二月目 其の一 私と私②
呪い解除のため山頂に立つ石碑に触れて、休憩所の所まで戻り慧乃と再会した。
「知佳子ちゃんはどうも他の場所に行ったみたいだねえ」
「他の場所ねえ。ま、ひとまず投げ飛ばされずにすみそうで良かったよ」
「それはそうだろうけれど、きちんと謝らないと駄目だよ」
「分かってるよ。今度お詫びに何か持ってくよ」
「きっとそれがいいよ。ああ、もちろん忘れてないとは思うけれど、私の分もよろしく頼むよ」
当然とばかりにそう述べた慧乃の顔を凝視するが、慧乃は至って平然としており、どうも冗談で言っているのではないようだ。
「一応きくが何故だ」
「何故って、当たり前じゃないか。君は知佳子ちゃんを騙すときに私の名前を出したじゃないか」
記憶をたどると、確かに知佳子に目を瞑らせるために慧乃の名前を使ったのであった。となると当然慧乃にも謝らなければならないわけだ。
「そうだったな。悪かったよ」
「分かってくれればそれでいいのさ。お詫びはそうだね、私の分は知佳子ちゃんに渡しておいておくれよ」
「いや、今度なんか奢らせてくれよ。今まで散々世話になった分も含めて礼をさせてくれ」
「そう言ってくれるぶんにはありがたいけれどね。忘れないで欲しいのは、お世話になってるのは私も同じって事だよ」
「何を言うかと思えば……」
人成山に来て以来、何かと慧乃には助けられてきた。それに対して、自分はたいした礼も出来ずにいるのだ。今まで慧乃のために何かしてやることが出来ただろうか。人成山での出来事をたどっていっても一つとして見つかりはしない。
「そうだ! 下山する前に少し寄り道していってもいいかな?」
「ん? ハナの所か? 全く妹思いの姉だこと」
「流石、分かってるじゃないか」
「そりゃ度々一緒に登山してりゃ分かるさ。それじゃあハナの様子を見に行くか」
登山道へと戻り、小さな脇道を下っていくと大きな岩が見えてきた。
ハナ――伊与田ハナの呪いは、その岩の元に咲く二輪の花を日の出から日の入りまでの間見続けるというものだ。この呪いを解かなければハナは自分の帰るべき場所が思い出せない――一種の記憶障害にかかっているのだ。
少し進むとハナの姿が見えてきた。
地面にレジャーシートを敷いてその上に俯せになっている。
白いレースのカーディガンにショートパンツと、初夏らしい格好なのはいいが、一日中その格好でこの炎天下の中花を見つめていたら日焼けするのではなかろうか。
しかも俯せになっているせいで上半面だけ綺麗にやけそうだ――いやまて。
「ハナの奴また寝て――いや、死――」
「死んでない」
珍しく慧乃が怒ったように強い口調で言った。
その剣幕――というよりはいつもとは違うその態度に驚いたが、そりゃあまあそうか、慧乃にとってハナは大切な妹だ。そんなこと言われたら怒りもするだろう。
「――なんて、大きな声を出してごめんね」
「いや、こっちこそ悪かった。しかし何にしろあまり良い状態じゃあなさそうだ」
「そのようだね」
ハナの元へ駆け寄ると、案の定ハナは熱中症にかかっているらしく、意識はあるようだが声をかけても喉の奥で小さなうめき声を上げるばかりという状態であった。
急いで木陰へとハナの体を運び、ゆっくりと水を飲ませてやる。
慧乃はハナの羽織っていたカーディガンを脱がせ、鞄から取り出したタオルを水で濡らすと、ハナの手足を冷やし始めた。
「あれぇ? お姉ちゃん……?」
「意識はあるね。全く、あまり無茶をしたらいけないよ。六月とはいえ夏日なんだから」
上半身を起こしたハナの体に扇子で風を送ってやる。
「全くだ。こんな所で意識失ってたら誰も助けに来ないぞ」
そもそも登山の鉄則は一人登山厳禁だ。
しかもこんな山道から離れた場所では、他の登山者が通りかかるとも限らない。危ないことをしやがって。
「えへへ。でも、お姉ちゃんとお兄ちゃんが助けてくれました。ありがとうございます」
虚ろな目でこちらを見て礼を述べるハナに、こんな状態にあってもこいつは人の事を考えているんだと素直に感服した。
「そりゃあたまたまだ。今日はたまたま運が良かっただけなんだからな。もうこんなことするんじゃないぞ」
「うーん。でも、今日は朝から調子が良かったので、もう少しもう少しと思っていたら気がついたらこんな状態になっていまして――」
ゆっくりとしたペースで理由を説明していたハナだが、慧乃に軽く頭を小突かれて言葉を飲んだ。
「急がば回れ、だよ。ここで倒れてしまったら、呪いも何もないじゃないか。もっと自分のことを思ってあげないと駄目だよ」
「……はい。ごめんなさい」
しゅんとして頭を下げたハナに対して、慧乃は優しく微笑んで応えた。
「分かってくれればいいのさ。それにしても、ここは日差しが思ったよりも強いようだね。ハナちゃんにと思って持ってきたのだけれど、これじゃあ全然足りなそうだよ」
慧乃は鞄から折りたたみの傘を取り出す。
桃色と白のストライプの入ったその傘は、どうやら日傘のようだ。それにしても慧乃が言ったとおり、折りたたみのそれではここの日差しを防ぐのは難しそうだ。
「わあ! もらってもいいんですか?」
「もちろん。ハナちゃんのために持ってきたんだもの」
「ありがとうございます! 大切にしますね」
ハナはキラキラした顔で日傘を受け取ると、しばらく開いたり閉じたりしていた。
「それよりも、ハナはともかくそっちの花はこの日差し大丈夫なのか?」
視線を向けた先に咲く二輪の花。
ハナが呪いを解くために見つめ続けなければならない花なのだが、この日差しにやられて枯れたりしないだろうかと不安になる。
「そう言われてみると、気になるところだね。ちょっと図鑑を調べて見たけれど、この花は載っていなかったんだよねぇ」
慧乃が二輪の花を見つめてしみじみとそう述べる。
図鑑に載っていないとなると、無明花のような人成山の中だけにしか生息しない特殊な植物なのだろうか。
既に前例があるので、ないとも言い切れない。
「そうなんですか? 確かに花屋さんでは見ないなーとは思いましたけれど、図鑑にも載ってないんですね。わたし、結構この花好きなのに、残念です」
ハナは遠目で二輪の花を見つめる。
そりゃあまあ、何日もこうして見つめ続けていたら好きにもなるだろう。
「あれ? そういえばこの花、以前は別々の所を向いていなかったかい?」
「あ、気づきました? 実は少しずつ向きが変わっていったんですよ」
何の話かと花の様子を観察すると、空色の花と薄い桜色の花は、お互いに花弁を向け合い、見つめ合っているかのようであった。
思い返してみると、初めてこの花を見たときは、二輪とも別々の所に花弁を向けていたような覚えがある。
「へえ、そんなこともあるもんなんだねえ。ということは、すっかり仲直りしたって事かな?」
「はい。仲良しさんです!」
またもや乙女二人のメルヘントークが始まってしまった。
正直この会話にはついていけない。さっさと会話を終わらせることにしよう。
「それよりハナ。もう体は大丈夫か?」
「体? あ、ああ! もうすっかり大丈夫ですよ!」
どうやら自分が先程まで熱中症で倒れかけていたことすら忘れているらしい。どんなお天気な頭をしていたらこうなるのだろうか。
「何か食べられそうかい? 塩分もとった方が良いよ」
慧乃が鞄から紙袋を取り出してその口を開けてハナへ差し出した。
「もらっていいんですか?」
「もちろん。ハナちゃんに食べてもらおうと思って作ってきたんだから」
またもや餌付けか……。ま、何か口にした方がいいことは確かか。随分と汗もかいていたようだし。
「お姉ちゃんにはいつも貰ってばかりですね」
「私もハナちゃんからいろいろ貰ってるからお互い様だよ」
「そんなことないです。わたし、お姉ちゃんに何も上げてませんよ」
「それこそそんなことないよ。私はいつだって、ハナちゃんからたくさんのものを貰っているんだよ」
そうだっけ、なんて思い返しながら慧乃が差し出した紙袋からビスケットを一欠片もらい口に放り込むと、思いの外塩分が効いていてむせそうになった。というかこれはビスケットと呼んで良いのだろうか? そもそもビスケットって何だっけ……。
「でも私は、ハナちゃんがこうして近くに居てくれるだけで幸せなんだよ」
ぎゅっとハナの体を抱きしめる慧乃。ハナのほうもまんざらでもないらしく顔には笑みを浮かべている。
「病み上がりなんだから控えろよ、暑苦しい」
「それもそうだね」
慧乃はハナの体から離れると、空になった紙袋を折りたたんで鞄にしまい込んだ。
「さて、しばらく休んでハナちゃんが元気になったら、中層まで下るってことでいいかな? 出来ればすぐにでも冷房の効いたところに連れて行ってあげたいのだけれど、生憎このあたりには冷房はないからね」
「山頂付近は電気通ってないからな。そうするしかないか」
発電機を設置している家屋もあるが、エアコンを駆動出来るかどうかは怪しいだろう。一番近い冷房の効いたところは山頂と中層の中間にある神社の休憩所だろうか。
何にしろ下らないといけないので、中層に向かいつつ休めば良いか。
「ご迷惑をおかけしてしまってごめんなさい」
「私が好きでやっているのだから気にしなくても良いよ。君だってそうだろう」
「何故こっちに話を振る」
「そんな顔してたからさ。それじゃあ、私はグランマの所に行ってお水を貰ってくるよ」
言い残して山頂に向かう慧乃の背中を見送って、自分が行けば良かったと悔やんだが時既に遅し。
ハナを一人にするわけにもいかないし、しばらくは慧乃の帰りを待つしかなさそうだ。
「優しいですね」
「慧乃はそういう奴なんだろう」
ハナの呟きに返すと、ハナは柔らかな笑顔でこちらを見つめて答えた。
「お兄ちゃんのことです」
「何を言い出すかと思えば。慧乃についてきたらたまたま巻き込まれたってだけさ。いつものことだよ」
ぶっきらぼうにそう返したが、それでもハナは微笑んでいた。
思えばこんな風に腰を下ろしてハナと二人きりで話すのは初めてだろうか。自分が初めて人成山を訪れたあの日にハナも呪いにかかり人成山に飛ばされてきていた。ハナとあの日、山頂で出会えたのも人成山のもたらした縁というやつなのだろうか。だとしたらこの縁はどんな結果を生むというのだろうか。
「お兄ちゃんは褒められると、いつもお姉ちゃんのおかげだって言いますね」
「実際そうなんだ。他に言いようが無いじゃないか」
「そういう人だから、お姉ちゃんもお兄ちゃんのことが好きなんだと思います」
何を言い出すかと思えば。おかしなことを言い始めて。まだ熱中症の影響があるのだろうか。
何にしろ、一つ大きな思い違いを指摘してやらねば成るまい。
「いいか、ハナ。お前は一つ間違いを犯している」
「そうですか? なんでしょう」
首をかしげるハナ。どうも自分では間違いに気づくことが出来ないらしい。となれば教えてやるほかないだろう。
「慧乃は誰も彼も、皆のことが好きなんだ」
その言葉でハナも分かってくれたらしく、そうでした! と手を叩いた。
「お姉ちゃんはそういう人でした」
「だろう」
大きく頷くハナの様子を見て満足し、ひとまずこの話はこれでおしまいかと思ったが、ハナはまだ話し足りないようで続けて口を開いた。
「お兄ちゃんは、お姉ちゃんのこと、好きですか?」
その質問に息をのむ。
何を尋ねるのかと思えばそんなことか。
面と向かって答えるのもなんだか恥ずかしくもあったが、そんなもの答えは決まり切っている。
「嫌いなら一緒に登山なんてしないさ」
回答にハナはそうですよね! と首を縦に振って、それから「わたしもお姉ちゃんこと大好きです」と可愛らしい笑顔で答えた。
「面白そうな話をしているね」
声に振り向くと妙な微笑みを浮かべた慧乃が背後に立っていた。
全く気配を感じさせなかった――いや、ハナは慧乃の歩いてくる方を見ていたのだから気づいていたはずだろう。ってことは共犯かこいつら。完璧にしてやられた。
「私も君のことは好きだよ」
にやにやとした嫌らしい微笑みで人の顔を見下ろして、全くもって憎たらしい。
なんだか居心地が悪くなり、ついでに慧乃の笑顔があまりにも憎たらしいのも手伝って一言、
「お前のそういう所が嫌いだよ」
と言ってやったが、慧乃の方はそれを相変わらずの笑顔で受け止めて、
「私は君のそういう所は嫌いじゃないよ」
と答えた。
こいつのこの余裕は何だろうか。良い機会だから慧乃の嫌なところを並べ立てて一つ一つ教えてやろうかとも思ったが、そんなことをしても結局は慧乃にうまいこと丸め込まれてしまうような気がして、口を結んで抗議の視線を向けることに徹することにした。
「はい、ハナちゃん。グランマからお水を貰ってきたよ。こっちは普通のお水で、こっちは食塩とお砂糖が入ってる経口補水液だそうだよ。あと保冷剤も戴いてきたけれど、まだ暑いようなら使うかい?」
「わあ、ありがとうございます! おばあちゃんにはまたお礼を言いにいかないといけませんね」
「そうだね。そのためにも今はちゃんと体調を元に戻さないとね」
ハナは経口補水液を二口ほど飲んで、タオルでくるんだ保冷剤を首筋に当てて体を冷まし始めた。
それにしても相変わらずあのばあさんは準備が良いというか甘やかしが過ぎるというか……。山頂は水が貴重だとどこかできいた覚えがあるのだが良いのだろうか。
それからやることもなくなって、ハナの体調が良くなるまでの間、慧乃とハナの話に耳を傾け続けた。




