二月目 其の三 自我と自己
翌朝、朝早くから隣の部屋には来客があったらしく賑やかであった。
訪ねようとも思ったが、仲むつまじい姉妹の邪魔立てすることもないだろうと、一人登山の準備を進めた。
大方ハナが洋服のお礼に何か持ってきたのだろう。慧乃にとってはハナが遊びに来てくれることが最高の贈り物になるのだから他に何か渡そうなんて思わなくても良いのだろうが、それではハナの気が済まないのだろう。
しばらくして、登山の準備が出来たので部屋から出ると、丁度そのタイミングで慧乃とハナも外に出てきた。
「あ、お兄ちゃん、おはようございます!」
「おはよう。これから登山かい?」
「ああ、そのつもりだが、そっちも登山か」
二人とも普段着のようだが、どちらも動きやすそうな服装であったし、靴は運動靴であった。
「うん。中層までね。たまにはハナちゃんと外食でも良いかなと思って」
「えへへ。中層に新しいお店が出来たんですよ」
そういうことかと納得して、自分もたまには外食もいいか何て思ったりしたが、そういえば昨日の知佳子の件で財布の中身が恐ろしいことになっていることを思い出した。
「さて、それじゃあ登山といくかい。もちろんついて行っても良いよね?」
「ああ、ご自由にどうぞ」
どうせ向かう場所は一緒なのだ。途中までのんびり歩くのも良いだろう。
そんなわけで、今日は三人、相変わらず天気の良い日和の中、人成山登山道へと向かった。
登山道入り口の鳥居に辿り着いたところで、前方から一人の少女がやってくるのが確認できた。
見覚えのあるその少女は、紛れもなく知佳子だった。
「おはよう」
「ああ、おはよう」
知佳子がこちらに声をかけたので、三人それぞれ挨拶を返した。
しかしどうだろう。この知佳子、知佳か知子か判別がつかない。
いつもならその口調や姿勢なんかからすぐさまどちらか判別できていたのだが、今回のこの知佳子に限ってはどうもそれが分からないのだ。
「えーっと、知佳、知子、どっちだ?」
尋ねると、知佳子は少しばかりむすっとした顔をしたが、すぐに表情を戻して質問に答えた。
「何を言い出すかと思えば……。私は知佳子よ。瑞岩知佳子」
そりゃあまあそうなんだろうが、と言いかけたが、知佳子がそれより先に口を開いた。
「見ての通り呪いが解けて元に戻れたから山を出るね。今まで世話になったわ。ありがとう」
「ありがとう……ってことは知子か」
「知佳子だって言ってるでしょ! あんたは相変わらずね……。ま、あんたのそういう所は嫌いじゃなかったわ」
「そりゃどうも」
ふざけてみたが、どうやら本当にこいつは知佳子――ようするに知佳と知子にかかっていた呪いは無事に解けたようだ。
「ハナ、元気でね。きっとまた遊びに来るから、悩み事があったら何でも相談してね」
「はい! ありがとうございます! 知佳子さんとはいろいろ話したいことがあったので、遊びに来てくれると嬉しいです!」
ハナはお辞儀をして、差し出された知佳子の手をぎゅっと握った。
続いて知佳子は慧乃の方へと向き直った。
「慧乃はどうせ、私の考えていること何てお見通しなんでしょ。言うことはないわ」
「そんなことないよ」
「どうだか」
ぷいっと視線を逸らしたかと思ったが、すぐに視線を戻し、慧乃の顔を見つめたかと思うと、知佳子はそのまま慧乃にぎゅっと抱きついた。
「……いろいろありがとう。あなたが友達で居てくれて本当に嬉しかった」
細めた目にほんのりと涙を浮かべてそう告げる。
慧乃はそんな知佳子の体を同じように抱きしめて答えた。
「こちらこそありがとう。あなたに出会えて本当に良かった」
しばらくの間、二人はそうやって抱き合っていたが、やがて知佳の方から身を引いて、軽く涙をぬぐうと、持っていた紙袋をずんとつきだした。
「これ、置き土産。三人分入ってるから適当に分けて」
「素直じゃないなあ……。直接渡したら良いのに」
「いいのよこれで、それじゃあ頼んだからね」
そう言い残して人成山を去ろうとする知佳子。その背中に、無意識に声をかけていた。
「こっちには何もなしか」
声に、知佳子はうんざりした顔をしながらも振り返る。
「なんか言って欲しかった?」
「ああ、言って欲しかった」
問いに答える。
知佳子はあきれたような表情をしながらも、登山道を引き返し目の前までやってきた。
「お節介野郎」
「いきなり暴言かよ」
知佳子の姿が知佳と重なって見えた。見た目は同じなので当然ではあるが、気のせいか姿勢や態度まで知佳のそれに見えてくる。
「なんで私に世話を焼いたの? 出会ったばかりだったのに」
さて、何て答えようか。そもそも自分は何で知佳子の呪いに執心していたのだろうか。
思い返してみれば、それが人成山に登ることの意味なのではと考えていたのだが、そもそもいつから他人の呪い解除にあれこれ世話を焼くようになったのだろうか……。
思考を巡らせてみると何てことはない、一つの答えが思い浮かんだ。
「――慧乃のせいだろうな」
「何それ、どういうこと?」
人成山は人が人に成る山。
その山に登り続けよというのが自分の呪いだ。
人成山に登るということは、人に成らねばならない。その近道が、他人の呪いを解除する――すなわち他の誰かを人にする事なのではと思った。
それは善意でも何でもなく、当たり前のように他人の力になろうとする慧乃の姿を見たから気づいたことだ。それに――
「お前は慧乃の友達だったからな」
慧乃と知り合いつつも呪いを解除できていない。ならばその答えを見つけられたならば慧乃の考えていることが分かるようになるかも知れない――なんて考えていた。
結局は、慧乃は答えを知らないのではなくて、気づいていたものの知佳子には直接話していなかっただけで、その慧乃に与えられた『自分についてもう一度考える』という宿題に振り回された訳だが……。
「あんたは――そうやって――」
尋ねられたことに答えただけだというのに、何故か目の前の知佳子は怒り心頭で、半歩足を前に出し、手は今にもつかみかからんと言う姿勢をとっていた。
いつ投げられてもおかしくない。そんな状況にあることが直感的に理解できてしまった。
しかし緊張状態も束の間で、知佳子は腕を下ろし、全身から力を抜いて、それでも荒々しくふんっと視線を逸らしたかと思ったが、こちらに歩み寄ってきて目の前で立ち止まった。
「一つだけ忠告」
「はい、何でしょう」
両手を挙げ、降伏状態で知佳子の言葉に全神経を集中させる。
「お節介なのは良いけど、たまには自分の事もちゃんと考えなさいよ」
その忠告に、思わず笑みがこぼれた。
「自分の事ねえ。お前に言われると考えさせられる」
自分について、ずっと考えてきたつもりだったが、知佳子にはそうは見えてなかったらしい。どうやら自分はとんだ勘違いをしていたみたいだ。流石に、呪いを解いて人に成った人間の言うことは重みが違う。
「それじゃあね。またきっと遊びに来るわ」
知佳子は軽く手を振って別れを告げると、振り返ることなく、今度こそ人成山を後にした。
「お前のことが好きだったからだよ! と答えていたのなら知佳子ちゃんはきっと喜んだと思うなあ」
「喜ばせてどうするんだよ……」
慧乃は冗談で言っているのか、おちゃらけてそんなことを口にしていたが、本当にそんなことを言ったとして、知佳子は喜んだのだろうか。
所詮、知佳子にとってはお節介野郎でしかなかったわけだし。
何はともあれ、登山道入り口で立ち止まっているわけにもいかないので、三人で登山道を中層へ向けて歩き始めた。
二人のペースに合わせゆっくりと歩きながら、隣を歩く慧乃に尋ねた。
「それにしても、お前はこうなることが分かっていたのか?」
「知佳子ちゃんが呪いを解くことかい? それはまあ、そう長くはかからないとは思っていたけれどね。まさかこんなに早く解いてしまうとはね」
「一応きいておくが、なんでそう思ったんだ?」
「君は、君が知佳子ちゃんと初めて出会ったとき、知佳子ちゃんが何をしていたか覚えているかい?」
初めて出会ったとき……。記憶をたどってみると、確か、最初に出会ったのは知佳であった。
知佳の近くを通り抜けようとしたら向こうから話しかけてきたのであった。
「私を見なかった?」と。
「思い出したかい? 知佳子ちゃん――ここでは知佳ちゃんとしようか。知佳ちゃんは私を探していたんだよ。知子ちゃんではなくて知佳ちゃんが自分を探していた。これは凄いことだと思わないかい?」
そう言われてみると、確かに凄い事だったのだ。
知佳は自由奔放で、自分のやりたいことを率先して行おうとする自分。
そんな知佳が、自分をいつも見ていて、自分が道から外れそうなときにそれを正そうとする自分である知子の事を探していた。
「さて、君は知佳子ちゃんと出会ってからの二日でいろいろ見つけたみたいだね。是非それを話してくれないかい?」
慧乃にそう促され、この二日で気づいたこと、考えたことをあれこれ話し始めた。
途中からハナも一緒になって、自分について、やりたいことをやろうとする自分と、それを注意したり止めようとしてくれる自分が存在すること。
そして何より大切なことは、そんな二つの自分を良く対話させることなのではないか、という結論について。
話し終わると、慧乃は満足したように頷いた。
「答え合わせはする必要はないみたいだね」
「そりゃあどうも」
適当に返すと慧乃は小さく息を吸って語り始めた。
「自分と言うけれど、この自分には二種類あるみたいだね。君とハナちゃんが考えた、自分のやりたいことをしようという自分と、それを正そうとする自分。自分のやりたいことをやるというのは所謂エゴって奴だろうね。これを自我と呼んだりするのだけれど、この自我は自由奔放で、自分のやりたいようにやりたいことをする我が儘な自分であるとともに、自分の考えに率直な素直な自分とも言えるだろうね」
「素直ねえ……。でもまあ自我ってのも別に悪い存在じゃあないんだろうな」
「そうだね。自我は行き過ぎると自分中心的な迷惑な存在であるけれど、自我がなければ人間らしい文明の発達はなかったわけだからね。全くなくしてしまうわけにもいかないんだよ」
やりたいことをやる自分、そんな自分が居るからこそ、新しい発明・発見が生まれるわけだ。
「それに対して、自我の行き過ぎを抑止したり、自分が間違った道を歩もうとしているときに正してくれる存在がセルフ、すなわち自己って訳だ。私は自分って言うときはこの自己の存在を指していると考えているのだけれど、多くの人が自分と口にする場合は自我の事が多いよねえ――って、今のは愚痴だよ。きかなかったことにしておくれ」
「ま、言いたい事は分かるがな。誰も彼も自分って口にしちゃあ自我を主張してるわけだから」
「そうですね。わたしもついつい自分の思うようになればいいなーて思ってしまいます」
恥ずかしそうにそんな風に話すハナの頭を慧乃は優しくなでた。
「それでいいのさ。言ったろう? 自我をなくすことは出来ないんだよ。出来ることはそんな自我をきちんと制御できる自己を育むことだよ。自我の過ちを正し、良い方向に導いて、社会の一員としての”自分”の輪郭を形作るもの。そんな自己をきちんと育むことが出来ていれば、自我の我が儘な主張や行動を抑えて、本当の自分に成れるのさ」
本当の自分……。
そういえば人成山は、人が人へ成る山であった。
人に生まれただけでは人には成れぬと。人に成るからには大きな壁を乗り越えなければならないと。そんなことを人成山は教えてくれる。
知佳子はその見えぬ壁を乗り越えて、無事人になれたわけだ。
まだまだ未熟ではあるが、自分中心に振る舞う自我が自己の存在に気づき、それと共に歩いていくことを決めた。
その決意が、知佳子にかけられた呪いを解いたのだろう。
「大切なのは、絶えず自分の中にいる自我と自己を、よく対話させることだろうね。二つの自分の交流を盛んにして、自我と自己を対立させることなく自我を制御できるようになれたとしたら、それがきっと自分なんだと思うよ」
「また難しそうなことを」
「簡単さ。心に少しでも悪いと思ったことは行わず、良いと思ったことを行う。ただそれだけのことだよ」
「それが何より難しいんだろう」
簡単に言ってくれるが、そんな風に生きられる人間なんてそうそういやしない。人間はどうしても自我を主張してしまうし、良いことだと思ったこともなかなか実行に移せない生き物だ。
「分かっているなら上出来だよ」
「確かに難しそうです。……でも、少しずつでもそんな風に生きられるようにしていったら、いつか本当の自分に出会えるでしょうか」
「うん。少しずつでいいんだよ。自分に出来ることから一歩一歩進めていけばいいのさ」
また長そうな道のりだ。
でもそれでいいんだろう。
何しろまだ九ヶ月以上人成山に登り続けなければならないのだ。
一歩一歩でも、進んでいけば、いつの日かきっと辿り着くことが出来るのだろう。
そのためには、今の一歩を踏み出さなければならない。自分を変える一歩を踏み出さなければならない。
登山道の先を見つめそんな風に考えて居たら、ふと知子と話したときのことを思い出した。
「なあ慧乃。そういえば知子がお前から”今”について考えろと言われたそうだが、あれは結局どういう意味だったんだ?」
何か関係のあることだったのだろうかと思い尋ねると、慧乃は口元に笑みを浮かべて、その大きな鳶色の瞳を輝かせてこう答えた。
「さて、君は何処に居るんだい?」




