中編 一滴の水⑧
「少しばかり、面構えが変わったね」
「そうかい。あんたは変わんないな」
山頂のばあさんに水を渡すと、ばあさんはどうやらこちらの変化に気がついたらしい。流石、長年人成山の山頂に住み続ける偏屈ばあさんだ。
「いろいろ意地悪を言ったようで悪かったね。気を悪くしたかいね」
「そんなことない。どうせここで暮らしていたら、いつか誰かに指摘されるんだ。さっさと気がつけて良かったよ。ま、一滴水を拾うのには、まだだいぶかかりそうだけど」
「それはそうじゃろうねえ。あたしゃあ長年こうして一滴の水を拾えと言ってきたが、きちんと拾ってこれた人間は数えるほどしかいないよ」
「そうかい。――慧乃もか?」
頷いてから、一つ尋ねるとばあさんはにんまり笑って答えた。
「あの子はここに初めて来たときにはもう一滴水を拾っていたよ。全く恐ろしい子もいたもんさね」
「ふーん」
興味なさそうに返事をして、内心慧乃がどうやって一滴水を拾ったのか考えていた。
一滴水は、水を大切にしろという導入には違いない。
そこから発展して、たぶんどんなものも大切にしろと言いたいのだろう。
それを踏まえた上で、一滴水を拾うとは一体どういうことなのだろうか。
「考え事かい? いろいろと分かったことがあるのなら、直接慧乃にきいてみればええ。分からずとも、何か得るところはあるじゃろ」
「あんたにきいたら教えてくれないのか?」
「あたしゃあ偏屈なばあさんだからね。お節介はしても人の頼み事はきかないのさ」
「全く偏屈なばあさんだ」
ばあさんはそんな言葉にも「そうじゃろうそうじゃろう」と微笑んで答えて、見送ってくれた。
「ああ、一つ良いかい?」
背中に声をかけられたので、振り向いて肯定を示す。
「慧乃は変わった子だよ。頭も良いし、智慧もある。人成山のことも良く理解している。でもね、どうも自分のことを後回しにする嫌いが有る。見ていて少し危なっかしいのさ。だからあんたが、近くであの子を見守っていておくれ」
ばあさんの依頼に、頷いて良いものかと思案して、一つ尋ね返した。
「なんで他の奴に言わない。もっと適任が居るだろう」
「いやしないよ。あんたみたいにお人好しで、そのくせいろいろ足りてない人間はね。慧乃にはあんたみたいのが丁度良いのさ」
「足りてない?」
お人好しはともかく、足りてないとはどういうことだ。
語気を強めて問うと、ばあさんはからかうように笑った。
「足りてるのかい?」
「いや、足りてないよ。悪かったな」
これ以上つきあってられんと背中を向け、その場を立ち去ろうとする。
それでも最後に、ばあさんに返答だけはしておこうと、振り返らずに声を上げた。
「あんたの頼みは分かったよ。慧乃にいやがられない限りは近くに居るさ」
きこえていたはずだが、ばあさんの返答はなかった。
偏屈ばあさんのことだ。たぶんそれで良いのだろう。
水を下ろして軽くなった体で、空のポリタンクを担いで人成山を下った。
帰り道は順調そのもので有った。
二二リットルの水というとんでもない重りから解放されて、軽快に山を下っていく。
途中の神社でも休憩をとらず、横目で茶屋の外でこれまた意地の悪そうなばあさんに怒鳴られている二人の少女をちらと見たが、声も掛けずにそのまま通り過ぎた。
いよいよ中層に辿り着く頃には、流石に暑さで汗が沸き、少しばかり休んでいこうと喫茶店『尾根』へと入った。
「おや、いらっしゃい。来てくれないのかと思ったよ」
「何だ、来て欲しかったのか?」
「そりゃあもう。暑かっただろう。しばらく休んでいくと良い」
冷房の効いた店内は非常に居心地が良かった。
空のポリタンクも役所前の倉庫に戻し、完全に荷物から解放されたのもあって、久々にゆったりと足が伸ばせた。
カウンター席に座ると、マスターが何気なく氷水の入ったコップを置いた。
当然のごとく出てきたそれを、じっと見つめる。
「ちなみに懐が心許ないから何か頼む気はないぞ」
「構いやしないよ。ゆっくりしていってくれ」
冗談で言ったのだがマスターが笑い飛ばしたので、なんだか居心地が悪くなった。
それでも出された水をそのままにすることも出来ず、口をつけた。
一口水を口にして、ふとあのバイトの日、山頂でマスターを見かけたことを思い出した。
「そういえばこの間、ばあさんの所の水を運ぶ仕事をしてたよな。何であんなことしてたんだ? 店が有るのに」
「ああ、そのことかい。何て言うか、ちょっとした習慣でね」
「習慣?」
先が気になって、思わず相づちを打った。
「ほら、今は普通に中層でも水道が使えるけど、昔はもちろんこんな便利なものなかったんだよ。それなのにこうして中層で、お客様に一杯の水を提供している。これって当たり前の様に思えるけれど、実はそうじゃないんだ。だから、それを忘れないためにすこしばかり苦労するのさ。下層の井戸から中層まで、必死に水を運んでいた昔の人を思ってね。まあほんの少しだけれどね」
マスターの言葉が心に響いた。
これこそ一滴水の心ではないか。
当たり前の様に手に入ってしまうが故に、それが当たり前でないことに気がつかない。
たった一滴の水を手に入れるために、たくさんの苦労が必要だったのにもかかわらず、今では蛇口をひねればいくらでも水が得られてしまう。
「それに、良い物も貰ったしね」
考え込んでいると、マスターがカウンターに封筒を一つ取り出した。
それはばあさんから貰った封筒と一緒のものであった。
ちらと視線で開けて良いかと尋ね、マスターが頷いたので中身を覗く。
出てきたのは、小さな紙切れとお守り。
紙切れには、あのばあさんの字で感謝を告げる言葉が記されていた。
「これだけか?」
他には何も入っていなかったのを確認して問いかけた。
肝心のお金が入っていないのだ。
「こんなにも貰っているじゃないか。君は朝、そこの公園の蛇口で水を汲んでいたよね? そのときその蛇口に何か渡したかい?」
「それは……何も――」
言葉にしようとしてはっと気がついた。
当たり前に使えるから、当たり前のことだと気がつかない。
自分は、水を大切にしようと心を切り替えていたが、当たり前の様に差し出された水に感謝してきただろうか。
貸しアパートの水道から出た水に、中層で水筒一杯に汲んだ水に、神社で知佳から貰った水に――
一滴水について、知ったようで何も分かってはいなかった。
そう思うと、コップを持つ手が固まり、自然と涙が頬をつたった。
「あ、あれ? どうしたんだい。何かあったのかい?」
「い、いや。悪い。こっちのことだ」
咄嗟に顔を拭い平然を装ったが、マスターは何か感ずいた様子だった。
喉の奥で小さく笑って、語りかけてくる。
「また何かしら悩んでいるようだね。今のことは内緒にしておくよ。ただその見返りとして、こんど慧乃さんを連れてきてくれよ」
「――分かったよ。今度連れてくる。いろいろ世話になったな」
水を一気に飲み干して、カウンターの上にコップをそっと置くと、席から立ち上がる。
「もう行くのかい? ゆっくりしていけばいいのに」
「悪い、ちょっと用が出来た」
「そうかい。なら早く行ったら良い。光陰矢のごとし時人を待たず、だそうだ」
光陰矢のごとし、か。
でもなんだか、あいつはきっと待っていてくれるんじゃないかと思う。
とかく六宮慧乃という人間は、そういう奴なのだ。




