中編 一滴の水④
「ほら、一滴持ってきたぞ」
一滴だけ水を入れた五〇〇ミリリットルのペットボトルを突きつけると、ばあさんはにんまりと微笑んだ。
「わざわざご苦労様だね。これで二十二立は受け取ったことにしようかね」
一滴の水を細心の注意を払って貯水タンクへと移す。
無事に貯水タンクへと落とすことに成功し、ばあさんから報酬の封筒を受け取った。
「しかしこれはあんたが落とした一滴の水とは別の物だろう。まだ水は拾えてはいないようだね」
なんて言ってのけるばあさんの顔を訝しげににらみつける。
「全く意地の悪いばあさんだ」
「ばあさんは皆意地の悪いもんさね。それより、それはなんだい?」
背負っていたポリタンクを示してばあさんが問いかけた。
「水だよ。手ぶらで登ってくるのがアホらしかったからな。そんな多くはないが、ないよかマシだろう」
五リットルのポリタンクを下ろしてその中身を貯水タンクへと移していく。
同じへまをしないよう、最後の最後まで気を抜かずに水を注いだ。
「わざわざありがとうねえ」
「どういたしまして」
言葉だけ返してさっさとこの場を離れようとしたが、ばあさんが封筒を差し出してきたのでそれを凝視した。
「別にいいのに」
「駄目だよ。水を運んできたのなら受け取らないといけない決まりなんだよ。あんたも人成山の住人ならば、人成山の決まりには従って貰わないといかん」
しわくちゃの顔でにんまりと笑うばあさんの顔を見て、仕方なくその封筒を手に取った。
「ありがたく受け取らせて貰うよ」
「ああ、それがええ。それじゃあの、気をつけて下山するんだよ」
「言われなくてもそうするよ」
「次来るときは水を拾って来てくれると嬉しいねえ」
「期待しないで待っててくれ」
別れを告げその場を離れる。
休憩所まで戻ると、先程山頂に来た際に忘れていた人成山山頂の石碑の元へと赴き、そこに軽く手をふれる。
水を背負って中層から山頂まで二回も登ったせいで、久々に足が震えていた。
今後に備えて体力もつけていかないといけないかも知れない。
ふと受け取った封筒の事を思い出し、中身を確認する。
最初に貰った方には四二〇〇〇蘊入っていた。
蘊の他に明細書と思われる紙切れが一枚。開くと、綺麗に整った筆文字が書かれていた。
――二十二立のうち一滴の水をこぼしたため二一立とする。
なーにが二十二の分しか支払えないだ。綺麗に一リットル分差し引きやがって。
しかしこの明細が確かなら一リットルにつき二〇〇〇蘊だ。日本円で四〇〇円。結構な大盤振る舞いじゃあないか。
となると次の封筒には一〇〇〇〇蘊入っているわけだ。
そう思い封筒を開けると、中から出てきたお札に首をかしげる。
「五〇〇〇〇蘊札じゃねえか――しかも二枚」
計算が合わない。二二リットルで四二〇〇〇蘊なのに、五リットルに対する報酬が一〇万蘊では目茶苦茶じゃあないか。
通常の単価の十倍が支払われていることになる。さてはあのばあさん、咄嗟に追加で五リットル持ってこられたから焦って間違えたんだな。
こんなおかしな報酬を受け入れる事は出来ない。突っ返してやろうと再びばあさんの住む家へ向かった。
「おいばあさん、ちょっと」
水を運んでくる人が途切れたのか、一息ついていたところへ声をかける。
「なんだいまた来たのかい? 水を拾えたようには見えないけどねえ」
「そんなことじゃない。これ、中身間違えただろう」
「間違えちゃあいないよ」
「間違えてるから言ってるんだよ。後から貰った方、一〇万蘊入ってたぞ」
「ほれ、あってるじゃあないか」
何を言ってるんだろうねえなんて呟いて、ため息ついて人の事を睨み付けるばあさんに二つの封筒の中身を突き出した。
「二十二リットルの方には四二〇〇〇。五リットルには一〇万。どういう狂った計算したらこうなるんだ。ぼけにも程があるぞ」
「人をぼけ老人扱いするんじゃないよ。だいたいねえ、計算なんてしちゃいないんだよ。そりゃあ感謝の印に渡してる物なんだから、中身がどうのこうの言われてもねえ。ついでに言っておくと、一度受け取った物の返品は受け付けちゃあいないよ。分かったらとっととお帰り」
「クソメガネから量が多い方が報酬が良いってきいたぞ」
「わたしゃあそんな風に言った覚えはないよ。苦情はそっちにしておくれ」
ああ言えばこう言うババアだ。
しかもこのばあさん、思いの外強情だ。いくら言ったところできいてくれやしないだろう。全く人成山の女どもときたら、どいつもこいつも一度言い出したらききやしない。
「――分かった。苦情はそっちにつけるよ。納得はしてないが、ひとまずは受け入れよう」
「そうしておくれ。それじゃあ気をつけて下山するんだよ」
「わかってるよ。ばあさんも精々体に気をつけてな」
ひとまずは報酬を受け入れて山頂を後にした。
これで金欠からは脱することは出来たが、どうにも納得いかない。
帰り際、山頂の神社の賽銭箱に一〇万蘊放り込んでやろうかとも考えたが、それよりもなんとかしてあの憎たらしいばあさんに突っ返してやりたいという気持ちがあり懐にしまい直した。
「で、そういうわけだから苦情を言いに来た」
「あー、苦情ならサポートセンターの方にいってくれ」
「ふざけんなよお前。そんなもんねえだろ」
中層の役所前でのほほんとしていたクソメガネを問い詰める。
だがこいつ、どうもへらへらと笑っているだけで全く話にならない。
一、二発殴ってやろうか。いや、殴ろう。
「いった! ちょっと! 殴ることないじゃないか!」
「サポートセンターがあるならそっちを殴ったんだが、ないからこっちを殴るほかなかった」
「どうして君はそうやって物理的手段に訴えるんだい、全く! サポセンならそこにあるじゃないか!」
「あるのかよ。それじゃあそっちを殴ろう」
クソメガネが手のひらで示す先に目をやると、小さなテントが用意されていて、そこに据えられた長机の元に二人の女が座っていた。
「殴られるのはちょっと勘弁だなあ」
「暴力は駄目ですよ、お兄ちゃん!」
座っていたのは慧乃とハナである。
とんでもない人選だ。この二人を相手にして、一体誰が苦情を述べられるというのか。
「卑怯だぞクソメガネ」
「あっはっは。いや、君がまだ帰って来てないことを教えたらここで待たせてくれって言うもんだからね」
「それじゃあお前の手伝いしてるわけじゃねえじゃねえか」
「そうなるね」
「もう一発殴ろう」
拳を構えると、クソメガネがたじろいで慌てて口にした。
「まあ落ち着いてくれよ。確かに僕は量が多い方が報酬が良いとは言ったよ。でもね、それが水の量だとは一言も言わなかったじゃあないか」
「そんな屁理屈こねて納得するとでも思ったのか」
「あながちこれが屁理屈でもないんだよね。殴る前に一度、あっちの二人の話をきいてみてくれよ」
「そこまで言うなら殴る前にきいてこよう」
「無理に殴らなくても良いんだよ」
メガネを無視して慧乃達の元へ向かうと、慧乃が顔をしかめて苦言を呈した。
「全く君は、時折そうやって物理的手段に訴える癖があるよね」
「それはメガネから聞いた。それで、あのばあさんの支払った報酬が不服なんだがここに相談したら解決するのか?」
「報酬ですか? あれ、お兄ちゃんもですか。実はわたしも、報酬がおかしかったんですよ」
「ハナもか?」
「それでここに相談に来たってわけさ。ハナちゃん、グランマから貰った封筒を彼に見せてあげてくれよ」
「はい」
ハナは小さな鞄から封筒を取り出してこちらに差し出した。
その封筒を受け取り、そっと中身を覗く。
「五万蘊だと……。確かハナが持って行ってのは五〇〇ミリリットルだよな」
「そうなんです! さっき気がついて、他の人のと間違えたんじゃないかって思ってメガネさんにきいてみたのですが、間違ってないの一点張りで」
「そういうときは殴れば良いんだよ」
「ええ!? そんなこと出来ないですよっ」
「これこれ、ハナちゃんに変なことを吹き込むものじゃないよ。それにね、きっとグランマのやることだから、何か意味があると思うんだよね」
「意味ねえ、そうは思わんが――で、慧乃はいくら貰ったんだ?」
「え、私かい? 私は、ほら。まあいいじゃないか」
慧乃は珍しく慌てた様子で両手を振って誤魔化した。
明らかに不自然であったが、本人もそれに気がついたようで、やってしまったみたいな顔をして視線を逸らしたので、今度ここぞという場面で追求してやろうと心にとどめておくことにした。
「そういえば、馬謖は一滴の水を拾えと怒られたそうじゃないか」
よってきたクソメガネがふふんと鼻を鳴らして尋ねてくる。
「何故それを知って――慧乃か」
口の軽い女だなんて思ったが、口止めしていなかったので当然と言えば当然だ。慧乃は仕事の報告のためにここに来たわけだから。
「しかし馬謖は下手をしたね。たった一滴、されど一滴。――ああ分かっているよ門番ちゃん。この答えは馬謖が見つけることさ。まあ折角だから楽しむと良いよ」
「全然楽しめる要素が見つからん」
「それは悩み方が下手なのさ。僕から言えることは楽しまないともったいないってことくらいだね」
にやりと笑って偉そうに語るクソメガネは何時にも増して腹立たしい。
「今日はやけに食いつくな、お前」
「そりゃあ僕は自由人だからね! 楽しみがあるのに楽しんでいない人を見つけると、あれこれお節介焼きたくなるのさ」
「自由人ねえ。お前にゃぴったりな言葉だ」
「そうだろうそうだろう」
クソメガネは嬉しそうに笑っていた。
こちらは全く笑えない。
悩み方が下手だのもっと楽しめだの好き勝手言いやがって。
一滴の水を拾えという無理難題を突きつけられて、どう楽しめというのか。
問題を解くべき鍵も見つからない。そもそも一滴なんて、小さすぎてよく分からん。
「そうだクソメガネ。水を運ぶ仕事はもうないのか?」
「今日だけで随分運ぶことが出来たからねえ。次やるとしたら梅雨明けかなあ」
「――明日も運んで良いか?」
「明日? お金目当てかい?」
「いや、一滴じゃ小さすぎていまいち分からんから、タンク一杯の水を拾ってみようかと思っただけだ」
その言葉にクソメガネが気持ち悪い笑いをあげ、隣では慧乃も小さく笑っていた。
「君らしいね。そういうことなら協力するよ」
「ああ、頼む」
「お兄ちゃん、頑張ってくださいね!」
「これは面白くなりそうだねえ」
クソメガネと慧乃は何やら楽しそうだ。
ハナは頑張ってと言いつつ、何か考えているようだ。
恐らく、慧乃から一滴の水の話をきいて、どうやったら拾えるのだろうか考えているのだろう。自分の呪いについてはからっきしなのに、他人のこととなると真剣に悩むのだ、こいつは。
地面に落とした一滴の水を拾え。
ふっかけられた意味の分からない問題を抱えながらも、無事下山し今日の分のノルマを達成した。




