中編 一滴の水⑤
翌日、相も変わらず良い天気だ。
照りつける日差しは地面を焼き、登山者の体力を奪っていく。
昨日と同じよう身を軽くして中層まで赴くと、そこでクソメガネから水の入ったタンクを受け取った。
「本当にやるんだねえ。いやいや若いってのは良いことだ」
「お前何歳だよ」
「さあね。しばらく数えてないから忘れちゃったよ」
「そんな歳でもねえだろ。まあいいや。とりあえず行ってくるよ」
「ああ、気をつけてね。それと一滴水をちゃんと拾っておいでよ」
「言われなくても分かってるよ」
クソメガネに見送られ、中層を後にして山頂を目指した。
地面に落ちた一滴の水は、染みこんでしまって拾うことは出来ない。
だけれどその一滴の水は巡り巡って自分の元に返ってくるわけで、そういうわけだから中層から新たに水を運んでやれば一滴の水を拾えるのではなかろうかと。
水道の水だって、元をたどれば一滴の水だ。
雨となって降り注いだ水が、長い年月をかけて濾過され、人々の元に届けられるのだ。
それになんとなく気がついたことがもう一つあった。
恐らくだが、ばあさんは水を大切にしろと言いたかったんじゃなかろうか。
だからこうして、飲料水が貴重な山頂へ向けて水を運んでいる。
途中神社に寄り休憩することにした。
茶屋に寄る金がもったいなかったので休憩所のベンチに腰を下ろし、水筒の水を口にする。
昨日の疲れも残っているのか、やはり水を背負っての登山は足にくる。
更に強い日差しも手伝って、汗が噴き出していた。
だがそれでもそうしてしばらく休んでいると汗が引いていき登山を再開する。
「おや、今日も来たのかい?」
「ああ、どうせ登山するからな、ついでに水を持ってきた」
「それは助かるねえ。でももう報酬は支払えないよ。生憎持ち合わせがないもんでねえ」
「ハナにも大盤振る舞いしたりするからだろ」
「そうだったかねえ。まあ何にせよ、持ってきてくれた分はありがたく受け取らせて貰うよ」
「そうしてくれ」
ポリタンクの水を丁寧に貯水タンクへと移していく。
細心の注意を払ったおかげで、最後の一滴まで、無事に移すことが出来た。
「わざわざありがとうねえ。この天気じゃあ疲れただろう。少し休んでいくかえ」
「ああ、そうさせてくれ――って、それだけか? 一滴の水は?」
無事に水を運ぶことが出来て、何かあるのではないかと思っていたのにもかかわらず、ばあさんの態度は変わらなかった。
「少し待っておれ、お茶を煎れるよ」
「いやちょっと待て――」
言葉を聞き終わる前に、ばあさんは家の中へ入ってしまった。
仕方なく椅子に腰掛け待っていると、ばあさんが盆に湯飲みをのせて戻ってくる。
「ゆっくり休んでお行き」
「それは良いんだが、一滴の水はどうなったんだ」
「拾えたのかえ?」
ばあさんの問いかけに何と答えるべきか言葉に詰まる。
拾えた気はしない。
そもそも落とした水は拾える物じゃない。
だからこそこうして水を運んできたのだが、それは落とした一滴の水を拾ったことになるのだろうか……?
「精々悩みなさいな。飲み終わったらそこに置いて行ってくれ」
それだけ言い残すと、ばあさんは再び家の中へ入っていった。
まだ認められていない。
言葉にはしなかったが、ばあさんの態度は「まだ拾えていない」と言っていた。
何が足りていないのか。どうして一滴の水を拾えないのか。
そもそもどうして一滴の水を拾わないといけないんだ?
ばあさんは落としたのだから拾えという。慧乃も拾わなくてはならないと言った。
でも本当に拾わなくてはいけないのだろうか。
確かに山頂で水が貴重なのは分かる。
でも、だからといってたった一滴の水にここまでするようなことなのだろうか。
だって落とした一滴とは比べものにならないほどの水を、汗水流しこうして山頂まで運んできているのだから。
どうにも納得できなかったが、今更あれこれ言ったところで何も変わらない。
ひとまず山頂の石碑にふれると、そのまま下山し今日の分のノルマを達成した。
貸しアパートまで戻ると、どうにもまた靴が汚れていた。
小さな泥でもとっておかねば、明日の登山に差し支えが出る。
面倒になる前にやってしまおうと、部屋に入り荷物を下ろすと、ブラシと登山靴だけ持って貸しアパート前の水道へと向かった。
一六時を過ぎていたが日は未だ高く、地面にさす太陽の光は相変わらずである。
冷たい水を手に感じつつ、ブラシで泥を落としていると、ふと人の気配がした。
どうせ誰だかは分かっていたが、振り向いて確認する。
「今帰りか?」
「うん。今日はなんとなく早めに帰って来たのだけれど、こうして君に会えたと言うことは、そういう縁だったのかも知れないねえ」
「お前に言わせりゃ何だって縁だろう」
慧乃はその言葉に小さく笑って「そうかもしれないね」なんて口にして隣に座り込んだ。
「ところで一滴の水は拾えたのかい?」
慧乃の問いかけに思わず目を逸らす。
「拾えていないようだね」
慧乃は口元で小さく笑って、細めた鳶色の目でこちらの顔をまじまじと見つめてきた。
「何だよ」
「何か思うことはあるかい? 思い詰めているようだから、一つ相談に乗ってあげよう」
「一つねえ……」
思うこと、といえばそもそも水を拾う事に対して疑問を感じ始めていたのだが、そんなことを慧乃に言ってしまうのはいけない気がする。
慧乃は拾わなくてはならないの一点張りなのだ。拾えんと答えたところで、いいから拾えと返されるのが落ちである。
だとすれば、今日試した事の評価をして貰おう。ついでに何かしらのヒントを貰えるのであれば幸いだ。
「――今日、山頂まで水を持って行ったんだ。前と同じ二二リットル」
「あら、それはお疲れ様だねえ」
「だがあのばあさん、まだ水は拾えていないと言った。なんとなくだが、水を大切にしろって言いたいんだろうなってことは分かったさ。でも、地面に落とした一滴の水を拾えと言われたら、それはもうどうしようもないだろう」
「ふーむ、君はおかしなことを言うねえ」
慧乃が首をかしげて、不思議な物を見るような目で見つめてくる。
何がそんなにおかしいのか、尋ねようと思ったら慧乃が細い腕をすっと伸ばした。
「水を大切に、ね」
そう口にして慧乃が蛇口をきゅっと閉めると、今まで出しっぱなしであった水が止まる。
水道の口からぽつりと落ちた最後の一滴の水は、そのまま周りの水に混じって、排水溝へと吸い込まれていった。
「本当に分かっているかい?」
慧乃の全てを見透かしているかのような鳶色の瞳に見つめられ、何も答えることが出来なかった。
水を大切に、なんて分かっているつもりだったけれど、何も分かっていなかったのだ。
排水溝に流れていった水がどれほどの量だったのかは定かではないが、その水すら捨てている人間が、果たして一滴の水を拾うことが出来るのだろうか――
「分かってくれたみたいだね。ああ、勘違いしないでおくれよ。別に私は君に説教がしたいのではなくてね。ただ、分かっていないことを分かっている気になっているのは危ないなあと思って。君が気づいてくれたのならそれでいいのさ」
「それを説教って言うんじゃないのか」
「そうかなあ。気を悪くしたらごめんよ」
「いや、謝るのはこっちのほうさ。何にも分かっていないくせに、一人で勝手に分かっていた気になってたんだ」
「言ったろう。気づいてくれたのならそれでいいのさ。それに、謝る相手は私ではないはずだよ」
「そう……だな」
一つ深く頷いて、ふと水道の口へと目をやった。
その先にたまった水滴が、今にも風に吹かれて落ちようとしている。
すっと手を伸ばすと、その手のひらにぽつりと水滴が落ちた。
たった一滴、されど一滴。
ようやくばあさんや慧乃が言う、一滴の水の存在に気づくことが出来たのだ。
「まだ何かききたいことはあるかい? 今日の六宮さんは優しいからねえ、是非何でもきいておくれ」
「いや、いいよ。もう少しばかり考えてみるさ。また行き詰まったらそのときは頼むよ」
「なんだか嬉しいけれど、ちょっと寂しい気もするね。それじゃあ今日はこの辺にしておこうかな。何かあったらいつでも言っておくれ。あと、たまにはご飯を食べに来てくれると嬉しいよ」
微笑んだ慧乃に相づちを打って、立ち去るのを確認してから登山靴を拾い上げる。
濡れた靴から水滴がぽたぽたと地面に落ちていった。
「さて、どうやって拾ったらいいだろうか」
ばあさんから受け取った、一滴の水を拾う宿題。ようやくそのスタートラインに辿り着いた。




