第98話:帳簿の空白
地下大空洞での緊迫した戦闘から一夜が明け、王都の地上には静かな朝の光が差し込んでいた。
王都東区。
朝の喧騒が広がる通りを抜け、俺とガルド、リィネの三人は、職人たちの工房が集まる一角へと足を踏み入れていた。
木槌の音。金属を打ち合わせる音。炉から立ち上る煙と、熱せられた鉄の匂い。
商店の並ぶ表通りとは違い、ここでは朝から大勢の職人が仕事に追われている。
「この辺りで間違いないのか?」
隣を歩くガルドが、周囲の看板に目を向けた。
「ああ。リィネの手帳にあった補修資材の納入先と、工房の所在を照らし合わせた。目指すのは、この先だ」
俺は通りの奥を指さした。
地下大空洞で見つかった、開口部に後付けされた金属部材。
そこに刻まれていた『双頭の槌』の刻印が、地上での調査を始める手掛かりになった。
だが、あの部材がこの工房で作られたと決まったわけではない。
刻印が本物なのか。工房が同じ加工を手掛けているのか。そして、仮にここで製造されたものだとして、どのような経路をたどって地下へ持ち込まれたのか。
確かめるべきことは、まだいくつも残っている。
それに、地下装置の状態が今も落ち着いている保証はない。
昨夜の時点では、魔力の急激な上昇こそ収まっていた。だが、濃い魔力は残り、装置が安全な状態に戻ったかどうかも確認できていない。
地上の記録を追う必要はある。けれど、地下の状況が変わる前に、再び調査へ戻れるようにしておかなければならなかった。
「クロノ様、あちらです」
リィネが足を止めた。
角を曲がった先にある石造りの工房。その入口には、二つの頭を持つ槌を組み合わせた『双頭の槌』の紋章看板が掲げられていた。看板の下には、ギルド加盟工房であることを示す小さな札もある。
「……ここが『双頭の槌』か」
俺たちは顔を見合わせ、工房の敷居をまたいだ。
◆
「いらっしゃい。注文なら受付で――」
奥から出てきたのは、腕の太いドワーフの中年男性だった。
袖をまくった作業着には細かな金属粉が付着し、腰には工具がいくつも吊るされている。職人らしい鋭い目が、俺たち三人を順番に見た。
「今日は注文ではなく、少し確認したいことがあって来ました」
リィネが一歩前に出て、商人としての丁寧な挨拶とともに深く頭を下げる。
「南西旧水路の補修資材について、お話を伺いたいのです。こちらの工房が関わっていたと聞きまして」
「南西旧水路?ああ、あの補修事業か。うちもいくつか部材を納めたが……何か問題でもあったのか?」
親方の表情に、わずかな警戒が浮かんだ。
俺はその反応を見逃さなかった。だが、ここで不用意に疑いを向けるつもりはない。
「問題があったと決まったわけではありません。ある部材について、製造元を確認したいのです」
ガルドが懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
地下で調べた後付け部材の形状と、計測したネジ山のピッチ、削り出しの特徴を精緻に描き留めたスケッチだ。現物そのものではない。
「この形状に見覚えはあるか?ネジ山の間隔に特徴があってな。接合部には、こういう加工痕が残っていた」
親方は紙を受け取り、眉を寄せた。
しばらく黙って図を眺めていたが、やがて顔を上げた。
「……流量調整用の継手か。似たものなら、うちでも作っている」
「この加工もか?」
「ああ。特注品だな。ネジの規格も、接合部の加工も、注文に合わせて仕上げる。もっとも、図だけじゃ、うちが作った品そのものかまでは分からんがな」
親方は紙を机に置き、腕を組んだ。
「それで、その継手がどうしたんだ?」
「地下の古代装置に、後から取り付けられた部材がありました。その特徴が、こちらの工房で扱う品に似ていたのです」
俺は、分かっていることだけを伝えた。
装置の異常や戦闘の顛末については、まだ話す必要はない。工房が事件に関わっていると決まったわけでもないのだから。
「地下の装置……?」
親方は怪訝そうに目を細めたが、すぐに首を横に振った。
「悪いが、そこまでは知らん。うちが作るのは注文された品だ。どこで、何に使われるかは、注文主から聞かされなければ分からんこともある」
「では、この形状の継手を、南西旧水路の補修事業向けに製造したことはありますか?」
リィネが尋ねた。
「ある。あの事業向けに特注の継手をまとめて出した。注文書も出荷の記録も残っているはずだ」
親方は奥の棚へ向かい、何冊かの重い帳簿を取り出した。
「少し待ってな。こういう記録は、適当に扱うわけにはいかん」
帳簿を机に広げ、太い指先で項目を追っていく。
やがて親方の手が、一つの記載の上で止まった。
「……これだ。南西旧水路の補修事業向け。特注継手、十二個」
俺たちは机を囲み、記載を確認した。
出荷日と納入先。品目。そして数量。
少なくとも、工房側の出荷帳簿には十二個を出荷した記録が残っている。
「この十二個について、受領した側の記録も確認できますか?」
リィネが尋ねると、親方は帳簿の挟み込みから一枚の古びた書類を取り出した。
「受領証の控えが戻ってきている。納入した品の確認をしてもらったら、控えをこちらにも残す決まりだからな」
親方は書類を机の上に置いた。
俺は、その手元をじっと見つめた。
ここから先は、工房が何を作ったかだけでは分からない。出荷された品が、実際にどこへ運ばれ、どのように受け取られたのか。その記録を確かめる必要がある。
同時に、頭の片隅では地下のことが引っかかっていた。
この調査で何かが分かれば、装置の改造に使われた部材の流通経路をたどれるかもしれない。だが、帳簿を一つずつ追う間にも、地下の状態が変わっていないとは限らない。
必要な記録を見つけたら、次へ進む。今はそれを徹底するしかなかった。
◆
「……あったぞ」
親方が指し示したのは、一枚の受領証だった。
注文番号も出荷日も、工房側の出荷帳簿と一致している。間違いなく同一の納入分を示す記録だった。
俺は記載を上から順に追った。そして、数量の欄で目が止まった。
「……十個?」
思わず声が漏れた。
出荷帳簿には十二個。だが、受領証の控えには十個と記されている。
俺は二つの記録を見比べた。
「親方。こちらの出荷帳簿では十二個となっていますが、受領証には十個とあります。差額の二個について、未納や追納の記録は残っていますか?」
俺の問いに、親方は太い腕を組み、苦々しい顔で頷いた。
「ああ……それだ。うちの帳簿上は間違いなく十二個出荷した。だが、受領証が『十個』で戻ってきたから、当時は運送業者に確認を入れたんだよ。『残りの二個は現場の都合で後日納入になる』って話だったから、うちでは追納保留として処理していたんだが……」
親方は別のファイルを開き、追納記録のページを繰った。
だが、指先が不自然に止まる。
「……おかしいな。追納分の納品完了通知も、返品やキャンセルの記録も届いていねぇ。そのまま保留の棚に埋もれていた……」
ガルドが厳しい目で帳簿を見つめた。
「つまり、工房側は『現場が追納待ちにしている』と思い込み、処理を保留したままになっていたってことか」
「……そういうことになる。うちとしては十二個分の材料と手間を出しているし、現場からの連絡待ちだと思っていたんだが……追納がどうなったかまで追っていなかったのは、こちらの不手際だな」
親方は受領証を見つめたまま、低く唸った。
出荷記録は十二個。
受領証に残された数量は十個。
そして、追納待ちとして処理が途絶えたままの二個。
レオンがこの場にいたら、真っ先に身を乗り出して「横流しだ!」と声を上げていただろう。
ガルドもまた、厳しい目で受領証を見つめていた。
「出荷した後、現場で追納扱いにされるまでのどこかで二個が抜かれたか……あるいは追納の手続きそのものが、どこかで立ち消えになったのかもしれん」
「可能性の一つではあります。ただ、現時点では断定できません」
リィネが静かに口を挟んだ。
「出荷時の数え間違い、運搬中の破損、別便での追加納入の記録漏れ、あるいは現場での精算処理の遅れ。ほかにも、追納処理が途絶えている理由は考えられます」
「そうだな。手続きが途絶えていることと、誰かが盗んだことは同じじゃない」
俺は二つの記録から目を離さずに言った。
この段階で、誰かを犯人と決めつけることはできない。
そもそも、地下で見つかった部材が、この十二個のうちの一つだという確証すらないのだ。
ただし、無視できない一致はある。
地下の後付け部材に刻まれていた『双頭の槌』の刻印。
その工房が、南西旧水路の補修事業向けに特注継手を製造していた事実。
そして、同一納入分の記録に残された、追納処理の途絶。
別々の事実が、少しずつ一つの線を形作り始めていた。
「親方。この受領証について、もう少し詳しく教えていただけますか。受領者の名前や、当時の納入を担当した業者の記録は残っていますか?」
俺が尋ねると、親方は帳簿をめくりながら答えた。
「受領者の名前なら、ここにある。現場の資材管理担当者の署名だ。だが、実際に運んだ運送業者が誰だったかまでは、この帳簿だけじゃ分からんな。搬入を手配した業者の記録を探す必要がある」
「その名前と記録を、確認させていただくことはできますか?」
「構わん。ただし、ここにあるのはうちの記録だ。公的事業側が現場でどう処理しているかまでは、俺には分からんぞ」
「もちろんです。こちらも、確認できた事実と推測は分けて考えています」
リィネが丁寧に答えた。
親方は別の帳簿を探し始め、俺は記録に書かれた受領者の名前を頭に刻み込んだ。
次に調べるべきなのは、この人物と、当時の搬入ルートだ。
現場で誰が品を受け取り、どういう理由で二個を未納として処理したのか。その後、追納の話がどうなったのか。
そこを確かめなければ、地下の部材とのつながりも見えてこない。
だが、地上の記録を追い続けるだけでは、地下の装置の状態を確かめることはできない。
次の調査先を絞り込めたら、地下へ戻る準備も進める。いつまでも地上に留まるわけにはいかなかった。
◆
工房を出た俺たちは、通りの端で足を止めた。
職人たちの槌音は、相変わらず響いている。
その音を背に、ガルドが腕を組んだ。
「十二個出荷した記録がある。だが、受領証には十個。確かに食い違ってはいるが……これだけじゃ、二個がどこへ行ったのかは分からんな」
「ああ。途中で失われたのか、そもそも出荷記録と受領記録のどちらかが正しくないのか。それもまだ分からない」
俺は工房の看板を振り返った。
『双頭の槌』。
この工房が事件の黒幕だとは限らない。むしろ、今のところ分かっているのは、ここで作られた可能性のある部材と、二つの記録に食い違いがあるということだけだ。
だが、その二つは次の調査へ進むための十分な手掛かりになる。
「次は、受領証に記された担当者と、当時の搬入を手配した業者を追う。公的事業側の記録も確認して、どこで数字が食い違ったのかを調べよう」
「承知しました。工房側の記録だけでなく、受け取り側の記録も必要ですね」
リィネが頷いた。
「それに、地下の部材が本当にこの納入分と関係しているかも、別に確かめなきゃならん」
ガルドの言葉に、俺も頷く。
まだ、点と点が完全につながったわけではない。
刻印が一致したからといって、同じ取引の品だとは限らない。数量が二個食い違っているからといって、その二個が地下へ運ばれたとも限らない。
必要なのは、次の記録と、次の証言だ。
そして、地下の装置が今も同じ状態にあると決めつけないこと。
(……調べるべきことは多い。だが、時間に余裕があると思うな)
俺は息を吐き、王都の通りへと視線を戻した。
地下で見つかった物証は、地上の工房へと俺たちを導いた。
そして今、工房の帳簿に残された二個の食い違いが、新たな疑問を突きつけている。
出荷されたはずの十二個。
受け取ったと記録された十個。
残る二個は、どこへ行ったのか。
その答えを知る者は、まだ別の場所にいる。
「行こう。次は、受け取り側を調べる」
俺たちは、次なる調査先へ向けて歩き出した。
帳簿の空白を埋めるために。
そして、その先に地下の部材へとつながる道があるのかを確かめるために。




