一月目 其の四 自分はどこへ向かっているのでしょう⑥
天気予報では一日小雨とのことであったが、人成山の天気予報など当てになるものではなかった。
次第に雨脚は強くなり、降り注ぐ雨が雨合羽を叩いては弾ける。
視界も悪いが、足下の状態が深刻だった。
山頂に近づけば近づくほど舗装が簡易的になる人成山では、山頂付近の登山道は人が通れるようにはなっているものの、足下は基本的に泥道で、たまに勾配のきついところには適当な大きさの岩が転がされている程度だ。
階段として使えと言いたいのだろうが、あまりにも大雑把に置かれた岩の上は晴れた日でも歩きづらく、雨に濡れた岩の表面はよく滑った。
それでも整えた装備のおかげで無事に岩を越えることができ、上から慧乃の手を引き上げて進んでいく。
二人とも登山中は無言であった。
晴れの日の倍以上の時間がかかったと思う。
ようやく山頂入り口の鳥居が見えたときには、久しぶりに疲れで足が震えていた。
そのまま休憩所を通過し、人成山山頂の石碑のある場所まで向かう――
雨の中、誰かが石碑の前で傘を差して待っていた。
大きな藤色の和傘を差したその女性は、大きく腰の曲がった老婆であった。
老婆はこちらに気がつくと、金歯を見せてにやりと気味の悪い笑みを浮かべた。
「ようやくきたのかい。もっと早く来るだろうと思って朝から待ちぼうけだよ」
「あんたこんなとこで何してんだ? 体調崩したってきいたぞ」
尋ねたが、ばあさんは答えなかった。
代わりに、慧乃に向かって顔を向けた。じとりとした視線が慧乃の顔を睨む。
「ちゃんと面倒を見るように言ったはずだがねえ」
「ごめんなさいグランマ。私も、迷っていました。でも――今はとにかく、自分に出来ることをやりたいと思います」
慧乃の答えをきいて、ばあさんは頷いた。
そして傘を持たぬ手をすっと上げると、西の方角を指差す。
「あの子なら向こうの崖の所にいるよ」
「なんで知ってんだ?」
尋ねたが、ばあさんは鼻であしらい、面倒くさそうに言い返してきた。
「さっさと行ってやんなさいな」
何か言ってやろうかと思ったが、急ぎたい気持ちがあるのも事実だった。
慧乃が礼を言うのを見て、仕方なく頭を下げると、慧乃の後に続いて休憩所脇の道を歩いて行く。
「崖があるのか」
「うん。結構景色の綺麗なところでね。私も一度行ったことがあるよ。ただ、ちょっと危ない場所でもあるかな」
「危ないって?」
「崖だからね。柵もきちんと作られているわけではないし」
なんだか嫌な予感がして自然と歩調が早くなる。
慧乃もそれに併せて早歩きで歩き出した。
足を上げるたび泥が跳ねるがそんなこと気にもならなかった。
降りしきる雨の向こうに大きくせり出した岩が見える。
更にその先に、一カ所だけ登山道から外れて突き出した場所があった。
雨合羽のフードを上げて目をこらすと、そこに人影が確認できた。
この雨の中、傘も差さず、雨合羽も着用せず、一人の少女がじっと座っている。
思わず走り出し、その少女に声をかける。
「ハナ」
少女はゆっくりと振り向いた。
振り向いたその顔は、困ったような表情で、それでもうっすらと微笑んでいるようであった。
「お兄ちゃん――それに、お姉ちゃんも」
一体いつ頃からここにいたというのだろうか。
雨で全身ずぶ濡れで、体は小刻みに震えている。
思わずもう一度声をかけようとしたが、それより先に慧乃が飛び出した。
「ハナちゃん! ごめんなさい!」
ハナの元に駆け寄った慧乃が、その濡れた体をぎゅっと抱きしめた。
鳶色の瞳に涙をたたえて、叫ぶように声を出した。
「私、迷ってしまったの。自分がどうして良いのか分からなくて、ハナちゃんにどう接していいのか分からなくて――自分を見失って、自分が何をするべきか分からなくなっていたの。ハナちゃんに会うのが、怖くて、逃げ出してしまったの」
答えるように、ハナが慧乃の背中に手を回して抱きついた。
「わたしもです。自分で自分が何処へ向かっているのか分からなくなっていました。でもお姉ちゃんならきっとわたしの向かう場所を知ってるだろうって思ったんです。でもでも、その場所はどんな場所だろうって。わたしが全然知らない場所だったらどうしようって。不安になって、お姉ちゃんと会うのが怖くなってしまったんです」
慧乃だけではない。ハナもこうして、慧乃と会うことを恐れていた。
お互いにお互いのことを思うあまりに避けてしまう。随分と贅沢な悩みだ。
でもその悩みのせいでハナは山中を彷徨い歩き、悩み事を相談したいという思いと、慧乃と話すのが怖いという思いの間で揺れ動いていた。
「悪かったなハナ。もっとちゃんと、お前の話に耳を傾けてやれたら良かった。そしたらお前の本当の悩みにも気づいてあげられたのに」
謝罪すると、ハナは慧乃から離れて立ち上がり、目の前で首を横に振った。
「謝らないでください。わたしが自分を見失って、どこかへ消え去ってしまいそうになったとき、いつもお兄ちゃんが声をかけてくれたんです。だからお兄ちゃんはわたしの命の恩人です。わたしは今、お兄ちゃんのおかげでここにいるんです」
ほのかに笑って、ありがとうと礼を言う。
ハナは本当に苦しかったはずだ。精一杯悩んだはずだ。
そんな時に力になってやれなかったのに、怒るどころか頭を下げて礼を述べる。
ハナは自分なんかより、ずっとずっと強い人間なのかも知れない。
「本当に、消えてしまおうかと思ったこともありました。でも、結局、迷ってしまってどうすることも出来ませんでした。こんな所まで来ても、それでもまだ悩むんです。こんなことだから、自分が何処へ向かうのかも分からなかったんだと思います」
ハナは崖の向こうを見つめて落ち着いた口調で言葉を紡ぐ。
そんなハナの肩に、慧乃がそっと手を乗せた。
「それでいいの。生き方も自分で決められないのに、死に方は決められると思い込むのはそれこそ傲慢なんだと思う」
「傲慢、だったのかも知れないです」
ハナは慧乃の言葉をかみしめて頷いた。
そんなハナに、慧乃は優しく問いかける。
「さて、ハナちゃんは精一杯悩んで、迷って、苦しんだと思う。きっといろいろききたいこともあるだろうけれど、その前に私から、一つ尋ねても良いかな?」
慧乃の問いかけに、ハナは向き直り、慧乃の鳶色の瞳を真っ直ぐに見据えてはっきりと頷いた。
「はい。何でもきいてください、お姉ちゃん」
その返事を――ハナの意思を確認した慧乃が、短く、幾度となく繰り返してきた問いかけを口にした。
「ハナちゃんは、何処へ向かっているんだい?」
ハナが目を瞑って俯く。
俯いて考えながら、数度深く呼吸をする。
それでもぱっと顔を上げて目を見開いた時には、恥ずかしそうにしながらも、明るく笑うハナの表情があった。
「分かりません」
ハナの答えに、慧乃も、自分も頷く。
それで良い。
自分が何処へ向かうか分からなくても、前に進むことは出来る。
だがハナの答えはそれだけでは終わらなかった。
小さく息を吸い込んで、その続きをゆっくりと形にしていく。
「わたしは帰る場所が分かりません。故郷のことも、家族のことも、学校のことも思い出せません。
――でも、わたしには今、とっても素敵なお姉ちゃんと、お兄ちゃんがいます。だから、帰る場所が分かるまで――ううん、呪いが解けた後も、お二人と一緒にいたいです。それがわたしが今、向かうべき場所、いえ、帰る場所なんです!」
その答えに、慧乃は大きな鳶色の瞳から涙を溢れさせて、ハナの小さな体をぎゅっと抱きしめた。
「うん。一緒にいよう」
「えへへ。ありがとうございます」
ハナは笑って慧乃の体に身を寄せた。
その視線がこちらを向くので、恥ずかしかったが、短く声をかける。
「一緒にいるさ。少なくとも十月と八日の間は」
「君は素直じゃないなあ」
言いながらも慧乃は笑っていた。
「お兄ちゃんは素直じゃないところが素敵な所です」
フォローのつもりだろうか、ハナがそんなことを言ってのけるが、どうにも馬鹿にされているようにしかきこえない。
顔をしかめていると、いつの間にか雨合羽を叩く雨音がきこえなくなっていることに気がついた。
雨はしとしとと細く舞い落ちていて、西の空では、雲の切れ間から溢れた太陽の光が幾重にも連なって、向こうの山々を照らす光の柱となって降り注いでいた。
人成山の天気予報は、全くもって当てにならん。
「綺麗だねえ」
「はい、とても綺麗です」
姉妹は人成山の見せた雄大な景色に見入っていた。
同じように、しばらくその景色を眺めていると、すっかり雨は上がってしまった。
慧乃はタオルを取り出して、びしょ濡れになったハナの体を拭いてあげる。
ハナは恥ずかしそうにしながらもとても嬉しそうで、慧乃にされるがまま体を拭かれている。
「えへへ、お母さんみたいです」
「お母さん、か。ハナちゃんのお母さんはどんな人だったの?」
「あっ!」
慧乃が問いかけると、ハナは慧乃の手を離れて突然走り出した。
帰る場所の手がかりになるようなことをきいたから呪いが発動したのではないかと勘ぐったが、ただハナが何かを見つけてそれに駆け寄っただけであった。
「見てください、お姉ちゃん、お兄ちゃん!」
ハナは登山道の途中にあったせり出した岩の元にしゃがみ込んで、見つけた何かを手のひらで示す。
慧乃と視線を交わしハナの後に続いて岩の元に行くと、そこには二輪の花が咲いていた。
顔を出した太陽の光を受けて輝くそれは、澄んだ空色の花と、優しげな薄桃色の花。
花弁に付いた雨粒をキラキラと輝かせて咲く二輪の花は、今まで見たことのない不思議な花で、とても綺麗だった。
「素敵な花だね。来るときは気がつかなかった」
「ハナは良くこういうの気がつくよな」
「えへへ。見つけるのは得意なんです。この花、とっても綺麗ですね。ずっと見ていたくなります」
ハナは微笑んで、大きく見開いた瞳で二輪の花をじっと見つめる。
「ずっと見てたら良いじゃないか」
何気なく、そんな言葉をかけると、ハナは大きく頷いて自信たっぷりに言い放った。
「はい! そうします! だって、わたしの呪いは、この花を日の出から日の入りまで見つめ続けるまで帰る場所が思い出せない呪いですから!」
ハナの言葉に、慧乃と顔を見合わせて、それからハナの顔をまじまじと見つめる。
「あれ? わたし今何て言いました?」
「「この花を日の出から日の入りまで見つめ続けるまで帰る場所が思い出せない呪いって……」」
慧乃と二人、同じ言葉をかけると、ハナは表情を太陽のように明るくして、ぱっと二輪の花へ視線を向ける。
「この花を、見続ける――。えへへ、素敵な呪いです」
「精一杯悩んだハナちゃんへの、人成山からのご褒美かも知れないね」
ご褒美、か。慧乃らしい考え方と言えばそうかも知れない。
出会ったとき、呪いに何か父親の意思があるんじゃないかと思っただなんて言っていた。
本当にそうだとしたら、ハナのこの呪いにも何処かの誰かの意思があるのかも知れない。
生憎、自分の『十月十日の間人成山に登り続けなければ童貞を卒業できない呪い』には何かの意思が働いているとは思えないが、ハナの呪いにはそんな意思があってもおかしくない気がした。
――でも待てよ?
「何か見つけるのは得意だけど、集中力がないってよく怒られてたんだよな? 日の出から日の入りまで花を見つめ続けるって、ものすごい集中力がいるんじゃないか?」
その一言で、太陽のように輝いていたハナの表情はどんよりと曇り、充ち満ちていたやる気は目に見えて減衰していった。
「こ、こればっかりは、どうやっても駄目駄目だったんです!」




