中編 一滴の水⑥
落とした一滴の水を拾え。
山頂へと飲料水を運ぶ仕事を引き受けた際、不注意から一滴の水を地面へと落としてしまい、その結果与えられた宿題――いや、呪いと言った方が良いのだろうか。
ともかく山頂に住むばあさんにそんな呪いをかけられて、拾えるはずもない一滴水に悩まされていたのだが、ようやっと一滴水の存在に気づくことが出来た。
この呪いが『水を大切にしろ』と伝えたいのだと言うことは何とはなしに思っていたが、いざ自分の生活を振り返ってみるといかぞんざいに水を扱ってきただろうか。
朝飯にトーストを焼いて食べたのだが、その皿を洗おうと蛇口に手を伸ばしたところでふと気づく。
当たり前の様に使っている水道の水もまた一滴水。
それでも皿を洗わないで置いておくわけにもいかないので、蛇口をひねり皿を洗う。
使わなければならないのだから仕方がない。だが使う量は必要最低限に。
こんなことを繰り返していれば一滴水を拾えるのだろうか――
深く考えそうになるが、とりあえず今考えるべきではないだろうと頭を切り換える。
そもそも落とした一滴水は拾えないのだ。ならばせめて、新たに一滴水を落とさないようにするのが今の精一杯だろう。
出来ることからやればいい。というのは慧乃の口癖だろうか。付け加えると良く悩めだの、悩み方をよく考えろだの、何事も楽しまないといけないだの、あいつの言うことはいちいち説教臭いがどれも妙に的を射た発言のように思えてしまう。特に人成山で生活するのには無視できないことばかりだ。
皿を洗い終わり表面についた水滴をふきんで拭き取ると皿はピカピカになった。
しかし本当に良かったのだろうか。もっと水を節約することが出来たのではなかろうか――。
またもやあらぬ考えが浮かんでくるが、頭を振って切り換える。
こんなことで悩んでいたらきりがない。
ともかく今は自分の出来る精一杯を。
一滴水のこともあるが、そもそも人成山には呪いを解除するために来ているのだ。
十月十日の間人成山に登り続けなければ一生童貞を卒業できない。
自分のせいで卒業できなかったのならともかく、こんな呪いのせいで卒業できなかったなんてことになっては悲しすぎる。
しかも今は花の大学生。
いや、もう三年になって一度もそういう機会がなかった訳ではあるが、ここから先何があるか分からないじゃあないか。突然新入生の女の子に一目惚れされる可能性だってあるわけだし、この呪いはなんとしてでも解いておかなければならないのだ。
小さな水筒に作っておいた麦茶を入れて、今日も軽めの荷物だけを持って外に出た。
天気予報できいたとおり、すかっとした青空の広がる快晴であった。
遠くの方に大きな雲の塊が浮かんでいたが、人成山はそんなことお構いなしとばかりにさんさんと輝く太陽の光を一杯に受けて、青々と輝いている。
今日もまた随分と暑くなりそうだ。
六月の初めだというのに容赦のない日差しと気温のなか、意を決して人成山へと向かう。
入り口の鳥居をくぐり、いつもの登山道を歩く。
荷物が軽い分楽ではあったが、それでも中層に辿り着く頃には額から汗が噴き出していた。
あまりお金を好き放題つかえる身分でもないので、喫茶『尾根』の正面にある緑地公園の水道で空になった水筒に水を汲んだ。
暑さからか疲れからか、一杯になった水筒の口から水を溢れさせてしまう。
渇いたコンクリの上を流れていく水を見てまたやってしまったと頭を抑える。
一滴水を拾うはずが、またもや盛大に水を落としてしまった。
こんなことではいつまでたっても一滴水なんて拾えやしない……。
頬を強く叩き気持ちを入れ替える。
通りかかった少女に「何やってんのキモ」とかなんとかささやかれたような気がするがそんなことは気にしちゃいられない。
とにかく、今日の分の水を受け取るため山役所前の広場へと向った。
「やあ、毎日ご苦労様だねえ」
「飽きるまでは続けるさ。お前こそ毎日暇そうだな」
役所前のテントで一人本を読んでいたクソメガネがこちらに気づいて声をかけてきたので嫌味を返しておく。
「そりゃあ僕は自由人だからね。楽しいことには目がないのさ」
「楽しいか? これ」
「ものすごく楽しいよ。分からないかなー、この楽しさが。馬謖なら分かってくれると思ったんだけどなー」
「全然分からん。とにかく、今日の分の水、もらってくぞ」
「ああ。貰っていっておくれ。それにしても、昨日とは少し見違えたね。何か良いことでもあったのかい?」
「悪いことならあったけど。ともかく、ようやく一滴水が見えるようにはなったよ」
「ほーう。そりゃあ良いことじゃあないか。さては門番ちゃんに何か言われたね――ああ答えなくて良いよ、顔にそう書いてあるからね」
「うっぜえ。どうせ慧乃に言われないと気づくことも出来ねえよ」
クソメガネに図星を疲れて少しばかり腹が立ったが、クソメガネは相変わらずの態度でへらへらと笑うばかりであった。
「あっはっは。そりゃあ違うよ。門番ちゃんに何か言われただけで気づくことが出来たのだから、それは素晴らしいことだよ。まあ門番ちゃんは少しお節介が過ぎるところもあるからねえ。特に君に対しては何かとね」
「慧乃は誰に対してもうざいほどにお節介だ」
「そう言ってしまうとそうなんだろうけどね。ほら、準備が出来たよ」
クソメガネが水で一杯になった二二リットルのポリタンクの口をきつく閉めて示した。
「どうも。じゃあ行ってくるよ」
「ああ、行ってらっしゃい。でも今日で最後になりそうかな。明日から天気悪くなりそうだからね」
「そうなのか? 天気予報は晴れだっつってたぞ」
「予報なんて当てにするもんじゃないさ。分かってるだろう?」
「分かっちゃいるつもりだけど」
人成山の天気は変わりやすい。
変わりやすい山の天気よりも変わりやすいのだ。
天気予報なんてあってないようなものだ。それでも今日のこの天気を見ていると、明日も晴れるんじゃなかろうかと思ってしまう。
「晴れたらラッキー、雨でも仕方ないくらいに思っておくのが楽しむコツだよ。あと予報なんて見ないことだね。そうすれば予報では晴れだって言ってたのに! なんて無駄な事を考えなくてすむだろう?」
「さっすが自由人様は言うことが違うな。生憎、お前みたいに脳天気にはなれないよ。じゃ、行ってくるわ」
「脳天気ねえ。褒め言葉として受け取っておくよ。それじゃあ行ってらっしゃい。道中気をつけてね。無理して倒れたりしないように」
見送るクソメガネの方を振り返りもせず軽く片手をあげて返事として、今日も水を背負って山頂へと向かった。




