第8話:初めての「奢り」
数日後の夕方。
薄暗くなり始めた裏通りの物陰で、銀髪の『情報屋の少女』は、一人佇んでいた。
彼女は腕を組み、通りを行き交う人々の足音に耳を澄ませながら、内心で冷めた計算を巡らせていた。
(……来ないわね。まあ、当たり前か)
先日、地下水路の現場で出会った『クロノ・ヴェール』のリーダーを名乗る少年――クロノ。
去り際、彼は「次は美味いものでも奢るよ!」と屈託のない笑顔で言い残していった。
(『奢る』……ね。取引でもないのに、タダで飯を食べさせるなんて意味が分からない。どうせ調子のいい口約束か、何か裏の目的があって私を釣ろうとしただけ……)
他人の親愛や約束を信じたことなど一度もない。彼女の世界では、すべての行動に利益と対価が存在する。対価のない優しさなど、後から高額な請求を突きつけるための罠でしかないのだ。
あいつらも同じだ。そう思って路地を去ろうとした、その時だった。
「おーい! 情報屋の君ー!」
あっけらかんとした、能天気な声が裏通りに響いた。
振り返ると、黒い私服を纏ったクロノが、ぶんぶんと手を振りながら走ってくるのが見えた。後ろには、すました顔のレオンハルトと、少し遠慮がちに微笑むリゼリアもついてきている。
「よかった、今日もこの辺にいたんだな! ほら、この前の『奢り』の約束、今日行こうぜ!」
少女は思わず、まばたきを繰り返した。
「……本気で言ってたの?」
「え? そりゃそうだろ。約束したじゃん」
心底不思議そうに首をかしげるクロノ。
少女は眉をひそめ、全身の警戒レベルを一段引き上げた。
(……嘘でしょ。本当に迎えに来たの……? ……なにか狙いがあるの? 私からさらに裏通りの情報を買い叩く気……?)
脳内で様々な疑念が渦巻くが、断る理由を探す前に、クロノは「よし、行こう!」と当然のように歩き出していた。
◇
クロノが案内したのは、中央通りの路地裏にある、庶民的な小さな大衆食堂だった。
香ばしい肉の焼ける匂いと、大衆の活気が満ちている店内に、四人は奥の丸テーブルへと通された。
少女は椅子に腰を下ろしながらも、一刻も気を緩めなかった。
(ここからよ。料理が運ばれてきたタイミングか、それとも食べ終わった後か……いつ私に『対価』を要求してくるか……)
やがて、テーブルの上に大きな木製の大皿が運ばれてきた。
じゅうじゅうと音を立てる特製ダレの焼き肉と、ふかふかの丸パン、温かいスープ。
「うわぁ、美味そう! 冷めないうちに食おうぜ!」
クロノが嬉しそうにパンをちぎり、肉を挟んで口へ運ぶ。
少女は手元に置かれた料理を見つめたまま、微動だにしなかった。
「……何が目的?」
静かな、探るような問い。
クロノは肉をモグモグと噛み砕き、飲み込んでから首を傾げた。
「目的? 特にないけど?」
「……ない?」
「うん。この前、奢るって言っただろ? だから奢りに来ただけ」
拍子抜けするほどあっさりとした返答。
少女は呆然と口をつぐんだ。
(そんなわけない……。お金も情報も要求しないなんて……取引として成立してないじゃない……)
パニックになりかける少女の横で、沈黙を守っていたレオンハルトが、おもむろに深く頷いた。
「……なるほど。あえて何一つ要求せず、無償の恩義を与えることで相手の心理的負債を極限まで高める……。さすがはボス、恐ろしいほどに高度な人心掌握術にございます」
レオンの目が、いかがわしい感心に輝いていた。
クロノは即座にジト目を向けた。
「いや、マジでただ肉が食いたかっただけだから」
「……!」
速攻で否定され、レオンは「そ、そうでございますか……」と一瞬で素に戻り、大人しくパンをかじり始めた。
クロノは料理に舌鼓を打ちながら、丸テーブルの端にある皿を指差した。
「レオン、それ取って」
「ハッ、こちらにございます」
テキパキと動くレオンを見ながら、少女がぽつりと冷めた声を挟んだ。
「……レオンハルト、でしょ?」
クロノは「え?」とまばたきをした。
「知ってるわよ。情報屋なんだから、そのくらい調べてるわ」
少女が胸を張るわけでもなく淡々と言うと、クロノはパッと目を輝かせた。
「おお! やっぱすげえな、君! じゃあリゼのことも知ってる?」
「……リゼリア・ノクティスでしょ。それと、あなたはクロノ・アルヴァース。『クロノ・ヴェール』のボス」
「すっげぇぇぇ!! 本物の情報屋じゃん!!」
素直に大興奮するクロノを見て、少女は拍子抜けしたように溜め息をついた。情報屋として自分の素性を知られているのに、警戒するどころか手放しで感心しているのだ。
隣に座るリゼリアが、そっと肉の皿を少女の方へ押しやってきた。
「……このお肉、すごく柔らかくて美味しいですよ。冷めちゃう前に、どうぞ」
リゼリアの瞳には、利用しようとする意図もなく、ただ「美味しいものを共有したい」という素直な優しさだけがあった。
「……っ」
少女は戸惑いながらも、恐る恐るパンをちぎり、小さく肉を挟んで口へと運んだ。
じゅわっと広がる濃厚な肉汁と、香ばしいタレの味。
(……美味しい……)
路地裏で拾った硬いパンや、粗末な干し肉しか食べたことのなかった彼女にとって、それは食べたことのないほどの馳走だった。
夢中で肉をかじる少女を見て、クロノがスープを飲みながら何気なく尋ねた。
「そういえばさ。ずっと『情報屋』って呼んでるけど、君の名前ってなんていうんだ?」
少女の動く手が、ピタリと止まった。
一瞬の、短い沈黙。
彼女は皿から目を逸らさないまま、静かに答えた。
「……必要ないでしょ」
「そう?」
「情報屋でいいわよ」
「そっか!」
クロノは追及もせず、可哀想がるような同情の目を向けることもなく、それ以上深く踏み込まなかった。
ただ「そっか」の一言であっさりと受け流し、再び自分のパンにかぶりついたのだった。。
◇
食事は終始、賑やかなまま終わった。
クロノが全員分の代金を支払って店を出ると、外はすっかり夜の帳が降りていた。
少女は最後まで、何も要求されなかった。
情報も、協力も、将来の約束すらも。
(……本当に、最後まで何も取られなかった……)
彼女の人生観において、「対価のない授与」など存在しないはずだった。
なのに、この少年は「約束したから」というだけの理由で高価な食事を振る舞い、そのまま「美味かったな!」と笑っている。
損得の法則が通用しない不気味さと、理解不能な感覚。
「じゃあな、情報屋の君! 夜道は気をつけて帰れよ!」
手を振って去ろうとするクロノたちの背中。
少女は、振り返りもせずに小さく呟いた。
「……また、奢ってよ」
クロノは足を止め、振り返った。
「おう! 今度な!」
そう言って、クロノは嬉しそうに笑った。
去っていく三人組の背中を見送りながら、少女は一人呟く。
「……ほんと、変な奴ら」
少女はそう呟いて、夜の路地へと消えていった。
その後、裏通りを歩く彼女の視線は、ときどき黒い服の少年たちを探していた。
この作品を読まれている読者様、次回から、PM5:30とAM6:30の投稿予定です。




