短編 何処に悪いものがあるの?①
五月もいよいよ終わりが近づき、人成山はその山肌を青々とした若葉に覆われて、高い日に照らされては緑色に輝いていた。今日は天気も良く、吸い込まれそうなくらい青い空が高く高く広がっていて、その深い青には一粒の雲も浮かんでいなかった。
絶好の登山日和と言えるだろう。
山道は周りを囲む若葉に照りつけた陽光の反射でもって心なしか緑色に染まって見えて、足を進めるたびに小さな汗の玉が浮かんでは来るものの、実に心地の良い気分であった。
「いい顔だねえ。私が写真を撮ってあげようか」
「遠慮しとく」
「そう突っぱねることもないじゃないか。きっと良い思い出に成るよ」
「変な記録は残したくない」
「変な記録とはまた酷い言い様だとは思わないかい?」
隣を歩く慧乃はいつもの調子であった。自分も、人成山に登り始めてから半月以上経って、随分と山に慣れ親しんでしまったようだ。ものの一月前までは登山なんてまるで興味なかったはずなのに、山の魔力というのは恐ろしい。
――いやだまされてはいけない。これもきっと人成山の見せる呪いの一表面に過ぎないのだ。決して山登りを楽しみに来たのではない。呪いを解き、童貞を卒業するために山を登るのだ。
「今度は何か考え事かい? 君は表情が素直で見ていて楽しいよ。でも折角一緒に登山をしているのだから、もっと話しかけてくれても良いじゃないか。実を言うと私はね、結構おしゃべりが好きなんだよ」
「実を言わなくても分かってるよ。お前と登山しているとあれこれ話しかけられて、足より先に口が疲れちまうんだよ。だいたい、今までさんざん話したせいで、もう話すこと何て残ってねえよ」
「そうかな? まだまだ私は話し足りないのだけれど――あ、そうだ。大切なことを忘れていたよ」
ぽんと手を打って、いかにも今思い出したとばかりの演技をする。きっときいて欲しいのだろうと空気を察して「ナンダダイジナコトッテ」と適当に尋ねてやった。
「実はお使いを頼まれていてね。ちょっと中層に寄り道してもいいかい?」
「お使いねえ。ま、時間はある。構わないさ」
少し休むのも悪くはない。無理をしないのが登山の鉄則だ。急ぎたい気持ちをぐっと抑えることが何よりも肝心なのだ。
それに、少しばかり慧乃のお使いとやらにも興味があった。こいつが普段どんな行動をとっているのか、未だに分からないことの方が多いのだ。
分岐を左に進み、中層地区へと入る。
慧乃はこっちこっちと手を振りながら、中央の通りを小走りで駆けていき、小さな八百屋の隣にあった細い路地へと入っていった。
「ついて行って大丈夫なのかこれ」
いかにも怪しい通りである。
ましてやここは人成山。何処に異世界へと通じるワームホールがあいていたっておかしくないのだ。
「こっちだよー」
遠くから慧乃が大きな声で呼びかけるので、仕方なくその路地へと入り、薄暗いじめじめとしたその道を進んでいった。
建物の壁に囲まれた、見通しの悪い路地を抜けると、小さな鳥居が経っていて、その傍らには木造の家が建っていた。
「こんな場所があったのか」
「ここは神社なの。といっても本殿はまだまだずっと先だけれどね」
「神社だらけだな、人成山」
「だいぶ前のことらしいけれど、どこかの建築会社の人間が丸ごと人成山に飛んできて、何でも宗教的な建造物をたくさん建てないといけない呪いだったらしく、あれこれ建てて回ったそうだよ」
「へえ、流石人成山。何でもありだな――そういえば下層の方にはモスクが建ってたな」
「ああ、あの入り口の所にモーゼの石像が建ってるあれか。そう、あれも確かその人たちが建てたはずだよ」
「明らかにアウトだよなあれ」
「宗教に関しては素人だったようだからね。流石にお寺にキリスト像を置くようなことはしなかったようだけれど、どこかちょっと違うのは探そうと思えばいくらでも見つけられるね。ああ、でも山道の途中と山頂にあるお寺と神社は由緒ある物らしいよ」
「そうか。それは良かった。今まで賽銭をどぶに捨てていたんじゃないかと焦ったよ」
「どぶとはまた失礼な――っと、そんなことは後回し。とりあえず依頼人に会おうか。きっと君のことも気に入ってくれるよ」
「出来ることなら気に入られたくない」
「またまたそんなこと言って」
慧乃は躊躇なく家の木戸を二回叩いて、大きな声で依頼人とやらを呼んだ。
「メガネくーん」
メガネ君とはまた酷い呼び方だな。いや待て、君ってことは、男か――
「門番ちゃん待ってたよ! ――と、こちらの彼は――」
木戸を開けて出てきたのは、同い年くらいだろうか、ひょろい体躯をした男で、呼び名の通りメガネを掛けていた。作務衣を着ている所を見ると神社の使用人か何かだろうか。
「こちらは以前話した、山に十月十日登り続ける――」
「おお! 君がか! えーっと、馬謖!」
「馬謖じゃねえ」
男に握られた手を払いのけ、妙なあだ名を否定する。全くもって油断ならない奴だった。そうだ、人成山にはまっとうな人間などいやしないのだ。もっと警戒すべきだったのだ。情けない。
「でも山に登るんだろう? だから馬謖」
「そんな気味の悪い呼び名で呼ばれてたまるか」
「じゃあ野口け――」
「やめろ!」
「じゃあ馬謖だね。もう決めたよ」
「おい、勝手に決めるなよ」
「さて、門番ちゃん。例の物は?」
人の話を勝手に打ち切って、今度は慧乃と話し始めた。そんな泣かれながら斬られるような奴の名前で呼ばれたくないのだが、この男、いまいち何を考えているのか読めない。というか何も考えていないだろうこいつ。
「一応持ってきたけれど、これで良いかな?」
慧乃は鞄から取り出した布製の手提げ袋を手渡した。
「ふむ、これは……」
男――いや、メガネが取り出したDVDをしげしげと見つめる。
どうもアニメのDVDらしい。
つまりこれは、山の外に出ることの出来ない呪いにかかったメガネが、慧乃に対してアニメのDVDを借りてくるように頼んだわけだ。
「これは、OVAじゃないか……」
「えっ? おーぶい……。アニメとは違うのかい?」
「違わないけれど、こう、僕が所望したのはこういうのではなくてだね――」
「物を頼むなら何を持ってくれば良いのかちゃんと伝えろよ」
「それは違うよ馬謖君」
ただでさえ細い目をさらに細めて、ちっちっち、とうざったらしく指を振ってメガネは言った。
「僕が求めているのは新しいアニメとの出会いなんだよ! 分かるかい! 門番ちゃんの感性で選んだアニメが見たかったんだよ!」
「じゃあそのOVA見ろよ。あと馬謖じゃねえ」
「だってこのOVA一本一時間で二本組ってことは二時間あれば見終わってしまうじゃないか! 僕は一クールのアニメをまとめて一気に六時間かけて見てしまうような、贅沢な楽しみがしたかったんだよ!」
「めんどっくせえやつだな……」
どうもこのメガネからは危険な香りがする。あまり深く関わらない方がいい人物なのかも知れない。
「ま、でもこのOVAは楽しませてもらうとしよう。折角門番ちゃんが借りてきてくれたからね」
「そうしてくれるとありがたいよ」
慧乃は柔らかく微笑んでそう言ったが、果たして本当にそれで良いのだろうか。今ならこのメガネの眼鏡をへし折っても許されるような気がする。
「それで物は相談なんだが、馬謖君」
「馬謖じゃねえ」
「いや僕がメガネであるように、君は間違いなく馬謖だよ。それで君に是非頼みがあるから――これから山に登るのだろう、ああ言わなくても分かるよ。是非帰りにまたここに寄ってくれないかね。何を頼みたいかは言わなくても分かるだろう」
「要するに、明日登ってくるときにアニメのDVD借りて持って来いって事だろう」
「流石! 話が早いね! 流石は僕の見込んだ男! 親友、いや、ソウルブラザーと呼ばせてくれ!」
「それならまだ馬謖の方が良い」
「なら馬謖で決定だね。ま、君たちが登山している間にこれ見ちゃうからさ。帰りに取りに来てくれよ。あ、門番ちゃん、これ謝礼ね」
メガネが封筒を慧乃に手渡して礼を述べると、慧乃も礼を述べてそれを受け取った。手間賃ってことだろうか。
「じゃ、僕はこれからやることがあるから」
「アニメ見るだけだろ」
閉じようとした木戸に足をはさんで、メガネが部屋の中へ入るのを阻止した。
「どうしたんだい、馬謖――はっ! まさか、僕に恋を!? こ、困るなあ……僕には心に決めた人がいるからなぁ……」
「何こいつ、殴って良いの?」
「駄目だよ。用があるから呼び止めたのだろう。殴る前にその用件を済ませたらどうだい?」
「それもそうだ」
慧乃に諭されて、振りかざした拳を下ろした。
「一つ、尋ねるが、お前の呪いは何だ?」
「ああ、そういうことね。その答えは実に簡単だ」
ふふんと鼻で笑って口の端を持ち上げてにやりと笑うメガネの顔は、今まで以上にうざったらしくて衝動的に殴ってしまいそうになったが、なんとか心を静めきり拳を堅く握ってこらえきることが出来た。隣に慧乃が居なかったらきっと殴っていただろう。
「もったいぶってないでさっさと言えよ。急いでるんだけど」
「え、えー。そっちからきいておいてその態度は酷くない? ねえ酷いよね、門番ちゃん」
「メガネ君の呪いはね、楽しまないと――」
「まって門番ちゃん! 自分で言う、自分で言うから」
メガネは慌てて慧乃を制すと、急いで先程の表情を整えて、呼吸を落ち着かせてから静かに声を発した。
「僕の呪いは、心から楽しまないと人成山から出られない呪いさ」
「心から、ねえ」
心から楽しむ――それでアニメか? なんか違う気がするが、それは人成山を楽しんでいると言えるのだろうか。だっておそらくその呪いは、人成山を楽しめって事なんじゃないのか? アニメなんか見ている場合ではないのでは――
「やっぱり、君もそう思うだろう?」
気がつくと慧乃の爛々と輝く鳶色の瞳が目の前にあった。毎度のことだが一歩後ずさり距離をとる。
「はっはっは。流石は馬謖、僕の煮込んだ男」
「勝手に煮込むのやめてくれるか」
「ちょっと噛んだだけじゃないか。もちろん見込んだ男だよ。そこに気づいたのは門番ちゃん以来だよ」
「それで、自分で分かってるならなんでアニメなんて見るんだ?」
「ふふふ、知りたいか――それならば特別に教えてやってもいいだろう」
「メガネ君はね、人成山を楽しんで楽しんでしまったせいで、楽しすぎて山から出たくなくなったそうだよ」
「あ、門番ちゃん勝手に言っちゃ駄目」
「なんだ、そんなことか。ま、確かに、心から楽しめる場所があるとしたら、そんな場所を手放すのは難しい話だな。で、出たくないがために暇つぶしにアニメを見ているわけだ」
「暇つぶしとは違うなあ。こうして君たちの選んだアニメを見ることで、君たちと心を通わせようとしているんじゃないか」
「物は言い様だな」
「そう、まさにそれだよ」
「じゃ、帰りにまた寄るから」
「そうだね。それじゃあメガネ君、またね」
「え、えー、ちょっと僕今結構良いこと言ったつもりなんだけど、二人して素っ気なくない――って本当に帰っちゃうの!? 一緒にアニメ見ていっても良いんだよ! お茶も入れるし、お煎餅もでるよ! ちょっと、きいてる!? きいて――きいてよ!」
薄暗い路地を引き返し、中央の通りへと戻ると、精神的に疲れたのでひとまず喫茶店で落ち着くこととして、それからのんびりと山頂を目指した。
「ああ、待っていたよ馬謖。あ、門番ちゃん。このOVAなかなか良かったよ。是非視聴を勧めるね」
「それはありがたいのだけれど、生憎DVDが私の所だと再生できなくてね」
「あら、そうなのかい。それは残念。それじゃあ返却、よろしくお願いするよ。それと、馬謖は明日、アニメ借りてきてくれよ」
「ああ、長く見られる奴な」
「うんうん。頼んだよ。内容は君のセンスに任せるからね」
レンタル代と書かれた茶封筒を受け取り、なんだか話しかけて欲しそうなメガネをほったらかしにして二人元来た薄暗い路地を引き返し中層の大通りへと戻った。
「メガネ君。きっと三人で一緒にアニメ見たかったんじゃないかな」
「そうは言っても今から二時間アニメ見てたら下山する前に日が暮れちまう」
「ああ、それもそうだね」
「分かってて着いてきたんじゃないのか」
「彼はまあ、ああいうのを楽しんでいるところがあるからね。何にしろ、今日の私は君と登山をしに人成山に来たわけだから、そっちを優先するよー―と思ったけど、ちょっといいかい。あの男の人、初めて見る顔だよ」
「ああ、そういえば最近きいてなかったな。是非気にせず行ってきてくれ」
頭を下げて礼を言った慧乃は、走ってその男の目の前へと飛び出すと、90年代の特撮ヒーローめいた決めポーズをとって、腹の底から中層全体に響き渡る大きな声を出して、例の台詞を言い放った。
「ここを通りたければ、この私を倒してからにすることね!」
「おいメガネ。いるかー、はいるぞー」
廊下を進み、ふすまを開けると七畳ほどの小さな部屋があって、案の定メガネはそこにいた。あの駄目人間っぽい空気からは想像できないくらい部屋はきちんと片付いていて、その中央でメガネは布団にくるまって横になっていたので、つま先でみぞおちを小突いて起こす。
「びっくりした! びっくりしたよ! 何で勝手に上がってくるんだよ!」
「声は掛けたぞ。今日は午後から天気が崩れるんだ。急いでんだよ」
「だからって僕の聖域に勝手に足を踏み入れるとは! あと人をまるでゴミのように蹴って扱うし!」
「うるせえな。ほら、持ってくる物持ってきてやったんだ。感謝しろよ」
レンタルしてきたDVDBOXの入った手提げ袋を、メガネの膝の上に軽く投げつける。
「おっと危ない危ない。全く、投げることないじゃないか」
「ならさっさと布団から出ろよ。今何時だと思ってんだ」
「何時だい?」
「七時かな」
「ちょ、何ておそろしい時間に起こしてくれるんだ全く。七時とか普通に寝てる時間だよ――ちょっと馬謖。これは一体……」
手提げ袋からDVDBOXを取り出したメガネが、そのパッケージを見て息をのんだ。
「長く見れる物って言ったから」
「だからって……セーラームーンって」
「無印はDVDBOX二巻で一一〇〇分程楽しめるそうだ。良かったな」
「せ、一一〇〇分!? 無印はってことはこれまだ続編あるって事だよね!?」
「当然だ。安心しろスターズまでちゃんと借りてきてやるよ。それじゃあな」
「いやいやいや、そういう問題なのかな。あ、馬謖、その棚の上の封筒、持って行っていいからね。明日の分のレンタル代も入れといたから、よろしく」
「ああ、分かったよ。じゃあな」
「登山がんばってねー。さて、僕はアニメを観るとするかな。一一〇〇分ってことは……十六時間以上かかるなこれ……」
一日楽しめて良いじゃないかと心の中で呟いて、封筒を手にするとメガネの家を後にした。
「手間賃五〇〇〇蘊か。随分羽振りが良いな」
金欠で悩んでいたのでありがたい収入であった。この金がどこから来たのかは謎だが、メガネもメガネで何かしら仕事をしているのだろう。
「いい加減安定した収入源を見つけないとなぁ……」
家賃の支払いもあるし、いい加減日本円の換金だけで生きていくのは辛くなってきた。役所に行けば仕事を紹介してもらえるのだろうか? いや、今はともかく山に登ることだけを考えよう。お金のことは、切羽詰まってから考えればいいや。




