一月目 其の四 自分はどこへ向かっているのでしょう④
翌日。登山三日目の天気は予報通り雨であった。
灰色の雲が空を覆い、か細い雨がしとしとと降り注ぐ。
晴れの日にはその雄大な姿を見せつける人成山も今日ばかりは白く霞んでいる。
十月十日続けて登山する以上、雨を避けることは出来ない。むしろこの程度の霧雨で様子を見られるのならば好都合だ。
用意していた雨合羽を着込み、雨用の登山靴をはいて今日も人成山を目指す。
入り口の鳥居を越えてしばらくは、石畳で綺麗に舗装された道が続く。
雨で滑りやすくはなっているものの難なくその道を進んでいく。多少視界が悪いが登山に支障はない。
足下をよく確かめるようにしながら歩いたおかげで、いつもより余分に時間がかかりはしたものの、無事中層地区への分岐点まで辿り着いた。
慣れない雨天の登山だったため少しばかり疲れた。ここから先は今まで歩いてきた道よりもずっと歩きにくいだろうし、いったん休憩をとることにした。
中層地区に入り大通り沿いの喫茶店『尾根』へと足を向ける。
「あれ、まだだったか」
店の入り口の重厚な木の扉には、『CLOSE』の札がかかっていた。
時計を確認するが、いつもなら開いている時間である。
まあ営業時間を明記していない喫茶店だし、いつもマスター一人で営業しているわけだから不定期に休むこともあるのだろう。
仕方なく他の場所を探すことにして、その場を立ち去ろうと――
「悪いね。用事があってちょっと出てたんだ。直ぐ開けるよ」
背後からの声に振り返ると、マスターが鍵を手にした手を振って微笑みかけていた。
「個人経営は大変だな」
「こういうときはね。もしよかったらうちでバイトするかい?」
「前向きに検討しとく」
言ったものの、毎日山頂まで登山しなければならない都合上、あまり長い時間拘束される仕事には就けないのだ。コーヒーに対して知見があるわけでもないし料理もからっきしだ。かといって接客が得意かときかれると微妙な訳で、自分でも飲食店で働くのには向いていないとつくづく思う。
「さあ、どうぞ。カウンター席で待っててくれ。直ぐに準備するよ」
マスターに示されるがまま店内に入り、雨合羽を脱いでハンガーに掛けて貰うと、カウンターの椅子を一つ引いてそこに腰掛けた。
当然だが店に他の客はいない。
マスターは水の入ったコップだけカウンターに置くと、準備のためカウンター裏へ消えてしまった。
何となく居心地が悪いものの、こういう静かな空間も良い。
一口水を飲んで、ぼんやりと店内を見渡す。
そうしていると、以前来たときは気がつかなかった書画に視線が向かった。
カウンター正面に飾られた、モダンな店内に似つかない古風な書画には、落ち着いた書体で『知己』と記されていた。
知己。――己、すなわち自分を知る、か。
どうにもハナの呪い、通しては自分の悩みを現している言葉に感じてしまう。
自分のことを知る。自分の向かっている先を知る。自分のやりたいことを知る――。
分かっているはずの自分なのに、大概不透明であやふやで、自分とは何かと尋ねられてもはっきりとした答えを出せない。
自分が自分を知らないせいで迷い、知らない自分が自分を知ろうとしてまた迷う。
自分を知る、何て口にするのは簡単だけれども、実際に知ることはとてつもなく難しい。
ふと慧乃が「知ってしまった苦しみ」なんて話をしてことを思い出す。
自分を知ろうとして、知ってしまった自分が自分の理想とかけ離れていたら、そのときはまた悩むだろう。
自分ってのははたはた面倒な存在だ。でも自分から離れることは出来なくて、知らなければ迷い、知ってしまえば迷う――
思考が堂々巡りに陥り『自分』という言葉が何なのかあやふやになっていく。
「随分考え込んでいるようだねえ」
突然かけられた言葉にはっと顔を上げるが、そこにはいつものにやけ顔のむかつく女の顔はなくて、声の主はカウンター越しにこちらへ柔らかな視線を投げていた。
「ま、悩むのは大いに結構。良く悩んで、それでたまにコーヒーでも注文してくれれば、僕としては言うことはないね」
「アイスコーヒー」
「はいよ」
短く注文だけして、ため息をつく。
良く悩め、とはどういうことだ。慧乃もいつぞやそんなことを言っていた気がする。
悩みなんて嫌なイメージしかないし、出来ることなら悩みたくはない。
「悩むよねえ。僕も悩んだ。それこそさっきの君みたいに周りが見えなくなるくらいずっと悩んだものさ」
豆を挽きながらマスターは昔を思いだすかのように話し始めた。
思い出話がききたいわけじゃない。黙っていたら延々と続くだろうと思い、マスターが次の言葉を発する前に一つ尋ねた。
「で、悩みはなくなったのか?」
知りたいのは悩みをなくす方法だ。マスターが呪いを既に解いているというのなら、その方法を知っているはずだ。だから当然その質問は肯定されるだろうと思っていたのに、マスターの答えはそれを裏切るものだった。
「まさか、悩みがなくなるわけないじゃないか」
「はあ? だって、あんたは人成山の呪いを解いてここにいるんだろう? だとしたらその悩みはなくなったはずだろう? 違うのか?」
「違うよ。大いに違う」
カウンターにコースターと、出来たてのアイスコーヒーが置かれた。
じっとそのコーヒーを見つめていると、マスターは話しを続けた。
「呪いを解くって事は、悩みをなくすことだと思うだろう?」
「そうじゃないのか」
「僕自信そう考えていたんだけど、どうも違うらしい。なのにどうしたら悩みをなくすことが出来るのか、なんて尋ねたものだから怒られてしまってね」
マスターが呪いを解くのに、慧乃が何らかのアドバイスをしていたはずだ。
つまりマスターに対して怒ったのは慧乃で間違いないだろう。
だからその内容をどうしても知りたくなった。どうしたら悩みをなくせるのか、という問いに対しての、慧乃の答えがそこにあるはずだ。
「なんて、怒られたんだ?」
小さく、マスターに尋ねる。
対するマスターは、短く、はっきりとした声で答えた。
「もったいないってさ」
「なんだって?」
「もったいない、さ。もったいないから悩みはなくすなって」
「もったいないって、悩みがか? 腐るほど山積みにされててこれ以上いっぺんたりとも欲しくないってのに」
「だよね。――だからさ、腐らないように適度に取り出して、たまに悩んであげたらいいんじゃないかって僕は考えたんだけどね。それがあってるかどうかは分からないよ。何しろ僕はこうして、人成山に残って悩み続けているわけだからね」
「悩み続けてる、のか。大変だな、あんたも」
「そうでもないさ。悩みをなくせないと分かってしまったら、随分気が軽くなったよ」
「そんなもんか?」
怪訝になって尋ねたが、マスターは笑顔を崩さず答えた。
「曰く、悩みをなくすなんて仏様でも出来ないのだから、悩みをなくせるなんて思い込むのは傲慢だ。もし出来たとしても折角自分を知るための悩みに出会えたのだから、それをなくしてしまうなんてもったいない――だそうだ。解釈は君に任せるよ。何しろ受け売りだからね。僕がとやかく語れる話じゃない」
「じゃあどうしたらいいんだ、何てきいたら、どうしたら良いと思うんだい、なんて返ってくるんだろうな」
「分かってるじゃないか。全くその通り返ってきた」
マスターが苦笑いすると、自然に表情が緩んだ。
結局、自分の事は自分でなんとかするほかない。
それでも行き詰まって悩むようならきっと慧乃は相談に乗ってくれて、「君はどう思うんだい?」なんて言って笑うのだろう。
それに慧乃の他にも、こうして一緒に悩んでくれる知人もいる。
だから全く解決の糸口の見えない途方もない悩みを抱えていても、こうして笑っていられるのだろう。
もう一度顔を上げて『知己』の字を見つめる。
自分は何時だってここにいる。余所に自分を見つけ出そうとせず、今ここにいる自分を真っ直ぐに見つめてやったら、何か分かるのだろうか?
自分が何処へ向かっているのか、その答えを摑むことが出来るのだろうか?
「随分気に入ったようだね」
「どちらかというと気に入らん。これ、慧乃が書いたのか?」
「いや、これは僕が呪いを解いたときにグランマがくれたんだ」
慧乃がグランマとか呼んでいたが、どうも人成山では皆そう呼ぶようだ。
「そういやあのばあさんも世話好きぽかったな」
「あの人は皆のグランマだからね。気に入ったなら持って行ってもいいよ。その方があの人も喜ぶだろうし」
「遠慮しとく。そこに飾っといてくれた方がありがたい。見たくないときは見なくて済むからな」
「一理あるね」
マスターは笑って、半分ほど減っていたコップに水をつぎ足す。
「ばあさんなら、ハナの相談にもうまいこと答えてくれるだろうか」
「ハナちゃんかい? 慧乃さんの妹さんだよね。確かにあの子も悩んでいたようだけれど、慧乃さんが一緒なら問題ないだろう」
ハナもここの店に訪れていたようだ。
初めて来たとき慧乃が今度妹を紹介しに来るとか約束していたし、言葉通り紹介しに店を訪れたのだろう。
「その慧乃がどうもハナと会えていないみたいなんだ。タイミングが悪いというか何というか」
「へえ、あんなに仲良さそうだったのに。何かあったのかな? 君は何か知ってるのかい?」
「知らんから不安なんじゃないか。でも昨日ばあさんの所に相談に行ったし、大丈夫だろ」
「あれ? 昨日かい? 昨日はグランマは家にいなかったはずだけど」
「どういうことだ?」
マスターの言葉に思わず尋ねた。
ばあさんは確か、一人じゃ山を下れなくなって山頂に住み込んでいるはずだ。それが家にいなかったとは何事だろうか。
「知らないのかい? グランマは体調を崩して、丁度昨日まで中層の診療所にいたんだよ。でも山頂に戻るってきかなくて、結局昨日の夕方に何人かに担がれて山頂に戻ったそうだよ」
「その話は確かなのか?」
念を押して尋ねると、マスターは確信を持って頷いた。
「もちろん。なんせ丁度グランマの見舞いに行ってきた所だからね。実はそのせいで店を閉じてたんだ」
勢いよく席を立った。
マスターの言うとおりならば、ハナは昨日ばあさんに会えていない。
きっとうまくいくと思い込んでいた。
だいぶ思い詰めていたが、それでもハナなら自分で答えを出せると信じていた。
だがそれは、ハナ一人では難しい。
自分の帰る場所が分からず、呪いの解き方も分からない。何処かへ行けば呪いの解き方が分かる気がするが、何処へ行けば良いのか分からない。
それがハナを悩ませ、苦しめてきた呪い。
それでもハナが答えを出せると思っていたのは、あいつが――慧乃が相談にのっているだろうと考えていたからだ。
昨日、ハナに対して「困ってるなら相談したら良い」と言ったときのハナの表情を思い出す。そっと俯いて、いつもの元気な笑顔に陰りが見えた――
たぶんハナは慧乃に悩みを相談できずにいたのだろう。
だからハナはばあさんの元を訪ねたのだ。
でも、そのばあさんが不在だったとしたら――?
何処かへ行かなければならないけれど、何処へ行けば良いのか分からない。
その悩みはハナを悶々とさせ、じわじわと苦しめるだろう。
確かに苦しいが、その苦しみは致命的ではない。
だが、苦しみに囚われて本当に困った時。自分一人では抱えきれない悩みに堪えきれなくなった時。そんな時に誰にも相談できなかったとしたら――一番信頼している相手に、相談にのってもらえなかったら――
その苦しみは、きっと――
「悪い、用が出来た」
財布から適当に蘊を取り出してカウンターに置くと、荷物を担ぎ、かけてあった雨合羽を羽織る。
「ハナちゃんの所かい?」
「いや、慧乃の所だ」
まず会わなくてはならないのは慧乃だ。
店を出ようと扉に手をかけると、マスターが背中に声をかけた。
「どこにいるのか分かるのかい?」
「――分からんが、じっとしてたって見つからないだろ」
首だけ振り返って答えると、マスターは意地悪そうな笑みを浮かべて告げた。
「山腹の神社の鳥居の脇の所にいるはずだよ」
「そうか、ありがと」
礼を言って扉を開け放つと勢いよく外に出る――が、引き返してマスターに一つ尋ねた。
「なんで知ってんだ?」
「企業秘密」
マスターはしかめた顔で答えると、追い払うように手を振った。
「急いでいるんだろう。さっさと行きなよ」
「分かったよ、行ってくる」
なんだか闇を見たような気がするが深く詮索せず、中層地区を離れた。




