中編 一滴の水①
「十月十日の間人成山に登り続けなければ、童貞を卒業できない呪いをかけた」
あの日病院で呪いを掛けられて以来、人成山に登り続ける生活が始まった。
全く謎であった人成山の全容は、これまでの登山と六宮慧乃という女との出会いによって、大まかではあるがつかめてきた。
しかし登山はここからが本番。
六月の頭。梅雨の足音がきこえてくるこの時期。
今年の梅雨はどうか少雨であってくれと祈りながらも、相変わらず頭の上でさんさんと輝く太陽にもうお前は大人しくしていてくれと懇願し、そんなことを考えている間にも本日分のノルマを達成した。
梅雨入りの前に今まで行ったことのない道を巡っておこうと、普段使うメインの登山道から外れて、薄暗い湿った道を歩いたせいで、靴には泥が溜まってしまった。
明日のためにもと古びた貸しアパートの外にある水道で泥を落とすことにした。
ブラシを使って泥を掻き出し水に流していく。
そんなことをしていると腹がグゥーと間抜けな音を響かせた。
思えば今日は朝にパンを一切れ食べたばかりで、他には水しか口にしていなかったのだ。
いつもなら中層か下層で食事をとるのだが、今日はのっぴきならない事情があって食事をとれなかった
。
思い返してみても頭が痛い。
何を隠そう金欠なのだ。
そんな結果に至るからには原因が必ずあるわけだが、今回の金欠に限っては原因が多すぎて絞りきれない。
一に、人成山に訪れて以来一切労働に従事しなかったからであろう。
一に、自炊せず毎日人成山で食事していたからであろう。
一に、写真を撮るため、フィルムと現像にお金を使ったからであろう。
一に、瑞岩知佳子とかいう女に言われるがまま食事を奢ったせいであろう。
……とまあ原因は多岐に渡り、それ以外にも散財と思われる行為が多く、気がついたときには山民登録の際に支給された蘊はもちろん、預金を全て下ろしたはずの日本円でさえもが尽きようとしていた。
靴を洗いながら深くため息をつく。
手のひらに流れる水が冷たくて気持ちが良い。
このままずっとこうしていたらどれほど楽であろうか。
いつしか靴はすっかり綺麗になり、排水溝に吸い込まれていく水も清く透明になったが、しばらく照りつける日差しの中、そうして手を流れる水の感触を楽しみ、金欠という現実から目を背けていた。
「一体君は何をしているんだい?」
そんな風にしていたら、背後から聞き覚えのある声が聞こえた。
落ち着いた口調の少しばかり癖はあるが綺麗なソプラノの声で、その声の主は振り返って確認するまでもなく六宮慧乃であった。
「見ての通り靴の泥を落としている」
「そうは見えなかったけどなぁ」
含みを持たせた意地の悪い笑みを浮かべて慧乃がそんな風に言ってのけるので、思わず視線を下へと落とす。
するとその視線の先に映った慧乃の靴が汚れでいるのを見つけて、これ幸いとばかりに慧乃の追求を避けようとこちらから切り出した。
「ついでだからお前のもやっておこうか」
「うーん、そう言ってくれるのはありがたいのだけれど……」
慧乃は白くほっそりとした指をぴんとのばしてあごに当てて、少しばかり何事か思案していたようだが、すぐに顔を上げて言葉を発した。
「遠慮させて貰うよ。自分でやるさ」
「そうかい、分かったよ」
一度言い出したらきかないことくらい理解しているので無理強いしたりはしない。
女の靴を異様に洗いたがる異常性癖の変態と思われるのも嫌だしな。
「それより君、何か悩み事かい? いつにもまして浮かない顔をしているように見えるのだけれど」
「いつも浮かない顔してるみたいに言わないでくれよ」
「だって、そうじゃないか。違うかい?」
またはにかんでそんな風に言ってのける慧乃に対して嫌味の一つでも言ってやろうかと考えたのだが、いまいち良い言い回しが思い浮かばず、そんなことを考えている自分は相当浮かない顔をしているだろうなと思い至った所で自分がいかに愚かなことをしていたのか思い知り、もう顔をしかめてふてくされるほか無かった。
「浮かない顔で悪かったな」
「悪いとは言っていないよ。それに今の君の顔はとても良いよ。君らしさがよく表に出ていて、写真に撮って額に入れて飾りたいくらいだよ」
「馬鹿にされているようにしかきこえん」
「そんな事はないのだけれど……と、話がそれたね。悩んでいるのだろう? 是非君の悩みをきかせておくれよ」
相変わらず微笑んで尋ねてくる慧乃に対して何と言ったらいいものか。
素直に金欠だというのもなんとも情けない。
しかし隠したところでどうせいつかばれることだ。
それに慧乃は実家がどうもお金持ちらしく金銭に困っていることはなさそうだし、頼み込めば貸してくれるかも知れない。
だがお金のやりとりに妙にうるさいのが慧乃なのだ。
決して無料では物を受け取ろうとしなかったり、支払いは均等でないと納得しなかったりする。
あれこれ考えていたが、無意識のうちに再び腹が間抜けな音を響かせ、思わず考えるのをやめた。
「えーっと、お腹がすいているのかい?」
自分でも情けない顔をしているだろうなと分かっていたのだが、こちらをのぞき込んだ慧乃の鳶色の瞳に映る男は予想していた以上に情けない表情を浮かべていて、思わず笑ってしまいそうになるくらいであった。
「少し時間をくれたら夕食を用意するよ。たまには一緒に食事するのも悪くはないだろう」
願ってもない提案であった。
しかしこの話に食いついて良いのだろうか――
などと考える余裕があるわけでもなく、気がついたときには首を縦に振っていた。
「決まりだね。今からご飯を炊くから少し時間がかかるよ。出来たら声をかけるから部屋にいておくれ」
「ああ、分かった」
頷くと慧乃は笑顔を返して貸しアパートの二階へと続く金属製の階段を上がっていった。
思わずその背中へ声をかける。
「何か手伝うことあるか?」
「大丈夫だよ。今日の君はお客様なのだから、私に任せて欲しいよ」
「そうか、悪いな。じゃあ今日は甘えさせて貰うよ」
「是非そうしておくれ」
慧乃はこちらの了承を確認すると自室へと入っていった。
いつも世話になってばかりで全く頭が上がらない。
しかし無事に食事にありつけそうで腹の虫も大人しくなってくれたようだ。
出しっ放しだった水道の蛇口を閉め、ブラシを振って泥と水を払うと、荷物を持って自室へ戻った。
人成山放送局のラジオ番組をききながら、クソメガネが書いたらしき奇怪な推理小説を斜め読みしていると、部屋の扉が叩かれた。
ラジオを止めて扉を開けるとどこか機嫌の良さそうな慧乃の顔があった。
「お待たせしたね」
「大して待ってないさ」
「そこは心待ちにしてた! って言うのが乙女心をつかむコツだよ」
「実は心待ちにしてた」
慧乃がおちゃらけた台詞を吐くので、こちらもふざけて軽口を返した。
「そう言ってもらえると嬉しいよ。お口に合えば良いのだけれど――ああ、お茶碗とお椀とお箸を持ってきてもらってもいいかい?」
頷いて部屋に戻り、言われた物を持ってから慧乃の部屋を訪ねる。
幾度か訪れているが、物の少ない室内はいつも通り綺麗に整えられていた。
自室とは違う、女の子特有の甘い香りのする室内に、薙刀や女冒険者まがいのコスプレ衣装があるのは少しばかり違和感を覚えるが、これこそ慧乃らしい。
示されるがまま七畳一間の中央に置かれたちゃぶ台の奥へと座り込む。
ちゃぶ台に並ぶ料理は魚の干物に小松菜のお浸し、冷や奴にキュウリとカブの漬け物と質素ではあるが金欠の自分にはごちそうであった。
「ご飯はたくさんあるから遠慮せず食べてくれよ。気合い入れて炊いたからね!」
「お、おう」
山盛りにご飯が盛られた茶碗を受け取る。
そんな盛ることないだろうよと言いたくなる量であったが。いつにもまして上機嫌でニコニコと笑っている慧乃に対して言い出しづらく、諦めて受け取るほかなかった。その際に慧乃が口にした「おかわりもあるからね」というのはきっと何処かの国でのみ通じる特殊な言語なのだろう。だから全く意味が分からなかった。
嬉しそうに自分のご飯をよそう慧乃の様子を見て、思わず一つ尋ねた。
「何か良いことでもあったのか?」
慧乃はその質問に口元を緩めて答えた。
「誰かと一緒に食事できるのは嬉しいことだよ」
「そんな物かねえ」
思い返してみれば、小さい頃は家族そろって食事をとっていたが、中学・高校と歳を重ねるごとに距離を置くようになり、大学へ進学して一人暮らしを始めてからは誰かと食事する機会というのは減っていったっけ。
おそらく慧乃はそんなことなかったんだろう。
家族からとても大切にされていたようだし、育ちも良さそうなこいつのことだから、家族で食事をとるというのはごくごく自然な、当たり前のことなのだろう。
「そういうものさ。食事はただ栄養補給のためにしているのではなくてね、人間が人間らしく生きるための大切な時間なんだよ。そもそも食事作法というものは――悪かったよ。だからそんな顔はやめておくれ」
話が長くなりそうな気配を察してしかめた表情に慧乃は気がつき話を区切った。
よそった味噌汁を盆に乗せて運んでくると向かいに腰を下ろす。
「それではいただきましょうか」
「ああ、今日はごちそうになるよ」
両手を合わせ軽く目をつむった。
「いただきます」
こうして無事に食事にありつけたことに感謝して、箸を手に取る。
しかしその手が思わず止まる。
見ると向かいの慧乃は未だ目を瞑り手を合わせていた。
口元は小さく動き、なにやら声を出しているようであるがどうにもききとれない。
そんな様子を不思議に思ってると、慧乃がゆっくりと頭を下げた。
「いただきます。――あれ、君どうしたんだい? もしかしてアジの干物苦手だった?」
困ったような表情で慧乃が尋ねる。
「いや、そういうことじゃなくて、ただなんというか、長いなーって思った」
「ああ、それは悪いことをしたね。どうにも小さい頃からの癖で」
慧乃は笑って答えると、その表情のままこちらを見つめる。
客より先に料理に手をつけるのは嫌なのだろう。このままでは悪いので魚へと箸を伸ばす。
一切れ口にして美味しいよと短く感想を述べると、慧乃はすっかりご満悦な様子であった。そして自身も食事に手をつけ始める。
「そういえばこの干物、海の魚だよな」
「どこで手に入れたのかって話かな?」
「ああ、わざわざ町まで下りていったのか?」
「ううん。外層に魚屋さんがあるんだよ。定期的に魚市場へ行っては人成山に魚を持ってきてくれるんだ。別料金がかかるけれども中層や上層への配達もしてくれているんだよ」
「へえ、そんな商売もあるのか」
「意外と人の多い人成山だからね。いろいろな仕事があるんだよ」
「仕事ねえ……」
金欠を根本から解決するのであれば働くのが一番手っ取り早いだろう。
だが呪い解除の都合で毎日山頂まで行って帰ってこなければならない訳で、あまり長時間拘束されるような仕事には就けないのだ。
「何か悩み事かい?」
慧乃が嬉しそうにそんなことをきいてくるので、隠しているのも馬鹿らしく思えて素直に返答した。
「悩み事だ」
「是非その悩みをきかせて欲しいよ」
予想通り慧乃が尋ねてきた。
とにかく他人が悩んでいるとちょっかいだしたくてたまらない人間なのだ、こいつは。
「単純に金欠だよ。このままいくと来月の家賃が支払えなくなる」
「それでお腹をすかせていたのかい? 確かに長い間人成山で暮らすとなるとそういう問題も出てくるよね」
ぶっきらぼうに返すと、慧乃は優しい口調でそんな風に呟いた。
「お前は働いてるのか?」
「私? 私は学校の先生をしたり登山道の整備をしたり、手作りの雑貨を売ったりしているよ」
「知らん所でいろいろやってるんだな……」
長い付き合いのはずだが知りもしなかった。
時折登山道のベンチやら看板やらを直したりしていたがあれは仕事だったのか。
「そうだ! 丁度君にうってつけの仕事があるよ! 荷運びの仕事なのだけれど、君なら登山になれているし体力もあるし、どうだい?」
「願ってもない話だ」
慧乃の話しに思わず詳細もきかずに飛びついた。
少しでも収入があるのならこの金欠生活からも脱出できる。
しかも登山しながら出来る内容なら呪い解除のついでに働ける。
「明日限定なのだけどね。頂上まで荷物を運んで欲しいって依頼があったんだよ」
「頂上までか。ますますふさわしい仕事だな。で、一体何を運ぶんだ?」
尋ねたが慧乃は首を横に振った。
「そこまではきいていなかったなあ。大抵、重かったりかさばったりするものだから、引き受けるのなら荷物を少なめにしておくことを勧めるね」
「なんだか分からない荷物か……」
そうきくと一気に不安がこみ上げてくる。
恐ろしいのはここが人成山だと言うことだ。一体何を運ばされるのか――通常では予想も出来ない物かも知れない。
「そんな不安そうな顔をしなくても大丈夫だよ。元々私に手が空いていたら手伝って欲しいと来た話だからね。君なら問題ないはずだよ」
表情を察した慧乃がそう説明する。
確かに慧乃に頼むくらいの物なら、問題なく運べそうだ。
「それなら安心だな。是非その仕事をやらせてくれ」
「分かったよ。では明日、登山に出かける時に声をかけてもらえるかな。荷運びは中層からだから一緒に行こう。時間は特に決まってないけれど、夕方までに山頂に着いた方がいいだろうね」
「念のため早めに出ておくか」
「きっとそれがいいよ。こういう時に限って、何かあるものだからね」
含みを持たせた笑みを浮かべる慧乃。
「不安を煽るようなこと言わないでくれよ」
慧乃は相変わらずの調子だが、全く笑えない話だ。
人成山とはそれ程に、本当に何があってもおかしくない山なのだ。どのような手段でもって金欠脱出を妨害してくるのか全く予想できない。
そんなこんなで、慧乃と二人最近の山の出来事を話しながら食事をとって、食べ終わると手を合わせた。
お盆に食器をのせていく慧乃に思わず声をかける。
「自分の食器くらい自分で洗うよ」
当然だろうとばかりに提案したのだが、慧乃は表情を少し曇らせた。
「うーん、そう言ってくれるのは嬉しいのだけれどね……」
白くほっそりとした指の先をあごに当てて俯く。考えるようなことだろうか――
「今日は私に任せてくれよ。君はお客様なのだから。ゆっくりくつろいでいておくれよ」
「いやしかし――」
ここまで至れり尽くせりで何もしないのが申し訳ないと口を開いたが、慧乃が一度言い出したらきかないことを思い出して口をつぐんだ。
「分かったよ、そうさせてもらうよ。――で、お茶貰って良いか?」
「もちろん。少し待ってね」
ひとまずここは甘えさせて貰おう。
そして金欠から無事脱出できた暁にはこの分をきっちり返させて貰おう。
そんな決意を固めて、慧乃のおしゃべりに付き合いつつ夜遅くまでくつろがせてもらった。




