中編 一滴の水③
「なんとか山頂まで辿り着いたな」
「結構大変な道のりだったねえ。でもこういうのも新鮮だよ」
人成山山頂の看板を横目で見ながら山頂への一歩を踏み出した。
途中で休憩をはさみながら慧乃のペースに合わせて登ったため、いつもより三十分も遅い到着であった。
それでも慣れない荷物を背負って勾配のある山道を歩いたため、足の方にだいぶ疲れが出ている。
登山には慣れていたつもりであったがまだまだのようだ。こんなことで残り九ヶ月以上残る登山を無事にやりきることが出来るのかと不安にかられるが、やらねばならぬのだからやるほかあるまい。全ては童貞を無事卒業するためだ。
「あとはグランマにお水を渡すだけだね」
「ああ、これでやっとお茶代を返せるわけだ」
「別に返さなくても良いのに、君もいやにそういうところは気にするよねえ」
「お前が言うなお前が」
くだらない話をしながらグランマの住む家へと向かうと、数人が水を持って列を作っていたのでその後ろに並んだ。
屈強な男もいれば、あまり力のなさそうな女性もいる。よく見れば喫茶『尾根』のマスターも五リットルの容器を担いで列に並んでいた。
「結構参加者多いんだな」
「そうみたいだねえ。メガネ君はあれで顔が広いからいろんな人が集まるんだよ」
「あの引きこもりクソメガネがねえ」
口が悪いよ、なんて慧乃が呟いたが聞き流して順番を待つ。
いよいよ前の男が貯水タンクに水を移し終わり報酬を受け取って帰って行ったので、前へと進んだ。
「おや、慧乃かえ。それに馬謖君だったかな?」
「馬謖じゃないけど、もうそれでいいっす」
いつの間にやらクソメガネが流布した変なあだ名が定着していると感じていたが、まさかここまで来ているとは。人成山の噂話の広がりやすさを侮っていた。
「ご苦労様だねえ。梅雨前に貯めておかないと、雨が長引いたときに運ぶのは大変だからねえ」
「そうですね。この天気でもお水を運んでくるのは骨が折れましたから、雨の中運ぶのはそれはもう大変なんでしょうね」
「ああ、全くだよ。怪我人を出すわけにはいかんし、それでも飲料水がないと上層の人間は困るもんで、いざ足りなくなると大変でねえ。そうならんようにいつも多めに貯めとるんだよ。早速だが後がつかえているんでの。慧乃は五立だね」
「はい。こちらに入れてよろしいですか?」
「ああ、頼むよ」
慧乃はポリタンクを背負子から下ろすと、蓋を開けてその中身を貯水タンクへと移していった。
最後の一滴まで貯水タンクへと移し終わると、慧乃は貯水タンクとポリタンクの蓋を閉めた。
「きっちり五立受け取ったよ。これはわずかばかりだけど感謝の印だよ。受け取っておくれ」
「はい。ありがたく受け取らせて頂きます」
差し出された封筒を慧乃は両手で丁寧に受け取る。
「さて、次は――おや二十二立かえ。頑張ったねえ。それじゃあ水を移しておくれ」
「ああ」
返事をして背負子から下ろしたポリタンクの水を貯水タンクへと移していく。
汗を流してこうして山頂まで運んだ水が、音を立てて大きなタンクへと吸い込まれていく。
しかしこれでなんとか収入を得られるわけだ。
どれくらいもらえるのかは定かではないが、ひとまず慧乃に借りた金を返して、次の家賃が払えるくらいもらえたのなら十分であろう。
その後の生活については、またそのとき考えるとしよう。
そんな風に考えていると、いよいよポリタンクの水が残り少なくなっていた。
全部移してしまおうとポリタンクを振ると、最後の一滴が貯水タンクに入らず地面にぽつりと落ちた。
そんなことは気にもしないでポリタンクと貯水タンクの蓋を閉めてばあさんほうを見ると、何故か訝しげな表情でこちらを見つめていた。
「それはなんだい?」
ばあさんがしわの多い手を伸ばし、地面の一点を示す。
そこへ目をやると、地面に小さなシミが出来ていた。
「ああ、最後に振ったからこぼれたのか」
「こぼれたじゃあないよ。落としたからにはその一滴の水を拾わないといけないよ」
「拾えって、一体何を言ってるんだ」
顔をしかめて問いかけたが、ばあさんの答えは変わらなかった。
「その一滴の水を拾えと言っている。わたしゃあまだ水を全部受け取っていない。拾えないというのなら、報酬は渡せないよ」
「は、はあ? たった一滴じゃないか。だったら二十一の分だけでいいから渡してくれ」
「そうはいかないよ。もう二十二と書いてしまったからね。きちんと二十二立受け取らない限り、一蘊も渡せやしないよ」
なんだこの強情なばあさんは。
いつもニコニコ笑っていたというのに、何故ここまで水一滴にこだわるのか。
どうしたもんかと慧乃に視線をやると、慧乃も厳しい顔をしてこちらを見つめていた。
「君は一滴の水を拾わなくてはいけないよ。少し早い気もするけれど、それが君に与えられた宿題なのだから、きちんと拾わなければならないよ」
「お前までそんなことを言うのか」
見放されたようで呆然としてしまうが、慧乃がこう言うからには何か裏があるのだろう。
しゃがみ込み、地面に落ちた一滴の水の跡を見つめる。
日差しのおかげで地面に出来たシミは次第に薄くなっていく。
ここの土を掘り返して水だけを抽出すれば良いのではなかろうかと考えたが、具体的な方法も思い浮かばないし、そんなもの飲料水としてつかえるわけがない。
「ほら、どうした。拾えないのかい」
ばあさんが上から声をかけてくるが、そんなの答えは決まっていた。
「拾えるわけないだろう」
全てを諦めて答えると、ばあさんはしかめていた顔を和らげて、しわくちゃの顔に優しい笑みを浮かべて改めて声をかけた。
「しかし落としたからには拾わなくてはいけないねえ。どれくらいかかるかはわたしにゃあ分からないけれど、どれだけかかってでもきちんと拾わなくてはいけないよ。そうだろう?」
その問いかけに、一瞬どう答えて良いか分からなかったが、それでもそのしわくちゃの笑顔を睨み付け宣言した。
「ああ、絶対に拾ってやる」
「いい顔だ。では一滴の水が拾えたらまたおいで」
立ち上がり、微笑むばあさんに背中を向けてその場を後にする。
そして山頂の休憩所に戻るとベンチへと腰を下ろした。後ろを追いかけてきた慧乃も、隣に腰を下ろす。
「あのババア、ぼけたのかと思った」
「酷いことを言うね。でもね――って、君には言う必要はないかな?」
「分かってるさ。あのばあさんが嫌がらせでもってあんなこと言ったんじゃないって事くらい」
その言葉に慧乃は大きく頷いた。
「それでこそ君だよ」
満足げに微笑む慧乃に、一つ尋ねる。
「水を拾えと言われても、地面に落ちた一滴の水を拾う事なんて出来やしないだろう。それでも拾えってのは一体どういうことなんだ? なあ、慧乃、お前はどう思う?」
「そうだねえ――こう言うと意地悪にきこえるかもしれないけれどねえ、それは君が考えることだと思うよ」
申し訳なさそうに小さく微笑んで答える慧乃の顔を見て、思わず笑ってしまった。
「全く、お前らしい。やっぱり慧乃はそうでないと」
「あら、なんだか含みのある言い方だね。それに女性の顔を、しかも笑顔を見て笑い出すなんてちょっと失礼じゃあないのかい?」
演技めいてちょっと怒った顔をする慧乃を見て、また小さく笑ってしまう。
「その言葉はお前らしくないなあ」
「あー、そういう事言うんだ。私だって普通の女の子なんだけどなあ。ま、でも良い機会だからね。今日は意地悪な私でいようかな」
慧乃はすっと立ち上がると両手を前にして丁寧にお辞儀した。
「今日はありがとう。一緒に登山できて楽しかったよ。急で悪いのだけれど、妹の所に行かないといけないからここでお別れだね」
「了解。行ってやってくれ」
慧乃なりの意地悪なんだろう。
でもその表情は「少しの間自分で考えてごらんよ」なんて言っているようにしか見えなかった。
「参考までにきいておくけれど、これから君はどうするつもりだい?」
「これからねえ……。とりあえず一滴の水を拾うには時間が掛かりそうだから、目先の金のために中層までもう一往復するとしようかな」
答えを聞いて慧乃は口を押さえて笑った。
「何だよ。今のはまずかったか?」
尋ねるが、慧乃は笑顔のままおちゃらけて答えるだけだった。
「さあね。知らないよ」
「それくらい教えてくれたって良いじゃないか」
「今日の六宮さんは意地悪だからねえ。答えあわせの時には声をかけてくれ」
言い残して山頂を離れていく慧乃の背中を見送って、いよいよ一人になってしまった。
地面に落とした一滴の水を拾う。
普通の方法じゃあ拾えやしないだろう。
だとしたら、普通じゃない方法で拾わなくてはならない。
たかが一滴のくせに随分と面倒なことになったものだ。
ひとまずは中層に戻り、一滴の水をあの食えないばあさんに突きつけてやるとしよう。




