中編 一滴の水⑦
三日目とあってだいぶ疲れが溜まってきていた。肩と足にかかる重みが気にはなるが、それでもいつものペースで山道を進む。
途中二回ほど休憩をはさみ、神社へと辿り着く頃には水筒の水は空になっていた。
茶屋に寄っていこうかと思ったが、生憎懐具合がよろしくない。
次の収入が何時になるか分からない以上、無駄使いは出来ないのだ。
ひとまず涼をとろうと、小さな屋根のあるベンチに座り込んだ。
日は当たらないが風がない。しかも辺りの空気が熱を持っているせいで、日陰だというのに汗は引いていかない。
冷茶を一杯貰えば多少マシになるだろうか。
これは必要経費という奴なのではないか――
「何やってんのよ、暑苦しいわね」
気がつくと目の前に、ふんぞり返った生意気そうな女が立っていた。仕事中なのだろう、この暑いのに和装である。
「暑いもんは仕方がないだろう」
「あんたねえ。今日の最高気温何度か知ってる? 三一度よ三一度。もう立派な真夏日なのよ。それをそんなアホみたいな荷物背負って登ったら暑くもなるわよ」
「そんな情報知りたくなかった」
知ってしまったせいで余計に暑く感じる。
クソメガネの言っていた「予報なんて見なければ良い」というのは、あながち間違っちゃいないようだ。
「ま、暑いなら冷茶でも飲んでいきなさいよ。今ならサービスでとびっきりの美少女が運んであげるわよ」
「へえ、知子が運んできてくれるのか」
「何あんた、口を開く前に少しは頭を働かせてから開いたんでしょうね」
首根っこをつかまれ身の危険を感じたが、知佳はすぐにその手を離した。
「ちょっと! あんたどんだけ汗かいてんのよ」
「うるさいな。暑いんだ仕方がないだろう」
「それならほら、そんなところにいないで店まで来なさいよ。ここよか多少はマシよ」
「悪いが金欠なんだ。誰かさんのせいで」
「何、私のせいだって言うの? あんたの金がないのはあんたのせいでしょ。何でも人のせいにするんじゃないわよ」
「へいへい。申し訳なかったね。それで悪いんだが、暑苦しいからあっち行ってくれるか」
「言われなくても行くわよ。じゃあねお馬鹿さん」
知佳はきびすを返して大股で茶屋の方へと歩いて行った。
それにしても暑いはずだ。六月なのに真夏日とは。
汗が頬をつたい流れていく。一向に風が吹かず、熱が引いていかない。
呼吸を落ち着けようとしてみるが、暑さのせいで集中できず、次第に頭がぼんやりとしていった。
いっそのこと、背負ったこの水を飲んでしまえば良いのではないだろうか。
そもそも誰も運んでくれなんて言っちゃいないのだ。これは自分の趣味でやっていることだ。
水を持って行かなかったところで、ばあさんもクソメガネも怒ったりはしない。
しかし本当にそれでいいのだろうか。
仮にも山頂へ運ぶと言って受け取ってきた水だ。それを自分のためだけに使用して良いのだろうか。そんなことで一滴水など拾い得ることは出来るのだろうか。
暑さの中で悶々と考え込むが、答えが出ない。
しかし人の気配を感じてふと顔を上げると、和装の女がつり上がった目でこちらを見下ろしていた。
「なんだ知佳。今度は何の用だ」
「別に、用があるわけじゃないけど、暑そうだなーって思って」
「暑いんだよ。さっきも言ったろう」
「そうね。そういえばそうだったわ。でもね、あんたを見てるとこっちまで暑苦しくなるのよ。だから――ほら」
知佳は後ろで組んでいた手をすっとこちらに差し出した。
そこには水がいっぱいに入ったガラスのコップが握られている。
「門外不出の神聖な水じゃなかったのか?」
「だから、門から出してないじゃない。ここは境内だからセーフよ。そういうことにしたわ。しかもお水はサービスで無料よ。わかったらほら、さっさと受け取ってくれる? 私だって暇じゃないんだけど」
手を伸ばそうとするが、途中で止まる。
しかし知佳は伸ばした手に無理矢理コップを持たせてきた。
「どうせまた馬鹿なこと考えてるんでしょ。あんた、私の時もそうだったわ。答えなんかでやしないのに、なんでそんなに必死になるのよ」
怒っているのか呆れているのか、知佳は珍しくこちらの目を真っ直ぐに見つめて言葉を紡いだ。
「分からん。分からんから必死になるんだ」
「はあ、何よそれ、意味わかんない」
「一滴水――地面に落とした一滴の水を拾えと、山頂のばあさんに宿題を出された。慧乃も一緒になって拾えという。だから拾わないとならん。それだけだ」
「一滴水? それで私が折角茶屋のババアの目を盗んで汲んできた水を飲めないって言うの? それこそ意味わかんないわ! 暑い暑い言って無駄に汗流してる方がもったいないわよ! ほんっとくだらない馬鹿よ馬鹿、あんたは正真正銘の大馬鹿よ!」
知佳の言葉でふと気がついて地面を見ると、確かに流れた汗がそこに染みを作っていた。
手にしたガラスのコップはひんやりと冷たく、結露した水が手のひらを流れる。
これも一滴水。あれも一滴水。
どうしたものかと考えようかとしたが、暑さで頭がまともに働かない。
そして目の前でどうも怒っているらしい知佳がこちらを睨み付けていたので、何も考えず行動するほかなかった。
手にしたコップに口をつける。
満たされていた水はひんやりと冷たく、瞬く間に体の中を涼が巡っていった。
次第にぼんやりとしていた意識がはっきりとし、気がつくと辺りに心地よい風が吹いていた。
「最初からそうすれば良かったのよ」
「ああ、そうみたいだ」
「ここに居たのですか」
知佳の背後から、知佳と同じ背格好で、色違いの和装をした女が声をかけた。
それに知佳は驚いて、慌ててコップをひったくると、背中に隠してその女へと向き直った。
「ちょ、ちょっと休憩してただけよ。お客さんも居なかったし」
「そうですか。ところで、背中に隠した物は何ですか?」
「別に、何も隠してないし……」
知佳のもう半分――知子に追求されてどぎまぎする知佳であった。どうにも水を持ち出したことがばれるとまずいらしい。
「私は私に隠し事が通用すると思っているのですか?」
「う、うるさいわね! 私のくせに、私に説教しないでよ!」
「説教をしているのではありません、ただ、隠し事に意味のないことは分かっているはずです。私のやったことを、私が分からないわけがないでしょう」
たじろぐ知佳に対して、知子は極めて落ち着いた様子で語りかけていたが、どうにも知佳の奴が可哀想になって間に入り込んだ。
「悪いな知子。無理言って知佳に水を持ってきて貰ったんだ。怒らないでやってくれよ」
「怒っているわけではありません。いえ、怒っているのかも知れません。全く、店長に隠れて神社のお水を汲むなんて、一体何をしているのですか」
「わ、悪かったとは思ってるわよ! だから、ね。店長にだけは言わないで」
「店長でしたらもう気がついていますよ」
「げっ――」
知佳の顔から血の気が引いていった。知佳はどうもその店長とやらが苦手らしい。そんなに怖い人なのだろうか。
「安心してください。店長も怒ってはいませんよ。それより、時間が空いたので私にお茶の入れ方を教えたいそうです。その気があるのならば早く行った方が良いですよ」
「ホントに!? つまり冷房の効いた室内で仕事できるってこと!? やった! すぐ行くわ!」
知佳は一転笑顔を振りまいて、持っていたコップを知子に押しつけると軽快なステップで茶屋へと走って行った。
「そんなに接客が嫌いだったのか」
「暑いですからね。それより、もうお水はよろしいですか? 入り用なら頂いてきます」
「いや、もう十分だ。神聖な水なんだから、大切にしないとな」
「そうですか。でも、必要なときは言ってくださいね。疲れた登山者に提供するためのお水ですから。そのための神社ですし」
「そうなのか?」
「ええ。少しばかりのわき水の出るこの場所に休憩所を作り、山と水の神様に感謝するために神社を建立したのだそうです。この間店長に教わりました」
「へえ。そうだったのか。知りもしなかった。でもそれなら、もっと自由に水を使えるようにしたら良いじゃないか」
「そうしたいのですが、水には限りがありますからね。そのための門外不出の掟です。必要な分以上は使ってはならない決まりもあります。使うときも、丁寧に扱うようにと店長からそれはもう厳しく言われました。あまりに細かいところまで注意されるので、私も投げ出したくなりましたよ」
「知子でもそんなふうに思うことがあるんだな」
何気なく口にすると、知子は口元で小さく笑った。
「おかしな事を言います。先程まであなたと喋っていたあの気の短い女の子と、私は同一人物ですよ」
「そうだった。未だに言われないと分からん。――いや待て、そうなると、知佳も店長とやらに厳しく言われるんじゃないか?」
「そうでしょうね」
やんわりと、当然でしょうとばかりに答えた知子に対して、ふと沸いた疑問を口にした。
「大丈夫なのか? その店長とやらが投げ飛ばされたりは……」
「私のことですから、きっと大丈夫ですよ。私もなんとか乗り越えましたから」
「そうは言うが――」
「それに、私は私以上に、水一滴の大切さが分かっているみたいです」
「水、一滴――」
知子の言葉に目を見開いた。
言葉は違えど、紛れもなく一滴水だ。
それを、知子ではなく知佳が分かっていると言う。それこそ今自分が求めている物であった。喉の渇きは満たせても未だ満たせぬ、心の奥が渇望する一滴の水だ。
「どうしてそう思うんだ?」
ゆっくりと、しかし確かな口調で知子に訪ねた。
知子はその雰囲気に少し戸惑ってか一呼吸おいて、それでもいつもの様にやんわりと、優しい言葉で答えを発した。
「だって私は、私よりもずっと上手に水を使って見せましたから」
空になったコップを示して知子が微笑んだ。
そのコップに、間抜けな表情をした男がゆがんで映し出されている。
「また悩み事みたいですね。――でもあなたならきっと、自分で解いてしまうのでしょう」
「それは買いかぶりすぎだよ。いつも慧乃に振り回されて、何とはなしに気づかされてるだけなんだ。自分で自分が情けないよ」
「そんなこと言わないでください。あなたはとても輝いていますよ。もっと自分に自信を持ってください」
「そう言われてもなあ……」
あれこれ難問をふっかけられては頭を痛めて悩んでいる自分に自信を持てと言われても難しいものがある。それなのに輝いているだなんて言われても、恥ずかしいばかりで何と返したら良いのか見当もつかなかった。それでも何とかひねり出した返答は、答えと言うより質問に近かった。
「それよかお前こそ、自分にもっと自身を持ったらどうだ」
「私、ですか?」
「さっき言っていたじゃないか、私より私の方が――って。同じ自分同士、比べることなんてないじゃないか――何て、お前が言うなって話かも知れないが」
「私、ですか。そうですね、ところであなたは私の事をどう思います? ――ああ、私の事ではなくて私の事ですよ」
「知佳か? どうと言われても――」
思いついた言葉をそのまま口にして、目の前の少女は傷つかないだろうか。
体は別れているとは言え同一人物なのだから、短気だの暴力的だの口が悪いだの言ったら気分を悪くするのではないだろうか。
「素直にお願いします」
重ねて言われると、やはり素直には言い出しづらかった。
「そうだな……。元気で、考えるより前に行動して、ちょっと口が悪くてすぐ手が出るが、まあ嫌いじゃあないよ」
「そうでしょう。いつも自分のやりたいことをやっていて、言いたいことを言っていて、私にはとても、輝いて見えるんです」
「そうかねえ……。知子の方が落ち着いていて大人びていて、立派だと思うけど」
「恥ずかしいことを言いますね……」
知子は顔を赤くして視線を逸らし、目の前で組んだ手をもじもじとさせる。
「でも、私も恥ずかしいことを言いましたね」
「言った言った。お互い様だ」
先に人の事を指して「輝いてる」なんて言い出したのは知子なのだ。
「それによく考えたら、自分の事を輝いて見える、などと言うのも少し恥ずかしかったです」
「そうか? ま、言われてみれば可笑しな話だな」
笑って肯定を返すと、知子は相変わらず顔を赤らめたままで俯きながら短く声を発した。
「あの――」
「ん? どうした?」
先を促すが、完全に俯いてしまって声が出ていない。
首をかしげ顔を覗きこもうとするが、知子は慌てて顔を上げて、一歩後ずさった。
「いえ、なんでもありません。お邪魔をしてしまいましたね。私の様子も見に行きたいので、私はこれで失礼します――」
思わず椅子から腰を上げ、手を伸ばすと知子の小さな手を摑んでいた。
「な、なんでしょうか」
知子が振り向く。その顔は先程よりずっと赤く染まっていた。
「言いたいこと言ったって構いやしない。散々知佳に言われたんだ。今更一つ二つ付け足された所で怒りやしないさ。それに、きっと知佳の方が知子へと近づいていくのが理想なんだろうけど、お前の方から知佳の方に近づいていっちゃいけないって訳じゃないだろう」
知子は恥ずかしそうに俯いて、それでも小さく頷くと、意を決したのかばっと顔を上げて声を発した。
「お茶、飲んでいきませんか? 私の煎れた、初めてのお茶なんです。今ならサービスで、とびっきりの美少女が運んできてくれますよ」
まさかそこまで言うものかと、思わず小さな笑みがこぼれた。
照れからか視線を逸らした知子に一つ頷いて、ちょっと演技がかった口調で返答する。
「ああ、是非行かせてもらうよ。丁度ちょっとばかしの収入もあったしな」
「はい。ではこちらへどうぞ」
はにかんだ知子の後に続いて茶屋へと歩いて行く。
少しの出費も痛くはない。
必要な出費はしなければならない。
それこそ一滴水のように、ただただ大切にするだけではなく、使うべき時に使うことが肝心なんだろう。




