二月目 其の二 今と自分と③
山頂に着くとまずはいつもの通り人成山山頂の石碑の元へ赴き、その表面に手を触れる。
これで今日の登山は半分完了。あとは下山を残すのみだ。
少し休んでから下山しようと休憩所へ向かう途中、ふと大きな岩の上に体育座りして空を見上げる少女を見つけた。
丈の長い白いワンピースにシャツを羽織り、大きなキャスケットにその小さな頭を納めている。
一瞬誰かと思ったが、よく見るとハナであった。
「どうした、こんな所で」
「あ! お兄ちゃん! 今日も会えましたね!」
ハナは元気いっぱいに微笑んで、後ろ向きになるとワンピースの裾を引っかけないようにゆっくりと岩から降りた。
「えへへ。空が綺麗だったから眺めていたんです」
「空ねえ……」
確かに今日は天気も良く空は良く澄んでいた。千切れた小さな雲の破片が漂う様に浮き、風の力でゆっくりと、しかし確かに少しずつ流されていく様は眺めていたくなる気持ちも何となく分かる。しかし……。
「昨日の今日でこの炎天下の中よくぼけーっとしていられるな」
「大丈夫ですよ! 今日はほら、ちゃんと帽子もかぶってきましたし、ここなら人もたくさん通りますから、倒れても安心です!」
いや、倒れないようにしろよ、とは言い出しづらい空気だ。しかもまた自分の呪いをほったらかして――いや、それでいいのかもしれない。呪いを解くとなったらハナはこの日和の中日の出から日の入りまでただただ花を眺めていなくてはならないのだ。
それよりかは空を眺めて適当にぼけーっとしていたほうが危険は少ないのかも知れない。
「それにしても凄い格好だな……」
「えへへ。どうですか? 似合ってますか?」
批難しているのだがハナはそうは受け取ってくれなかったようで、目の前でくるりと回って見せた。一体何処の世界にロングスカートで登山を強行する奴が居るというのか。
中層から山頂までとはいえ山をなめすぎではなかろうか。だいたい中層を超えてからの道のりが一番危険なのだ。ハナはそのあたりきちんと把握しているのだろうか?
「えと、ごめんなさい。危ないことは分かってはいたのですけれど、お姉ちゃんからお洋服を貰ったらすぐに着て出かけたくなってですね……」
しばらく黙っているとおずおずと言い訳を述べ始めた。先程見せびらかしていたスカートの裾を今はぎゅっと握って気恥ずかしそうである。
「分かってるならいいんだ。にしても慧乃の奴、昨日の今日で今度は洋服か」
「昔お姉ちゃんが着ていた服を実家から送って貰ったそうです。どうせもう使い道がないから貰ってくれって」
「そういやあいつは末っ子だったな」
ずっと妹が欲しかったというのも嘘ではないのだろう。わざわざ使い道のない古着をとっておいたのもこうして妹に着せるつもりだったのだろう。それにしては帽子なんかは随分と新しいように見えるが、まさかとは思うがあいつ、新しく買ってまで与えてないだろうな……。ハナに対しては変態のそれに近い接し方をするあいつのことだからないとは言い切れない。
「あ、お姉ちゃんにはわたしがここにいたことは秘密ですからね!」
「黙って登ってきたのか」
「その、それはそうなりますけど、わたしだって人成山の住人ですから外出だってしますし――確かにお姉ちゃんには今日は家でゆっくりするんだよと言われましたが……」
「言い訳はいいよ。慧乃はハナに対しては過保護すぎるところがあるからなあ。今日の所は黙っておいてやるよ」
果たしてその意味があるのかどうかは微妙なところだが。現にハナはしばらく山頂に居たようだし、多くの人に目撃されているわけだ。人成山じゃあ噂話なんてのはあっという間に広まってしまうのだから、顔の広い慧乃の元へ届くのにそう時間はかからないだろう。
それに、風の噂が届くより早く慧乃にハナの存在は露見してしまいそうだ。
「ここを通りたければ、この私を倒してからにすることね!」
山頂入り口の方向からきこえたその威勢の良い声は、確認するまでもなく慧乃のものだ。
「ま、まずいですよ! お姉ちゃんが登ってくるなんて!」
「そりゃああいつにとっても日課みたいなもんだからなあ。それに今日はカウントも進んだようだし、どこかで山頂に見知らぬ人間が居る噂でも耳にしたんだろう」
「下山しないと――でもお姉ちゃんが向こうに居るし――」
あたふたとして慌てて荷物を担ぐハナ。明らかに慧乃の登場に動揺している。そんなに見つかるのが嫌なら最初から家でじっと――そこまでいかなくても一日くらい中層でのんびり過ごしてたら良かったのに――何て言うのは野暮な話だ。
考えるより先にまず行動がハナの行動原理なのだから、のんびりなんて無茶なのだ。しかも洋服なんか贈られた日には、すぐ出かけたくなるに決まってる。
「裏の山道から峠の展望台を通って神社の裏手に出る道があるぞ」
「ほ、本当ですか!? 案内してください!」
「分かったよ。今日の所は共犯ってことにしよう」
どうせすぐにばれるだろうが、たまにはハナと二人での登山も良いかと、ハナの先を歩き裏手の山道へ向かう。
「そういえばこの道、通ったことがある気がします」
「ハナが人成山に初めて来た日、この道を通って山頂に出てきたんだろう」
「あー、そうでした。すっかり忘れてました」
緩やかな坂道をハナと二人下り始める。
裏手の道は距離は随分と長く下山するのには遠回りだが、ゆったりしていて時間に余裕があるのならば歩きやすくて良い道だ。
ただゆったりしているといっても途中にはごつごつとした岩の道もあるし、あまり人が通らない分、道の状態の悪い箇所も存在する。
まあロングスカートなんかはいてきたアホな女はどの道を通ったって苦しむほかないのだから、そのあたりは諦めて貰うほかあるまい。運動靴をはいているのが唯一の救いだろうか。
ハナのペースに合わせてのんびりと下山する。少なくとも展望台までは緩やかな道が続く。ハナも歩くのは苦にならないらしく鼻歌なんて歌いながら足を進めていた。
「そうだお兄ちゃん。今日は何を考えていたんですか?」
「今日? そりゃあお前、ロングスカートで山登りなんてとんでもない事を考える奴もいるもんだなーって」
「それは、確かにそうですけど……。でもお兄ちゃんも初めて出会ったあの日は凄い格好でしたよ」
「そういえばそんなこともあったな。ハナはあのときはセーラー服だったな……」
思い返してみればあの日は更にハナはローファーを履いていたのだ。辛かったのは今日の比じゃなかったことだろう。
「あの後つま先が痛くてしばらく歩けませんでしたよ」
「そりゃああの靴で下山なんかしたらそうなるだろうなあ。今思えば無茶なことをしてたもんだ」
「ね。思い返すとどうしてそんなことしたんだろーって思うことたくさんありますよね――って、お兄ちゃん! 誤魔化さないでくださいよ!」
「何の話だっけ」
何か誤魔化したっけと少しばかり会話をさかのぼる。だがそれでもハナの言いたいことは分からなかった。
「お兄ちゃん考え事してるとすぐに顔に出るんです。何か考えていたんでしょう?」
「あー、その話しか。ならほら、昨日会ったあいつのことだよ」
「知佳子ちゃんですか?」
頷いて肯定を示すと、ハナもそれに大きく頷いた。
「わたしも知佳子ちゃんのことちょっと考えてたんです」
「ほう。そりゃあ意外だな」
ハナはそんな風に他人の事についてあれこれ考えたりしない物だろうと思っていた。確かに興味を引かれる物を見つけると飛びついてしまう性格ではあるが、その興味が人に向いたことなどあっただろうか。
「自分が二つに別れてしまうってどんな気持ちなんでしょう」
「どうだろうな。そればっかりは知佳子にしか分からないだろうな」
自分が二つに分かれるか……。もし自分が二つに分かれたら。その片割れが自己中心的でまるで知佳のような性格だったらそのとき自分はその片割れに対してどんな風に接するだろうか。
「自分って、難しいですね」
「全くだ。慧乃の奴から自分についてもう一度考えてみろと言われたが、さっぱり何もつかめやしない」
「お姉ちゃんが言っていたんです?」
「ああ」
肯定するとハナは珍しく頭をひねって考え始めた。
足を止めしばらく俯いて何かを考えていたかと思うと、突然顔を上げ登山道から外れた細い獣道へと走って行ってその場にしゃがみ込んだ。
「おいおい何処行く気だ?」
「見てください! 無明花が咲いてます!」
ハナが示す先には確かに線の細い、か弱そうな黒い花が顔を覗かせていた。
「こんな所にも咲くのか」
「えへへ。橘花ちゃんに持って帰ろうかな」
言ったもののハナはやっぱりやめましたと宣言して、鞄からカメラを取り出すと無明花の花をフィルムに納め、それで満足したのかすっと立ち上がって元の登山道に引き返した。
慌ただしい奴だと思いながらもハナの後ろに続いて下山を再開する。
「持って帰らないのか?」
「はい。なんだか持って行ってはいけない気がするんです。あの子もここで咲く縁があったから咲いていたんだと思うんです」
「縁ねえ……。ま、それもそうかもしれないな。ハナに見つかったのが刈り取られて橘花の貢ぎ物にされる縁にもなったわけだが」
「むー。わたしだって珍しい物を何でもかんでも持って行ってしまうわけではないですよ」
「そんなまさか」
「お兄ちゃん、それ本気で言ってますか?」
「どうだろう」
ハナはふてくされたような表情を浮かべながらも、声はどこか嬉しげであった。
「えーっと、それで何の話をしていたんでしたっけ」
「自分について慧乃が考えてみろって言ってたことだろう」
「そうでした! 自分ですよね! 自分、自分……」
歩く速度を落として、”自分”という言葉を繰り返すハナ。真似するのも何か恥ずかしかったが、何かそうしていると思いつくのかも知れないと思い、心の中で”自分”と念じてみるが、さっぱり何も浮かんでは来なかった。
「自分って難しいですね」
「ああ、全くだ」
「自分って何でしょう」
自分とは何か。結局その答えが簡単に出せないから困っているのだ。
”我思う、故に我あり”だなんて言葉もある。デカルトのおっちゃんは考える主体である自分の存在だけは疑うことは出来ない、なんて偉そうなことを考えたようだが、それは自分が二つとか三つとかになったとしても同じ台詞を吐けるのだろうか。
「今のお兄ちゃんは、本当のお兄ちゃんですか?」
「そのつもりだが……どうだろうな」
人成山の魔力に飲まれ、いつの間にやら自分が自分であることすら自信がなくなってきてしまった。ある日ひょっこり自分の目の前に自分が現れるなんてことすら、人成山ではあり得てしまうのだ。
「ハナは、今のハナが本当のハナなのか?」
尋ねてから、きいてはいけないことだったと気づく。
ハナには人成山に訪れる前までの記憶がほとんどないのだ。
「いや、何でもない。悪いことをきいたな」
「気にしなくてもいいですよ。わたしは確かに人成山に来る前までの自分がどんなだったか思い出すことも出来ません。でもわたしは、今のわたしがきっと本当のわたしなんだって思います」
「どうしてそんな風に思えるのか、是非教えてくれないか」
どうしてもその理由が知りたい。自分が本当の自分だと確信できない自分が恥ずかしくて、記憶があやふやにも関わらず自分を信じることが出来ているハナが神々しく見えた。
「何て言うんでしょう、わたしの中にもう一人わたしがいて、そのわたしが教えてくれるんです」
「もう一人の”わたし”?」
「はい。わたし、集中力がないですし、何か新しい物を見つけるとすぐにそっちに意識がいってしまうのですが、それでも間違った方向へ向かいそうなときは、もう一人の自分が止めてくれるんです」
間違った方向へ進みそうなとき、止めてくれる自分。知佳にとっての知子のような存在なのだろう。相づちを打って先を促すと、ハナは再び口を開いた。
「そんなわたしがいてくれるから、わたしがわたしだって言えるんです。道を正してくれるもう一人のわたしがわたしの中にいてくれるから、記憶はあやふやでもわたしがわたしでいることが出来るんです。って、変ですかね?」
「いや、変じゃないさ」
自由奔放に動き回る自分。そしてその自分を正しい方向に導こうとする自分。
言われてみれば知佳と知子の関係はそうだったのだ。
二人は決して別々の方向を向いていたのではなかった。知佳が自由に自分のやりたいことを主張して、知子がそれが正しくないと判断したときには止めに入る。
ただ大抵は知佳の行動が早く、知子が止めきれないために二人の自分が別々な行動をしてしまう。
そう考えてみると、知佳と知子――いや、知佳子の呪いを解くのに必要なことはそんなに難しいことでは無いのかもしれないと思えた。
「自分の中にいるもう一人の自分ねえ」
「お兄ちゃんの中にもきっといますよ。というより、お兄ちゃんは正しい道を歩こうとする自分の方が外にいるんだと思います」
「そんなことはないさ。それはきっと慧乃みたいな奴のことを言うんだろう」
「お姉ちゃんは……そうですね。お姉ちゃんは不思議な人です」
そもそも慧乃に自分勝手に振る舞おうとする自由奔放な自分なんて存在するのかは少しばかり謎ではある。時折見せる馬鹿なお姉ちゃんキャラがそれなんだろうか。
「といってもまあ、常に正しくあろうなんてのは無理な話だし、自分のやりたいことを何一つしない生き方ってのは窮屈でしょうがないだろうなあ」
「ですね。時々自分のやりたいようにさせてあげるって事も必要なのかも知れません」
「姉に今日は大人しくしろって言われてるのに外出したりな」
「うぅ」
「あまつさえスカート履いて登山したり」
「う、うぅ」
「姉に見つかりそうになったからって逃げ出したりな」
「うう……。お兄ちゃん、意地悪です」
意気消沈して縮こまり小さくなったハナの頭をぽんと叩いて、悪かったよと謝る。ハナは唸りながらも機嫌を取り戻してくれたのかゆっくりと立ち上がり下山を再開した。
「わたしはどうしても考えるより先に動いてしまうんです」
「ハナはそれで良いと思うけどな」
考え込んでばかりのハナというのもなんだかしっくりこない。ハナは元気いっぱいで、自由にあれこれ行動するからこそハナなのだ。
「そうでしょうか? でも、そうですね。もし本当にわたしが間違った道に向かっていたときは、お兄ちゃんが止めてください」
「他力本願か……」
「えへへ。だってわたしは我が儘ですから」
「それを自分で言ったら駄目だろう」
まあそれこそハナらしいというか何というか。
でも、自分が間違った方向へ進もうとして、自分の中の自分が止めたのにもかかわらず止まることが出来なかったとき。そんな時に別の誰かがちゃんと止めてくれるというのはありがたいことなんだろうな、きっと。
それでも止められた側は止めてくれたことに感謝なんかできないんだろう。自分っていうのは何処まで行っても我が儘な存在だ。




