二月目 其の二 今と自分と①
翌朝、目が覚めるとともにラジオの電源を入れ、天気予報を聞き流しながら登山の準備を整える。
今日も天気は良く、また暑い一日となりそうだ。
出かける準備が出来るとベランダから隣の慧乃の部屋の様子を確認する。
薄いレースのカーテンのみが掛かっており、どうも起きているようだ。
自室を出て慧乃の部屋をノックするが、しばらく経っても反応が無い。手が離せない状況なのだろうか? それにしたって返事くらいあっても良さそうなものだが――まさか緊急事態か?
「おはよう。今日も良い天気だねえ」
突入の決意をしていると、階下から慧乃の声が聞こえた。
見下ろすと、作務衣を身につけ竹箒を手にした慧乃が微笑んでいた。
「掃除か。熱心なことで」
「六根清浄。いつだって身の回りは綺麗にしておきたいものだよ」
だからといって貸しアパートの外まで掃除することもなかろうに……なんて、慧乃のことだからこれくらいはやって当然のことだと思っているのだろう。とにかくそういう奴なのだ。
「それで、何か私に用があったのだろう? もしかしてもう登山かい?」
「あー、そのつもりなんだが、今日はちょっと一人で行こうかと思ってな」
「何やら事情がありそうだね。もしかして知佳子ちゃんの件かい?」
流石は慧乃。なかなか鋭い。
「ま、自分なりに考えてみようかと思ったのさ」
「そうかい。だとしたら私は横で口出ししない方が良さそうだね。でも、何か分かったらそのときは是非話して欲しいよ。一緒に答え合わせをしようじゃないか」
「答えが見つかったらな」
なんて返したが、つまり慧乃はもう答えを持っているという事じゃないか。やはり何か知っているのだろう。慧乃のことだからそうであってもおかしいことはないが、となると自分とは何か、という問いはやはり知佳子の呪いについて大きな意味を持っているのだろう。
まあ今はそんなことに構っている時ではない。
慧乃に見送られ今日も呪い解除のための人成山登山を始めた。
相変わらず天気は良く、遠くの方でなめらかな表面をした巨大な雲が発生しているものの、輝く太陽の光を阻む物はなく、どうやら今日も暑い日となりそうだ。
そんな中、木漏れ日の中を歩きしばらくすると中層地区前の分かれ道に辿り着いた。
未だに知佳、知子、どちらにも出会えていない。どうも縁がなかったようだ。というより昨日いろいろやらかしたせいで、向こうから拒絶されているのかも知れない。
だが、以前慧乃が言っていた、「会いたいと思っているなら会える」という言葉を信じるのなら会えてもおかしくないのではなかろうか。
額に浮かび上がった汗をぬぐい、分かれ道を左に曲がり中層地区に入る。
中層から先は高低差の大きい、十分に舗装されていない道が続く。登山の本番はここからなのだ。その前に水分補給と休憩を兼ねて、喫茶店『尾根』に立ち寄ることとした。
重厚な木の扉を開け店内に入ると、扉に付けられた鈴が心地よい音を奏で、店内の涼やかな空気に額の汗がすうっと引いていった。
「いらっしゃい。お好きな席へどうぞ」
カウンター奥のマスターに声をかけられる。朝早い時間とあって空席が目立つが、既に数人の客が居た。
ふと窓際のテーブル席に見知った顔が二つ並んでいるのを見つけた。
これが縁って奴なのだろう。それとも相手も会いたいと思っていてくれたのだろうか。何にしろ、これで慧乃との答え合わせに何も言えないということはなくなりそうだ。
荷物を床に置いてから椅子を引き、腰を立て真っ直ぐに背筋を伸ばして座っていた知子の隣の席へと腰掛ける。
「なんで勝手に座ってんのよ」
机に肘をつき、足を組んで姿勢を崩していた知佳が案の定抗議する。
「相席良いか?」
「座ってから言うんじゃないわよ。駄目に決まってんでしょ」
「良いじゃないですか」
知子のほうは了承してくれているが、相変わらず知佳の方は不機嫌全開で目を細めこちらをにらみつけている。
「そう言わないでくれよ。なんか奢るよ」
そう口にすると、知佳の態度が明らかに変わった。不機嫌そうなしかめっつらをやめ、口の端には笑みすら浮かんでいる。
「たまには誰かと食事するのもいいわね」
「そんな、悪いですよ」
知佳の方は嬉しそうであったが、今度は知子が反対した。
やはりこの二人の性格は正反対のようだ。
知佳は自分に利することを追求するのに対し、知子は他人を立てる。二人は元をたどれば同じ人間のはずなのに、何処でこの差が生まれてしまっているのだろうか。
「私はワッフルとアイスティーで。私はどうすんの?」
知佳は既にマスターにオーダーを出していた。
知佳にメニューを押しつけられた知子がこちらの様子を覗っているので、代わりに注文をする。
「同じのでいいか?」
「本当によろしいのでしょうか?」
「昨日は悪いことしたからな。これくらいさせてくれよ」
慧乃にもちゃんと謝れと釘を刺されているのだ。金欠の財布には重い出費だが、必要経費と割り切ろう。
自分の分のアイスコーヒーを頼み、二人の観察を始めた。
朝食、だろうか? 二人の目の前には空になった皿が置かれていた。知佳の目の前にある皿にはパンくずが転がっているので、トーストでも食べていたんだろう。――いやしかし……。
「元は一人なのに二人分食べるのな」
「二人分動いてるから当然でしょ」
「そう言われるとそうだな」
ぶっきらぼうな答えだったが、それを聞くと妙に納得できた。そりゃあそうだ。二人分のエネルギーを消費している訳だから二人分食べなければならないのか。
「出費も倍か。大変そうだな」
「全くよ。このせいでさっさと元に戻ってこいって母さんに家を追い出されるし、最悪よ」
母親はこの状態を知っているのか。しかし二人に増えた娘を見てさっさと元に戻れと追い出すとは随分と肝が据わってるな……。
「このまま生活するわけにもいきませんし、仕方のないことだったと思いますよ」
「ま、このまま学校行くわけにもいかないし、部屋も狭くなるしでいつかは解除しないととは思っちゃいたけどね」
「私は引きこもって漫画読むばかりで学校行く気なんてなかったし、私を部屋の隅に追いやって今までと変わりなく部屋を使っていたではないですか」
「うっさいわね。私のくせに私のやることに口出ししないでよ」
「私こそいつも私に命令ばかりじゃないですか」
「私が私に何を言おうと私の勝手でしょ」
「なら私だって私に何を言うのも勝手です」
「あーいえばこーいうわね。私のくせに私に刃向かうなんて許せない!」
相変わらず器用に”私”同士で口喧嘩をするものだと、もう感心すらするようになった。
――確かに存在してしまっている二人の私。
理想の自分と本当の自分、という考えはどうだろう。落ち着いた礼儀正しい人間になりたいという知佳の意思が知子を産みだしてしまった――なんてことはなさそうだ。
もし知子が知佳の理想であるのならば、二人が喧嘩するのはおかしな話だ。
理想の自分が目の前にいて、そいつに悪態をつくだろうか。
知子が知佳のような自分の思う通りに生きられる人間になりたいと思っている可能性はないだろうか。――いや、知子は自分を抑えているわけではなさそうだ。謝るべき時には頭を下げるし、怒るときは怒る。あくまで正しく生きようとしているだけだろう。
だいたい、いつだって悪いのは知佳の方だ。知子がそんな知佳に憧れを抱くだろうか。いつもいつも知子に迷惑をかけるばかりで、自分は自由気ままに生きるあいつを見て、あのようになりたいなどと思うだろうか。
元は知佳子という一人の人間。でもそこから増えたはずの二人は全然違う別の人間。こんなにまで性格に差があるというのに二人とも確かに自分なのだ。
果たして自分とは一体何なのだろう。慧乃はこの問いに何らかの答えを持っているのだろうか。
ふと気がつくと、目の前の席に座っていたはずの知佳が居なくなっていた。
机の上には食べかけのワッフルと、氷だけとなったコップ。
しかし横に目をやると、そこには知子が座っていた。
「えーっと、知佳は何処に行った? トイレか?」
「ここにいるじゃない」
「そんな口調だけ真似ても、知佳はそんな風に背筋を伸ばして座ったりしない」
「そうでした。詰めが甘かったですね」
知子はそう言って小さく笑った。知佳とは違う、控えめな微笑みだ。
「知子がそんな冗談を言うとは思いもしなかったがな」
「不思議なことを言います。あなたは私をどんな人間だと思っているのです?」
「どんなって……知佳と違って大人しくて礼儀正しい人間だと思ってるよ」
「それもまた不思議なことですね。私は私。何も違うところはないはずなのに」
私は私。
その言葉にまた強く自分という存在を意識させられる。
違う所は何もないと知子は言う。だが、知佳と知子を並べて見て、この二人が全く同じ人間だと言い張れる人間は当人と、慧乃くらいのものだろう。
しかも、当人と言ってもおそらく知佳の方は、知子のことを自分だなんて思っちゃいないのではないだろうか。
「で、知佳はどうしたんだっけ」
「何処かへ遊びに行きました」
「食べ残して?」
目の前の食べかけのワッフルを指し示し尋ねると、知子は首を縦に振って肯定した。
「お恥ずかしい限りですが」
「あいつらしいといえばあいつらしいな」
食べ物を粗末にするとあとで慧乃にがみがみ言われそうだと、残ったワッフルの載った皿を手元にたぐり寄せた。
知子はそんな様子を眺めながら、自分の皿に載ったワッフルを器用にフォークで小さく切ってから口に運んでいる。
明らかに歯形の残る知佳のとは大違いだ。やっぱりこれだけ見ても、知子と知佳が同じ人間だとは思えなかった。
「いや待て。知佳は遊びに行ったんだよな」
「おそらくそうだと思います」
「知子は行かないのか?」
「私ですか?」
知子はきょとんとして、手にしたフォークを皿の上に置いてから質問に答えた。
「あなたを置いて行くわけにはいきません」
こちらも、これはこれで知子らしい。
だがこれは良い機会なのかも知れない。二人同時に接しているとどうも二人の違うところばかりが気になってしまう。今こそ、このよく分からない呪いの謎に近づくことが出来る好機なのではないだろうか。
「何か悩み事でしょうか?」
「ん? ああ、ちょっとな」
「ちょっと、でしょうか? 先程も長い間何かを考えていた様子でしたが」
どうやら考え事をしていたせいで、知子に心配させてしまったようだ。
「悪い、考え事に夢中になると周りが見えなくなるんだ」
「そうですか。私もそういうことはよくあります。もし私でよろしければ相談に乗りますよ」
そう言ってくれる知子に、なんと返して良いのか若干悩む。
考えていたことは知子と知佳の呪いのことであり、自分以上に知子はそのことについて思い悩んでいるはずなのだ。
だが呪いの事ではなく、慧乃から出された宿題についてなら知子に尋ねてみるのも良いのではと、一つ相談してみることにした。
「自分って何だろうな」
「自分、ですか……」
知子は俯いて考え始める。
先程言ったことは嘘ではないようで、細めた目は真剣そのもので、周りのものなど一切見えていないようでただただ考えることに没入している。
「難しい質問です」
顔を上げた知子は短くそれだけ答えた。
確かに、難しい質問だ。自分とは――その質問に答えを出せる人間はそうはいやしないだろう。
唯一明確な答えをさらりとだしてしまいそうな人間は、尋ねてみたところで人に答えをそのまま与えたりはしない偏屈者だ。
「自分ほど、分かっているつもりで何も分かっていないものはないでしょうね」
「だろうな。そういえば、呪いにかかる前の知佳子はどんな人間だったんだ?」
ふと思いつきから尋ねてみたのだが、知子は珍しく顔を赤く染め、照れたような笑みを浮かべて答えた。
「恥ずかしいことをききますね」
「そうか?」
「ではあなたは呪いにかかる前はどんな人間だったのですか?」
知子から返されたその質問に答えようと、人成山に来る前の自分を思い返す。
今考えてみると、なんと適当に生きてきたことだろう。一月に満たない人成山での生活で学んだことが、これほど自分の過去を否定してしまうことか。
自分に都合の良いことばかりを求め、自分一人で生きていると勘違いするくせに自分の道を自分で決められず、何かを自分の物にしようと画策するばかりで知らず知らずのうちに与えたれた大切な物に気づきもしない。
そんな過去の自分は紛れもなく恥ずかしい存在で、知子の答えにも納得せざるを得なかった。
「悪いことをきいてしまいました」
「いや、先にきいたのはこっちだからな」
「ではお互い様と言うことで」
「ああ、そういうことにしてくれ」
お互いに了承し合って話を区切ると、知子は残っていたワッフルの欠片を口に入れて、氷が溶けて薄くなったアイスティーを飲み干した。
それに習って知佳の食べ残したワッフルを二つに切って口に運ぶと、思い出したように知子が呟いた。
「どんなに恥ずかしくても、過去を変えることは出来ません」
「ん? まあ、そうだろうな」
頷いて肯定すると、知子がまた呟くように、誰に向かって言うでもなく声を発した。
「未来を変えることも出来ません。突然降ってくるそれを、そういうものだと諦めて、全て受け入れる他ありません」
「そう……か?」
未来を変えることは出来ないのだろうか……? 確かに、未来というのは突然やってくる。やってきたらそれは今になってしまうし、時が経てば過去になってしまう。未来はやってくるまで何がくるのか分からないし、通り過ぎたらもう変えることは出来ない。
そう考えてみると、確かに未来というのも変えることは出来ない物なのかも知れない。
「唯一変えられるのは今だけです。ですが、今というのは一体どういう物なのでしょう?」
「今、ねえ」
思案を巡らせる。
今とは何か。言うまでもなく、今こうして今について考えているこの瞬間が今である。
だが、今を変えるとはどういうことなのだろうか。今を変えてしまっても過去も未来も変わることがないとしたら、変えられる今という存在はどういった存在なのか……。
思考が堂々巡りになってしまい、どうにも答えが出せそうにない。だからもう、何もかも諦めて答えるしかなかった。
「難しい質問だ」
その答えに、知子は不満を一切表さず、むしろ共感をしたのか大きく頷いて微笑んだ。
「そうですね。今ほど自分の物にしているつもりなのに、自分の手の届かないところにあるものもないでしょう」
「そう言われてみると、その通りだ」
自分の手のひらの中にあると信じて疑わなかった”今”すら、本当は何処にあるのか分からない。どうやって変えたら良いのか分からない。そもそも”今”とはなんだろう。これまたこの答えを出せるだろう人間は一人しか心当たりがないのだが、そいつにきいたところで「君はどう思うんだい?」なんて、憎たらしく微笑んで返してくるに決まっているのだ。
――いや、待てよ。ということは――
「もしかして、それが知子が慧乃から押しつけられた宿題か?」
「押しつけられたと言うと語弊がありますね。私が望んで与えていただいた宿題ですから。あなたが、自分という宿題をいただいたのと同じように」
「与えていただいた、ねえ……。言われてみるとそうだな。あいつにとっちゃ善意でやってることなんだろう。そのせいで悩み混むのは、悩む奴が悪いって事か」
「悩むことは悪い事じゃないさ」
空いたコップに水を注ぐマスターが、こちらの会話にそう割り込んで微笑む。
「生きるって事は悩むってことだからね」
「そういえばそんなこときいたことあったな」
いつぞや慧乃がそんなことを言っていたっけ。生きる以上、悩みも苦しみも避けては通れない。もっと言ってしまえば、悩むことがそのまま生きることなのだろう。
「あれこれ思い悩むからいろいろ考えたり、その結果何かが生まれたり、生まれなかったりして、その結果を見てまた悩んで、悩んでる自分にまた悩んで……人生なんてそんなことの繰り返しだよ」
「悩みっぱなしか」
「悩ましい限りですね」
知子のコップに水を注ぐとマスターはまた饒舌に語り始めた。
「悩むことは悪くないよ。でも悩みをなくそうなんて思ったり、悩みを楽しみに変えてしまおうとしたりすると無理が出て余計に苦しくなる。それこそ一人で抱えきれないくらいにね。だから、大切なのは悩み方をよーく考える事さ」
「どうやって悩むか悩めと。これまた、どこぞの通行止め女が言い出しそうなこった」
思えばマスターは既に呪いを解いているのだった。慧乃が呪いの解除のきっかけをくれたとかなんとか言っていたような気がするし、つまりは何らかの答えを出しているということなのだろう。
「で、あんたはどうやって悩むことにしたんだ?」
「さあどうだろうね。ま、いろいろと悩んでみると良いんじゃないかな」
マスターは質問を適当にはぐらかすと水差しを持ってカウンター裏へと戻っていった。
散々引っかき回したあげくに悩めとだけ告げておしまいだなんて、あんまりじゃあないだろうか。
そんな風に考えて恨めしげにカウンターの方を睨んだりもしたが、こんな事をしたって何の解決にも成らないし疲れるだけなので早々に切り上げた。
「ごちそうさまでした」
知子は空になった皿に両手を合わせ、続いてこちらに頭を下げた。
「ありがとうございました」
「何、気にしないでくれよ。こっちから言い出した話しだしな」
「それでも、ありがとうです。これから登山ですか?」
「ああ、そのつもりだが、そっちは何かやりたいことがあるのか?」
「私を探しに行こうかと思います」
私、か。
知子にとっては知佳も私。知佳にとっても知子は私のはずなのだが、そのくせ知子を置いて一人で抜け出したり、自分勝手な私もいたもんだ。
「どうして探すんだ? ほっといてもいいんじゃないか?」
自分でもちょっと意地の悪い質問だったかもと思った。
だが、知子は柔らかに微笑んでその質問の答えを口にした。
「一緒に居ないと駄目なんです」
「そういうルールなのか?」
重ねて問うとまた微笑んで答えた。
「いえ。私がそう思っているだけです」
はてさて、その思いは知佳に伝わっているのだろうか。
「知佳と一緒に居るのは大変じゃあないか?」
尋ねると、知子はちょっと恥ずかしそうにして俯いて、それでもやっぱり顔を上げたときには微笑んでいて、問いに答えた。
「私も、私ですから」
結局の所、私とは――自分とは何なのだろう。




