」
さて何と返したらいいものか。寝てないで呪い解けよと言ってやりたいところだが、言ったところでそう簡単に解けやしないのがハナの呪いだ。
今日は時間も早いこともあって、山頂は涼しく過ごしやすい日和だった。
「ハナ、隣良いか?」
「はい、どうぞどうぞ」
どんなもんか試してみようと、靴を脱いでハナの隣へと俯せになって寝転んでみた。
風が吹き心地よい。地面にシート一枚なのでごつごつした感じもあるが、しばらくこのままじっとしていたら確かに眠ってしまいそうだ。
気持ちを切り替えて正面へと視線を向けると、そこには二輪の花がぱっと咲き誇っている。
上から見下ろすのと、同じ目線で正面から見るのではだいぶ印象が違った。
どうにも二輪の花は、こちらへ向かって咲いているように思えた。
二輪とも花弁を見せつけるようにぱっと開いている。
そんな花の姿を、しばらくハナと二人、見つめ続けてみた。
空色と、薄い桜色の花。
そよと吹いた風が花を揺らし、隣で寝転がるハナの髪をなでる。
ふんわりとした柔らかな風。心地よい日差しと相まって、だんだんとまぶたが重くなっていく。
ここで寝てしまってはいけないと、隣で同じようにうとうとし始めたハナへと声をかけた。
「なあハナ。無心って何か分かるか?」
「お兄ちゃん、意地悪なことききますね」
ハナはまぶたをこすってからのんびりとした調子で答えた。
「それが分かったのなら、わたしはとっくに呪いを解いていますよ」
「まあそうだよなあ」
言われてみれば全くその通り。
無心とは、なんて質問に明確な答えが出せるとしたら、こんなところで午前中からうとうと転た寝したりしやしないのだ。
「無心って、何だろうな」
「何でしょうね」
ハナは顎を上げて思案し始める。
あれこれ考える前にまず行動、がモットーのハナにしては珍しく、考え込んでいるらしい。
ハナの中にもなにか変化があったのだろうか? あったとして、無心とは何か、なんて荒唐無稽な問いに答えを出すことは出来るのだろうか?
「お坊さんとか、修行して無心になったりします」
思い出したように放ったハナの言葉に相づちを打つ。
「そうだな。言われてみれば、坐禅したりして無心になろうとしてるわけだ」
「だからその、無心というのは、石ころみたいになにも感情をなくしてしまうこととは違うと思うんです」
「と言うと?」
尋ねると、ハナは迷いながらも言葉を紡いでいった。
「だって、修行したお坊さんは皆さん優しいです。誰かの悩みごとに対しても、親身に相談にのってくれたりします。だから、無心というのが、感情をなくしてしまうこととは別のことだと思うんです」
「うん。確かに。だとすると無心ってなんだろうな」
重ねた問いに、ハナはうつむいてしばし一人で考えた後、小さく答えた。
「難しいです。お姉ちゃんにはききました?」
「きこうと思ってたんだが、ききそびれた。これから会いに行こうかと思うが、着いてくるか?」
「はい。お姉ちゃんにも会いたいですし」
「それじゃ、下山するか」
寝転がっていたシートの上から立ち上がり、下ろしていた荷物を担ぎ上げる。
柱として持ってきてた棒きれは、結局ハナが杖として使うことになった。




