第70話:闇に潜む者
「……誰か、来る」
シィの低く冷ややかな呟きが落ちた瞬間、静まり返っていた石門が重い擦れ音を立てて内側へ引いた。
暗闇の中から現れたのは、黒い外套を深く纏った一人の男だった。その顔面は、不気味な紋様が彫り込まれた異様な仮面で覆われている。
男は俺たちの姿を捉えるや否や、言葉を発することなく右手を掲げた。石門の周囲に刻まれた古い溝へ、赤黒い魔力が一気に流れ込む。
「……右壁! 術式が来る!」
シィの鋭い叫びと同時に、壁の溝から赤黒い魔力の奔流が溢れ出し、狭い回廊を津波のように呑み込もうと迫った。
「下がれっ!」
バルドが反射的に一歩踏み出している、分厚い大剣を斜めに構えて身体を滑り込ませた。
大剣の幅広の身を盾代わりにし、頭を低く下げて身を縮める。次の瞬間、赤黒い閃光と熱風がバルドの巨躯を打ち据えた。大剣の表面でバチバチと不気味な火花が散り、熱気が俺たちの肌を焼く。
バルドは両足で石畳を固く踏みしめ、大剣の角度をわずかに変えた。受けた魔力の奔流が大剣の面に沿って滑り、左へと逸れていく。
だが、敵もただ攻撃を受け止めて終わる相手ではなかった。
男は魔力の奔流を受け流したバルドの姿を見るや、すぐさま左手を近くの石壁へ押し当てた。
次の瞬間、足元に氷の魔法陣を展開しかけていたリゼリアの直下から、黒い魔力の棘が突如として突き出した。
リゼリアは咄嗟に後方へ地を蹴り、間一髪でその不意打ちを回避する。
男がその隙に態勢を立て直そうと身を引いた、まさにその一瞬だった。
「……左! 術式の流れが切れた!」
シィの冷徹な声が響くのと同時に、バルドがわずかに身体を横へずらした。
バルドの背後に潜んでいたレオンと、一瞬だけ視線が交錯する。
言葉は一切なかった。
レオンはそれだけで意図を察し、低い姿勢のまま弾かれたように走り出した。
男は驚愕に目を見開き、咄嗟に壁の防衛術式を再起動させようと腕を伸ばす。
「……仮面」
後方から、ミリスの静かな声が飛んだ。
「……あそこに魔力が集中してる。術式の核……!」
男が腕を振り下ろすより速く、俺は夢中で手を伸ばした。
足元に落ちた暗がりから一筋の影の触手が伸び、男の靴底をほんの一瞬だけ引き留める。
ほんのコンマ数秒の遅れ。
そこへ踏み込んだレオンの長剣が閃いた。男は顔を背けて間一髪で直撃を交わしたが、長剣の切っ先が、不気味な仮面の側面をかすめた。
バキンッ!
乾いた音を立てて仮面が割れ、砕けた破片が石畳へ飛び散った。
「……愚かな虫どもが……っ!」
露わになった男の素顔は、血走った目で俺たちを激しく睨みつけていた。男は懐から取り出した黒い小瓶を力任せに石畳へ叩きつける。
ポンッ!
不気味な破裂音と共に濃密な黒煙が一瞬にして回廊を満たした。
「……くそっ、『大いなる導き』の巡りを阻むことなどできぬ……! 我が『導師』の紡ぐ計画は、すでに動いているのだ……!」
男は一転して迷いのない足取りで反転すると、灯りのない暗闇の中へと駆け込んでいった。一度も振り返ることもなく、まるで長年住み慣れた地下の構造を知り尽くしているかのような無駄のない動きで、黒煙の奥へ姿を消していく。
レオンが長剣を構え直して煙の中へ飛び込もうとしたが、バルドがその肩をガシリと掴んで引き留めた。
「待て、レオン! 深追いするな。相手の領域だ、何が仕掛けられてるか分からん」
悔しがるレオンの傍らで、ミリスが静かに歩み寄り、石畳に落ちた仮面の破片と、消えかかった魔術の残滓を魔導灯で照らした。
シィは影の中に滑り込み、石門の奥から新たな敵が現れないか静かに索敵を続けている。リゼリアも壁際に身を寄せ、荒い息を整えながら残留魔力を警戒していた。
俺はその光景を呆然と見つめていた。
いまの動き……声なんて、ほとんどなかった。
シィの合図でバルドが受け流し、相手の反撃を避けたリゼリアの横から、視線ひとつでレオンが踏み出す。ミリスの助言と俺の影が、一瞬の隙を完璧に繋いだ。
誰かが命令したわけじゃない。なのに、みんなが互いの間合いと呼吸を理解して、最善の手を重ね合っていた。
(俺が指示なんて出さなくても……みんな、前とは比べものにならないくらい頼もしいよ)
素直な感銘が胸を満たしかけた、その直後だった。
(……待てよ。『大いなる導き』……『導師』……?)
男が捨て台詞として吐き捨てていった言葉が、頭の中で何度も何度も反響する。
偶然……? いや、偶然で片付けるには無理がある。
紋章の形や、あの石門に刻まれていた言葉だけじゃない。あの言葉も、あの呼び方も……前世の俺が、あの痛々しいノートの中に何度も何度も書き殴っていた設定そのものだ。
(な……なんだよ、これ……。なんで……なんで俺のノートの言葉を、あいつらが使ってるんだ……!?)
背筋をゾワリと駆け上がる冷や汗が、止まらなかった。
「……まさか」
思わず漏れ出た呟きに、仮面の破片を調べていたミリスや、剣を収めたレオンたちが一斉に振り返った。
「ボス? どうかなさいました?」
「……えっ!? あ、いや! 何でもない! 何でもないよ!」
慌てて両手を振って誤魔化す俺の顔を、みんなが不思議そうに見つめている。
仲間への頼もしさと、じわじわと侵食してくる前世の黒歴史への恐怖。その二つの感情に挟まれながら、俺はゴクリと冷や汗を呑み込んだ。




