三月目 其の一 好凮寺①
翌日は朝からからっとした青い空が広がり、すっかり夏らしい日和となっていた。
輝く太陽がまぶしく、日差しが肌に痛いくらい突き刺さる。
そんな日和なので木陰の多い中央の登山道を行こうかと考えたが、こころの呪いについていくつか思い至ったこともあり、好凮寺の前を通る登山道を進んだ。
今朝、慧乃を登山に誘おうかと思ったのだが、生憎不在であった。
慧乃だって暇人じゃない。自分の呪いもあるだろうし、人成山じゃ慧乃は人気者だ。こういう日もあると割り切って、一人で人成山を登る。
中層の裏手を抜けて歩いて行くと、好凮寺の山門が見えてきた。
相変わらず、断崖絶壁に建っているとは思えない立派な山門だ。
そんな山門をくぐり、ひとまずいつもの参拝を済ませようとすると、珍しく、賽銭箱の前に先客がいた。
「ここを通りたければ、この私を倒してからにすることね!」
先客は振り返ると同時に、静かだった寺に凜と響いていく大きな叫び声を上げた。
今日は小豆色の作務衣を着ていていつもの薙刀を手にしていないため迫力は今ひとつだったが、そいつが六宮慧乃であることは間違いなかった。これも人成山の縁だろうか。
「珍しいところで会うな」
「そうだねえ。まさか君がここに来ているとは思いもしなかったよ」
「こっちの道は風通しが良くて登りやすいからな」
「好凮寺のご縁かな? でも会えて良かったよ」
慧乃は笑って、近くに寄るよう促す。
仕方なく足を進めて、一つ尋ねた。
「それで、お前はこんな場所に何か用なのか?」
「こんな場所、とはまた酷い言い方だね。ここは結構由緒あるお寺なんだよ」
言って、慧乃は天明三年寄贈と記された賽銭箱を示した。詳しい年号は分からないが、とにかく江戸時代からあることは確かなようだ。
「で、なんで由緒あるお寺に来たんだ?」
「それなんだけどねえ。何と言ったらいいものか悩みどころなのだけれど」
慧乃はピンと伸ばした人差し指の先を下唇に当てて一瞬思案した後、再び口を開いた。
「山役所からね、ここの管理を任されてしまったんだよ」
「管理? 寺の管理をするのか?」
「実は君が人成山に来る前にここの和尚様とは何度か話したことがあってね。後継者が決まらなかった場合は私に寺の管理をお願いする、なんて書き置きを残していたみたい」
「どれだけ信頼されてたんだお前」
「さあね。他に人もいなかったから、成り行きかも知れないなあ」
どうだか怪しいものだ。
それに、こいつは確か一月程先に人成山に来ていたはずである。ものの一月で前の和尚から寺の管理を任されるような人間はそうはいないと思う。
「とにかく。和尚様が亡くなってしばらく経ったけれど後継者が決まらなかったから、私が管理することになったのさ。と言っても、たまに顔を出して、お寺の掃除をするくらいだけれどね」
「へえ。それで、これから掃除か?」
「そうしたいのだけれどねえ。少し変わった噂話をきいてしまって」
「噂話?」
嫌な予感がしてきた。
真偽の定かでない噂話なんてのは、人成山ではよくあることだ。
話として聞いている分にはいいが、こうして現地にいる状態だと、まず間違いなくその噂話とやらに巻き込まれる。
慧乃は珍しく困ったような表情を浮かべて、言葉を口にした。
「どうも好凮寺に誰かが住み着いてしまっているらしくてね。雨宿り程度なら気にもしないのだけれど、本殿には貴重な仏像や経典もあるし、それに今確認したら、賽銭箱も空になっているみたい」
「おいおい、賽銭泥棒かよ。コソ泥のために賽銭入れてたんじゃないんだぞ!」
良い風が吹くようにとお参りしてたのだ。決して勝手に寺に住み着いた奴の私腹を肥やすためではない。
声を荒げると、慧乃がおっとりとした様子で、されど鳶色の目を細めて人の顔を刺すように見つめて口を開く。
「あらら。それはまたおかしな話だね。お賽銭箱に入れたからにはお寺のお金だもの。君が怒るというのは不思議なものじゃあないのかな?」
「いやだって、コソ泥が持って行くと分かってたら賽銭なんて入れなかった」
「それはどうだろうね。ま、何にしろ確かなのは、何もかも自分の物だと思い込んでしまうのは不幸なこと、だということくらいだろうね」
また分かったようなことを言いやがって。と、何か言い返してやろうかと考えていると、慧乃はすっと道を外れて、着いて来てと短く言って脇道を進み始めた。
やむなく後に続くと、慧乃は門を開けて奥の建物へと進んでいった。
一階建てだが、外層にある古びた二階建て貸しアパートよりは高さのある、古風な作りの建物だった。床は高く、屋根には瓦が敷き詰められている。
「ここは?」
「大方丈だね。前の和尚様はここで説法会や座禅会を開いていたの。週に一回だったけれど、この大方丈がいっぱいになるくらい人が集まっていたよ」
「へえ。この建物がいっぱいにねえ」
人成山のどこにそんなに人がいるというのか。そしてこの人通りの少ない登山道の途中にある寺に、何故そこまで人が集まったのだろうか。
「それでこの奥に小方丈という建物があってね、和尚様はそこに住んでいたのさ。今でも生活用品が残っているはずだから、お寺に住み込むとしたらここだと思うのだけれど――」
言葉を句切った慧乃が、鳶色の大きな瞳でこちらの顔をのぞき込んでくる。
この顔は、何か頼みたいときの表情だ。
慧乃はにっこりと笑って、声をかけた。
「君も着いてきてもらえるかな?」
そんなことか。
だとしたら、答えはもう決まっていた。
「ここまで来たんだ、つきあうよ。それに賽銭泥棒相手にお前一人じゃ不安だからな」
まさかとは思うが、寺に勝手に住み込んでいるような人間だ。慧乃に危害を加えるかも知れない。
「そう言ってくれるとありがたいよ。さて、いるかな?」
慧乃は閉じられていた引き戸を叩いて声をかける。
「すみません。どなたかいらっしゃいますか?」
慧乃の声が静かな大方丈に染み渡っていく。
しかし、しばらく待っても返答はなかった。
「いないんじゃないか?」
「うーん、そうみたいだねえ。とりあえず中の確認だけしておこうか」
慧乃はカバンから鍵を取り出すと、扉を開けて頭を下げ、大方丈の中へと入った。
それに続いて中へ入る。廊下はしんとしていて静かであった。埃が積もっていたが、確かに誰かが出入りした跡もある。
慧乃が靴と靴下を脱いで廊下に上がったので、それに習い裸足になって廊下へと上がった。
廊下から左に曲がって直ぐのところに、四〇畳程の広さの大広間があった。
部屋の中央奥には錆色をした立派な仏像が置かれている。
慧乃は仏像の前で正座して手を合わせると、目を瞑って礼拝した。隣に座って仏像を拝むと、慧乃はすっと立ち上がって周りを見渡す。
「誰かいることは間違いなさそうだね」
「そのようだ」
大広間に放置された、座布団と空になったせんべいの袋を見て慧乃が呟く。慧乃は大方丈を後にして、廊下を進んでいく。
中庭の見える戸は開けられていて、廊下には清らかな風が吹いていた。
中庭にあるエメラルド色をした不思議な池に設置された添水が、カコーンと心地よい音を響かせる。
「こっちが小方丈なのだけれど、あらまあ」
慧乃が戸を開けた向こうでは、生活感のあふれる十畳程の和室に布団を敷いて、坊主頭の女が寝息を立てていた。
女は戸が開けられたことに驚いて体を起こすと、眠たげに開いた瞳でこちらを睨んで、うっとおしそうに声を発した。
「何あんた達。人の家に勝手に入ったら駄目って教わらなかったの? 不法侵入で訴えるわよ!」
女は着崩れた作務衣を直しながら起き上がり、慧乃の目の前に立ちふさがってふんぞり返るとそう口にした。
盗っ人猛々しいとはこのことだろうか。
女は坊主頭をしていたが、それ以外はとても寺の人間に見えるところはなく、着崩した作務衣からは白い肌がちらちらと見え、作務衣越しでも分かるほど出るところは出て引っ込むところは引っ込んだ、女性らしい体つきをしていた。特に胸に関しては、隣に立つAカップ以上に胸が成長しない呪いにかかった女が哀れになる程である。
「ええと、初めまして。私はこの度、山役所からここのお寺の管理を任されたものです。よろしければそちらのお名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
慧乃は丁寧に頭を下げたが、相手の女はふんぞり返ったままで答えた。
「あたしは南陽邦実。あたしのこと知らない? 結構有名なアイドルだったんだけど」
「あら、そうでしたか。すいません、私そういった情報に疎くて」
慧乃は謝って、こっちに知っているかい、なんて尋ねてきたが、生憎こちらもそういった事情には疎かったので首を横に振って答えた。
「ふん、これだから田舎者は。って、あんた、たまにうちに来てたわね。今日の分の賽銭は入れたの?」
「入れてねえよ」
尋ねられたので答えると、邦実は短く一つため息ついて、ほっそりとした右手をすっと差し出して言った。
「なら直接受け取るわ。ほら、早く出しなさい」
「お前なあ。ふざけるなよ」
あまりに傍若無人な態度にいらっときて差し出された手を振り払う。しかし邦実は悪びれる様子もなかった。
「ふざけてないわよ。賽銭がなかったらどうやって生活しろって言うのよ」
「あのなあ。勝手に寺に住み着いてる分際で何様のつもりだよ」
「何様かですって? 邦実様よ!」
邦実は豊かな胸を張って堂々と宣言した。
こいつは今まで人成山で出会ったどんな人間とも違うタイプの人間だ。一番近い人間で知佳子の片割れ、自我を主張する存在である知佳であろうか。しかし知佳だって、ここまで酷くはなかった。
「それに、あたしはちゃんと前の和尚のお墨付きを貰っているのよ」
「あら、そうだったのかい?」
「だまされるなよ。口から出任せに決まってる」
納得しかけた慧乃を諭して、邦実の前に立ちふさがって威圧的な口調で尋ねた。
「証拠を見せてみろ。ないなら話にならん」
「バカね。あるに決まってるでしょ。ちょっと待ってなさい」
邦実は鼻を鳴らして振り返ると、空になった菓子の箱を蹴飛ばしながら壁際に置かれた仏壇の元へ向かい、引き出しの中を漁り始めた。
少しして一枚の紙切れを取り出すと、自慢げな表情を浮かべてもどってきた。
「ほら、見ての通りよ」
「確かに和尚様の字だね」
一目でそう判断した慧乃は、書かれた内容を読み始める。
手紙は古めかしい筆文字で書かれた立派な物で、最後には署名と、朱色の判が押されていた。ここまでしっかりとしていると、ねつ造ではなさそうだ。
「この寺に訪れた人へと宛てた物だね。寺の備品を大切にしてくれたら建物は自由に使ってもいいって書かれているよ」
「本当か?」
慧乃から手紙を受け取って読み進めると、確かにそのように記されていた。
「ふふん。言ったとおりでしょ。邦実様は嘘をついたりしないのよ! あたしは和尚様の残した書き置きに従って、寺を自由に使ってるの! 何も問題ないでしょ!」
邦実はどうだ見たかと言わんばかりな態度であった。寺の備品である賽銭に手を出しているから正確には書き置きに従ってはいないが、住み着くことは全く禁止されていなかったのだ。
「つまりお前は、前の和尚の書き置きの方が、役所から寺の管理を任された人間の言うことよりも大切だと言いたい訳か」
「当たり前でしょ。正当な寺の持ち主が、自由に使って良いって言ってるのよ」
「つまりこの手紙に書かれた内容には素直に従うべきだと」
「もちろんよ。それこそ何よりも尊重すべきものだわ。きっと神様も、そう願っているはずよ」
「仏様な。それで、この手紙を尊重するというなら、最後のほうに書かれたこの一文も尊重するわけだ」
手紙の末尾に記された一文を示して問いかけると、邦実は大きく頷いた。
「当然だわ」
ふむ、と一つわざとらしく頷いて、その一文を読み上げる。
「――ただし六宮慧乃が寺を訪れた場合は、つつがなくその指示に従うこと」
「訪れたらね。あんた、六宮慧乃じゃないでしょ」
「そうだな。六宮慧乃じゃない」
隣に立つ女に目配せすると、慧乃は少し照れた様子で、頭を下げて自己紹介した。
「ええと、邦実さん。私が、六宮慧乃です」
邦実の体が固まった。
はっと驚いた表情で微動だにしなくなり、照れ隠しか髪の先をいじる慧乃の顔をまじまじと見つめたまま硬直してしまっている。
「おい、邦実。何とか言ったらどうだ」
声をかけると邦実は硬直を解いて、一歩後ずさって言った。
「う、嘘でしょ。証拠はあるんでしょうね!」
「証拠、と言われても、これでいいかな?」
慧乃はカバンから山民証を取り出して提示する。
慧乃の顔写真の入ったそれには、しっかり六宮慧乃と記されている。
「ま、マジか。六宮慧乃だなんて名字も名前も変わってるから坊さんの名前だとばかり思ってたわ」
「それは初めて言われたなあ」
慧乃は相変わらず照れた様子で、髪の先をいじって小さく笑っていた。
邦実はばっとしゃがんで膝をつくと、平伏してそんな慧乃を仰ぐ。
「ああ、慧乃様、どうかお慈悲を。ここから追い出されたら住むところがないんです」
権力に屈した邦実はすっかり態度を変えていた。どうも演技じゃあないかという疑念がぬぐえないが、一応は慧乃に従うそぶりは見せているわけだ。
「邦実さんは、どういった呪いなのかな?」
「お寺に住み込まないと、頭がいつまでもこのままなんです!」
慧乃の問いかけに邦実は即答した。
こんな性格の女なのに坊主頭にしているのは何か変だと思っていたが、呪いでこんな頭にされていたのか。しかも呪いは寺に住み込むこと。言われてみれば、この頭じゃあ違和感なく住み着ける場所は寺くらいのものだ。無人で放置されていて、好きに使って良いと前の持ち主が書き置きを残していた好凮寺は、邦実にとってみれば天の助けのような場所だったことであろう。
「お寺に住み込む、か。そうだね。このお寺も、無人にしておく訳にもいかないし」
「おいおい、こいつ住まわせる気か?」
「あんたはちょっと黙ってなさい」
ちらと顔を上げてこちらを睨んで来た邦実。こちらに対しての態度は相変わらずのようだ。
「うーん、どうしようねえ」
慧乃は部屋の中を見渡す。
部屋は邦実の脱ぎ散らかした衣類やら、食べ終わった菓子の袋や弁当箱なんかが辺りに散らばっていて、とても寺の一室とは思えない様相を呈していた。
「邦実さん。もうしばらく、あなたが好凮寺を任されるに足る人物か、様子を見させて頂いても良いかな? お寺を任せるかどうかはそれから決めることにするよ」
「ははあ! 慧乃様のお慈悲に感謝します!」
邦実は慧乃を仰いで感謝を述べたが、慧乃は邦実が寺に住み着くことは別に許可しちゃいないのだ。もうしばらく様子を見るとわざわざ言う位なのだから、現時点のままだと落第だということだ。それをこのアホ女は正しく理解できているのだろうか?




