一月目 其の五 人に成る山
人成山の天気予報なんてのはあってないようなもので、数日続くと言われた雨はきれいさっぱり遙か彼方へと吹き飛んで行ってしまったらしく、本日は快晴であった。
爽やかな風が吹くため涼しく、登山には持って来いの日だ。――まあ天気がどうだのいう権利などなく、どんな天気であろうが山に登らなければいけない身の上なのだが……。
ともあれ、天気が良いというのは良いことだ。山頂手前で登山道から外れ、遠くの山まで一望できる小さな休憩所へ足を運ぶ。
空は良く澄んだ色をしていた。新緑に染まった遠方の山々と空のコントラストが素晴らしい。薄く細い線のような雲が幾つか空色の背景に重なって絵を描いている。
のんびりとそんな景色を眺めていたら背後から声をかけられた。
「やっぱり君か。後ろ姿で分かったよ」
振り返ると案の定、六宮慧乃がこちらに笑顔を向けて立っていた。
「登るなら誘ってくれれば良いのに」
「なんでわざわざ誘わにゃならん」
「少し手間だろうけどね。お隣さんじゃないか。行き先も一緒なのだから、声をかけても罰は当たらないと思うよ」
「考えとく」
どうにもこいつのペースに巻き込まれてしまうと話しづらい。それでも慧乃と話したいこともあったのでここで会えたのは内心嬉しかった。
「ハナがどうしてるか知ってるか?」
尋ねると慧乃はにっこりと微笑んで、自分の事を話すように嬉しそうに話し始めた。
「今朝さっそく日の出前にあの花の所まで行ったみたい。とても朝焼けが綺麗で、花のことを忘れて見入ってしまったそうだよ」
「スタートから躓いたか……」
「みたいだね。ま、しばらくはまたいろいろと迷うだろうさ」
「しばらくねえ。しばらくで済めば良いが、何にせよ、先のことが分からないってのは大変だな」
慧乃は答えをきくと小さく笑った。
「それはそうだ。先のことが分からないと大変だ。――でもね、忘れたらいけないよ。先の見えている人間なんて、一人としていないのさ」
慧乃の言葉にはっと、自分の考えの浅さに気づかされた。
先のこと何て分かりゃしないのだ。十月十日の登山をやり遂げられないかも知れないし、今だって慧乃に崖から突き落とされて死ぬ可能性だってある。
「話は変わるけれど――なんて、こんな風に問いかけて良い質問なのかも分からないけれど、一つ尋ねても良いかな?」
慧乃が白くほっそりとした指を一本ぴんっと立てて尋ねる。
「ああ、構わん」
「そう言ってくれると思ったよ。では尋ねるけれど、君は何処へ向かっているのか、答えは出せたかい?」
そう来たか。
俯いて考える振りをして、慧乃に背を向け遠方の山々を見やる。
「――さあな、さっぱり分からん。分からないからとりあえず、人成山に十月十日の間登り続けてみることにしたよ。精々この十月十日の登山を楽しんでやるさ」
実家から送って貰った一眼レフを鞄から取り出してレンズキャップを外し露出を合わせると、ピントを無限遠から少しだけ手前にずらした所に合わせてシャッターを切る。
カシャンと心地よいシャッター音が山に響いた。
「カメラか。そうだね。君はきっと良い写真を撮るよ」
「どうだろうな。――で、人に尋ねるくらいだからもちろん答えが出たんだろうな? お前は一体何処へ向かっているんだ?」
尋ね返すと慧乃は恥ずかしそうに笑って、質問に答えた。
「私はもう少し迷ってみることにするよ。少なくとも十月と七日の間はね。だから君、これからもよろしく頼むよ」
「なんだそりゃ。ま、いいさ。こちらこそよろしく」
慧乃が笑って右手を差し出してくるので、その笑顔に答えるように、差し出された手を握った。慧乃は一層嬉しそうに笑い、かと思うと鳶色の瞳に大きく握り合った手を映して、意地悪そうに尋ねた。
「握手しても君の呪い、発動しないね。昨日も君は私の手を引いていたけれど、これと言って変わった様子もなかったし」
しまったと慌てて手を振り払ったが、慧乃は既に何か確信を持っているようで、にんまりと笑っていた。
「さて、初めて会ったあの日と今日。何かが変わったとしたら何だろう?」
尋問するように問いかける慧乃の大きく見開いた鳶色の瞳に、間抜けな顔をした男の姿が映し出される。
とても逃げ切れる気がしなくて、言い訳することもなく、素直に答えていた。
「――あのときは下心があったから、たぶん」
「すると今はなかった訳だ。少しばかり残念な気もするけれど、でも出会ったあの日は確かに下心があったと」
「お前があんなに顔を寄せるから悪い――他言は無用だ」
「さてどうしようかな。――それよかこれから登るのだろう? 山頂まで一緒に行こう」
提案を断ることも出来ずに、無言で頷いて慧乃と登山道へと引き返す。
慧乃は機嫌が良いようで、足取り軽く未だぬかるむ登山道を軽快に進んでいく。
後に続いていくと、直ぐに山頂に辿り着いた。
『人成山山頂』と刻まれた文字を仰ぎ見て、慧乃の言葉を思い出す。
人成山は、人が人に成る場所。
「さて、いつぞや話したけれど、人成山は人が人に成る場所なの」
「――ああ、そうだったな」
思考を読まれているのではないかと不安になって一瞬返事が遅れた。でも慧乃はそんなことまるで気にならない風で、続けて話し始めた。
「だけれどね、一人では人に成ることは出来ない。何が必要か、君は分かるかい?」
「なんとなく、だが。たぶん、誰かの力が必要なんだろう」
確認するように答えると、慧乃は微笑んで小さく頷いた。
「そう。人は誰だって一人では人には成れない。誰かに支えられて、助けられて、一緒に悩んだり、迷ったりして、ようやく人に成れるの」
「人に成るのも大変そうだ」
「実を言うとね、私も一ヶ月自分の呪いと向き合ったけれど、結局答えが出せずに迷っていたの。――でも、君と出会えたおかげでもう一歩踏み出す勇気が持てた。ありがとう」
キラキラと輝く鳶色の瞳に真っ直ぐに見据えられてどぎまぎしたが、それでも体面を取り繕ってぶっきらぼうに答えた。
「こちらこそ、どうも」
話は終わりかと思ったが、慧乃は小さく笑って、語りかけてきた。
「私にそっくりな女の人に呪いをかけられたって言っていたね」
「ああ、性格はともかく、見た目だけなら本当にそっくりだった」
慧乃は返答に優しく微笑んで、言葉を口にした。
「もしかしたら、私が君を、呼びに行ったのかも知れないね」
そんな言葉にため息をつきながらも、病院で共に過ごしたあの女の子とを思い返す。一緒に過ごしたはずなのに女の姿はぼやけていてきちんと思い出せない。黒い瞳をしていた気がするが、鳶色だったような気もする。
だから思い出すのはやめて、もう一度小さくため息をつくと、目の前の憎たらしい笑みを浮かべる女に一言、どうしても言っておかねばならない言葉を言ってやった。
「――次からはもっと穏便な方法で頼む」




