一月目 其の四 自分はどこへ向かっているのでしょう⑤
雨は強さを増し、木々の葉に降り注いだ雨粒が音を立てて弾ける。
むき出しの土の道はぬかるみ、登山道の脇を水が流れていく。
それでも山に登らなければならない。どうしてだか分からない。でも登らないといけないことだけははっきりと分かった。
いよいよ舗装された道に辿り着き、そこを真っ直ぐに進むと神社の鳥居が見えてきた。
雨で霞む視界の先で、鳥居の側から人が現れた。
誰だろうか? いや、答えは出ていた。
その人物は手にした杖を前に突き出して構えると、雨粒を吹き飛ばすような大きな声を上げて叫んだ。
「ここを通りたければ、この私を倒してからにすることね!」
予想通りの台詞に、安心してほっとため息をつく。
「会いたいと思っていれば会える――だったな」
いつぞやきいた言葉を口にする。
慧乃は頷いて、その言葉を肯定した。
「そんなことも言ったね。君は私に何か用があるのかい?」
「ああ。いくつか、確認したいことがある」
「何でもきいておくれ。でも雨の中立ち話するのもなんだから、少し移動しようか」
慧乃の提案に頷いて、参拝者用の休憩所に立ち寄った。
吹き曝しだが、屋根と椅子は用意されていた。雨合羽のフードを脱いで椅子に腰掛けると、その隣に慧乃が座った。
「会いたいと思っていれば会えるってのは、人成山のルールなのか?」
気になったことを尋ねると、慧乃は白く細い指を下唇に当てて、中空を見上げながらゆっくりと答えた。
「ルール、と言う訳ではないみたい。でも、人と人との出会いは不思議な縁。人成山にはそんな縁の力を強くする何かが働いているような気がするよ」
縁を強くする力、か。
思えば初めて人成山を訪れたときに出会った自分を探す男は、自分の思い描く理想の自分がいくつも現れてしまう呪いだった。
その結果”会いたいと思う相手に出会う自分”が出来上がったわけで、あのとき慧乃はその男の呪いを指して、会いたいと思っていれば会えると言ったのだろう。
だから、何時だって会いたい相手に会えるわけではない。でも、引き合う物を引き合わせる何かが人成山には働いている。そんな気がする、程度の話なのだろうが、ここは何が起こってもおかしくない呪いの山だ。不思議な力が存在していても、今更驚くようなことでもない。
だとしたら――
「会いたくない相手に会わない力も働くんだろうか?」
「不思議なことをきくねえ」
慧乃は指先で髪の先をいじりながらまた中空を見つめ考え始める。
だが、質問に答えは出せなかったようだ。
「どうだろう。あるような気もするし、ないような気もするね。ところできき返すようで悪いのだけれど、君の本当にききたい質問はそれではないだろう?」
慧乃の鳶色の瞳が真直ぐにこちらの瞳を見つめる。
全てを見透かしているような透き通った瞳に一瞬たじろぐ。
それでも、どうしても確かめたいことがあった。どうしてもきいておかねばならないことがあった。
一つ大きく息を吐いて呼吸を整えて、慧乃の大きな鳶色の瞳を真っ直ぐに見据えると、その質問を口にした。
「お前は何処へ向かっているんだ?」
質問に、慧乃はゆっくりと息を吐き出して、目を瞑る。
ほんの少しの間そうして俯いて何かを考えていたが、再び目を開けた時には真っ直ぐだった鳶色の瞳はほころんで、微笑んでいるようにも見えた。
「何処へ向かっているのだろうね」
小さく呟く慧乃の言葉に、ようやっと確信が持てた。
何のことはない。自分だけでなく、慧乃もこうして、ハナの呪い――ハナの悩みを自分の物にしてしまっていたのだ。
「それでハナを避けてたのか?」
「うーん、そう言われると何とも言い返し辛いね」
慧乃は呟くと、はにかんで視線を逸らした。
少し照れたような表情を浮かべるそいつは、自分の知っている六宮慧乃とは別人のようで、どこにでもいる普通の女の子みたいだった。
「君のその顔は何か失礼なことを考えている時の顔だね」
むくれた様子を見せた慧乃に、小さく笑って返した。
「別に、どこにでもいる普通の女の子みたいだなーって思っただけだ」
「やっぱり失礼なことを考えていたね。君は私をなんだと思っているんだい。私は正真正銘の普通の女の子のつもりだよ。どこにでもはいないけどね」
「どこにでもはいないのか」
演技めいて笑って答える慧乃に、こちらも笑って尋ね返した。
慧乃は柔らかな視線を向けて、その質問に答える。
「それはそうだよ。自分は自分一人きりだからね」
自分は自分一人きり。
余所を探したって自分は見つかりっこない。自分がいるのは、何時だって今、ここ、だけだ。
胸に手を当てると、微かな鼓動が手のひらに伝わった。自分はここにいる。ここにいるはずなのに、その自分がなかなかつかめない。
もやもやと考えていると、慧乃がそっと口を開いて優しい口調で話を続けた。
「自分はたった一人。だからこそ自分はわかりにくい。自分を見つけることは工夫次第で出来るの。今、ここにいる自分こそ本当の自分だって、誰しもいつかそのことには気がついてしまう。でもね、その自分がどんな自分なのか、それを知るのはなかなか難しい。一生かかっても、自分を知ることが出来ない人だっている」
自分を見つけることは出来ても、自分を知ることは難しい。
現に自分自身、自分を見つけたつもりになっていたが、こうして自分の事が分からずに思い悩んでいる。
「それでも、自分を知らないでいるわけにもいかないだろう」
尋ねると慧乃は頷いた。
「そうなのだけれどね」
頷いて、目を瞑って考え込む。
やがてゆっくりと目を開けて、鳶色の瞳を伏せて静かに言葉を紡いでいく。
「――私は、ハナちゃんの力になれるのかなって、ずっと考えてた。ハナちゃんは私よりずっとしっかりした子だよ。だから、きっと自分が何処へ向かっているか答えを出せる。
でもね。もし私の言葉でハナちゃんが自分の向かう先を決めた時、その方向が本当にハナちゃんの向かいたかった場所なのかなって考えてしまうんだ。私が余計なことを言ったせいで、ハナちゃんが本当に目指したかった場所とは別の場所に向かってしまったらどうしようって。
ハナちゃんが呪いを解いて、帰る場所を思い出したときに、その場所が本当にハナちゃんの望んだ場所なのかって――――いくら悩んでも、答えが出せなかった」
消え入りそうになりながらも、自分の悩みを精一杯にはき出した慧乃。
誰しも一人では悩めない。
答えを出せるのは世界に自分ただ一人だけでも、誰にも相談せず一人で悩み続けることは出来ない。
自分が慧乃やマスターに悩みを打ち明けたように。ハナが慧乃やばあさんに助けを求めたように。
慧乃だって普通の女の子だ。
誰にも相談せず、悩み続けることはできっこなかった。
それでも慧乃は人成山では皆の相談役で、誰よりもしっかりしていて、それ故に誰にも相談できなかった。
でも、一人で悩んだことなんて、他人にしてみれば些細なことだったりする。
自分の悩みを、慧乃が「君は何処へ向かっているんだい?」なんて憎たらしく笑って返したように、慧乃の悩みだってこっちにとってはつまらんことだ。
だから精々今まで向けられた憎たらしい笑顔に答えるように、嫌らしい笑みを浮かべて鼻で笑ってやった。
「馬鹿馬鹿しい」
「あ、鼻で笑ったね。しかも馬鹿って――」
慧乃は鳶色の瞳を涙で湿らせて、小さく文句を述べながらもその言葉に微笑んだ。
「だってそうだろう。自分が何処へ向かっているかも分からない奴が、他人が何処へ向かっているかなんて分かるわけないじゃないか」
ぶっきらぼうに言い捨てたその言葉で、慧乃は顔を上げ、大きな鳶色の瞳をぱっと見開くと灰色の雲が浮かぶ空を見上げた。
「そうだね。君の言う通りかも知れない」
慧乃の悩みは消え去ってはいないが、雨雲を見上げるその表情は晴れやかで、抱え込んでいた積み荷を少しばかりは降ろせたようだった。
慧乃は立ち上がり、呟くように、されどこちらにきこえるように、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
「誰しも気がついたときにはこの世に生まれていて、生まれてしまったからには何処かへ向かわなければいけない。
誰しも人生の終着点は死だけれども、誰だって死を目指して生きたくはない。
だとしたら、私たちは一体、何処を目指して進んだら良いのかな?」
慧乃の質問は自分自身に言いきかせているようにも、こちらに尋ねているようにもきこえた。
何処かへ向かわなくてはならないが、何処へ向かって良いのか分からない。
その悩みは、人生そのものの悩みだったのか。
自分が出していたあやふやな答えは、この問いの答えになるのだろうか?
いや、そんな風に悩まないことこそが、自分の出した答えだった。
立ち上がり、胸を張ってその答えを口にする。
「自分が今、ここにいる、この自分しかいないのだったら、自分が向かうべき場所だって今、ここのはずだ。だから、何時だって胸を張って、今、この場所が自分の向かいたかった場所だって言えるように、やりたいことをやったらいい」
答えをきいた慧乃は、さぞかし可笑しそうに笑って、にんまりと意地悪そうな笑みを浮かべると、鳶色の大きな瞳に。柄にもなく堂々とした表情を浮かべた男の顔を映した。
「それでも行き詰まることもあれば、やりたいことが分からなくなって悩むこともあるよ」
慧乃のその問いかけに答えるように、鳶色の瞳を真っ直ぐに見つめ返し、口を開く。
「――きいた話だが、悩みをなくすなんて仏様でも出来ないから、悩みをなくせるなんて思い込むのは傲慢だ。出来たとしても自分を知るための悩みに出会えたのだから、それをなくしてしまうなんてもったいない、だそうだ」
「何だいそれは。何処でそんな話をきいたんだい」
「さて何処だっけ」
とぼけると慧乃は訝しげな視線を送り、それから表情を緩めて一つ息をすっと吐き出して言葉を発する。
「そんなことを言う人間に限って、人一倍悩みに振り回されるのさ」
「そのようだ。でも今は、悩む前にやるべきことをやろう」
言って、慧乃の細い手首を摑んだ。抵抗はない。そのまま手を引いて、休憩所の外へと飛び出す。
「――ハナの所へ行こう」
「うん!」
慧乃は大きく頷いた。
悩みは消えないが、迷いはなくなった。
次は、ハナの迷いをなくす手伝いをする番だ――
「ところで、ハナちゃんの居場所は分かっているのだろうね」
手を引かれて尋ねられたので、立ち止まって振り返る。
「分からんが、じっとしてたって見つからないだろ」
答えに慧乃はため息をつく。
「お前こそ、知らないのか?」
「残念だけれど分からないね」
「さっきは直ぐに居場所が出てきたのに……」
「何の話?」
闇雲に探して見つけられるだろうか。
そういえば中層によったときハナの家を訪ねていなかった。
この空模様だし家にいたかも知れない。考えていると、慧乃が袖を引くので顔を上げた。
「君は、何をしに人成山に来たんだい?」
問いかけで、向かうべき場所は決まった。
会いたいと思っていれば会える、人成山の持つ不思議な力。
それを信じて、今向かうべき場所に向かえば良い。
「当然、山に登りに来たんだ」
顔を上げて真っ直ぐに山頂のある方向を睨むと、慧乃と二人登山道を進んだ。




