中編 一滴の水⑨
気持ち早足になって登山道を下っていく。
登山道入り口の鳥居をくぐり抜けると、ぴこんと軽快な効果音と共に残り登山日数が更新された。
それを頭の片隅にとどめて、なおも早足で貸しアパートへと向かった。
金属製の階段を音を立てて上がると、目的としていた部屋の扉が開かれた。
「やあ、やっぱり君か。今日は早い帰りだね」
「そうか?」
時計をみると、午後二時過ぎであった。そんなに早い時間だとは思えない。
「ところで、お昼ご飯食べたかい?」
「まだなんだ、それより――」
「それは良くないね。と言っても私も丁度これからなんだ。よければ一緒にどうだい?」
出しかけた言葉を飲み込んで、慧乃の提案に頷いた。
一度部屋に戻り、荷物を――といっても大した荷物ではなかったが――置いて自分の食器を持つとすぐに隣の部屋を訪ねる。
「さあ、どうぞ」
既に食事の準備は出来ていて、示されるがまま席に座ると、慧乃は食器を受け取ってご飯をよそいはじめた。
何も言わず、ご飯と味噌汁を用意する。自分からも何も言えず、そんな様子をただ眺めていた。
「では頂きましょうか」
「ああ、悪いな、ごちそうになって」
「いいのさ。私の趣味みたいなものだからね。むしろ付き合ってもらえて嬉しいよ」
「それでも、ありがと。ありがたく頂かせてもらうよ」
メニューは魚の干物と野菜の煮物。金平ごぼうと漬け物にもやしの味噌汁。相変わらず質素だが、それでもごちそうに違いない。
食べる前に手を合わせる。
小さく「頂きます」と口にしてから目を開けると、先程と変わらず料理が並んでいる。
当たり前の様だけれど、当たり前ではない。
魚も、野菜も、お米も、それぞれにそれぞれの命の育みが有って、いろんな人が努力したおかげでここに存在している。
そう思うと、自然と体が止まり、また手を合わせて目を瞑っていた。
目を開けると、今度はきらきらと鳶色の瞳を輝かせてこちらを見つめる女の姿が目に入った。
「何か得るところが有ったようだね」
微笑んで、慧乃は優しく語りかける。
「分からん。どうして良いんだか結局分からなかった。――でも、こうして何かがただそこにあるってことをありがたいって思えるようになったのは、一滴水のおかげだと思う」
「そうだねえ。たかが一滴。されど一滴。その一滴は命の一滴だよ」
「命、か」
頷くと慧乃は続けてやんわりとした口調で語り始めた。
「水の命もそうだけれどね、君の命でもあるのさ。君が捨ててしまった一滴の水は、君の命の一滴に他ならないんだよ。だから、水を粗末にするってことは、自分の命――授かった大切な物を粗末にするってことなんだよ。だから、グランマはちょっと意地悪したんだと思うよ」
「自分の、命ね……」
「それさえ分かってしまえば、水を大切にしようとか、物を大切にしようとか考えなくても、自然と大切にしてしまうものだよ。いや、大切にしなければならなくなってしまうのさ。水一滴を捨てると言うけれど、実際は君が、水一滴に捨てられているのさ。そう思うと、一滴の水さえ無駄にするものかって思えてくるだろう?」
「水に捨てられるときたか。お前らしいと言えばお前らしい。――でも、そうかも知れん。捨ててたつもりになっていたけれど、実際は逆だったと言う訳だ。水一滴のくせに人を捨てるなんてなんて生意気なんだ」
「その意気だよ。さあ、それじゃあ頂きましょう」
もう一度手を合わせると、慧乃の作った料理を食べ始めた。
食事中、二人とも口をきかなかった。
いや、正確にはきけなかった。
一口一口が自分の命だと分かってしまうと、ただただそれがありがたくて、言葉を発することが出来なかったのだ。
食事が終わると、もう一度手を合わせた。
言葉はもう必要なくなっていた。
「今日は食事に付き合ってくれてありがとう」
「こちらこそありがとう。またたまに誘ってくれよ」
「いいのかいそんなこと言って。私をその気にさせたら毎食誘いに行ってしまうよ」
「それは勘弁だなあ」
「そこは喜んで欲しかったなあ。――さて、片付けをしようかな」
慧乃は盆に食器をのせて、流しへと運んでいく。
その背中に、自然と声をかけていた。
「手伝うよ」
流しに盆を置いた慧乃は振り返って、鳶色の大きな瞳を輝かせてこちらを見つめた。
その表情に、迷いはなかった。
慧乃は大きく頷いて、一言こう口にしたのだ。
「是非手伝っておくれ」
中編 一滴の水 終わり




