第64話:介入と救出
王都東区の裏通り。夕暮れ時の日陰の路地に、少女は腰掛けていた。
自身の身体よりも二回りも大きな、使い古された灰色のフード付き外套に身を包み、膝の上には小さな木彫りの動物を置いている。
ナイフの刃先を静かに動かしながら、少女は外套のフードの奥から路地の入口を密かに観察していた。
三人。
さっきから、身なりの整った男たちが一定の間隔を空け、路地の周りをさりげなく往復している。情報を買いに来る客の目つきではない。
一人目が通り過ぎ、二人目が同じ場所を視線で追い、三人目は少女ではなく周囲の退路を確認している。
(……客じゃない)
少女は木彫りを削る手を止めた。
焦る素振りは見せず、ゆっくりと立ち上がる。少女はすぐには振り返らなかった。そのまま人通りの多い大通りへ出て、露店の間を抜け出していく。
一つ、二つ、三つ。
店を曲がるたびに、チラリと後ろを歩く人間の姿を確認した。追ってくる男の姿はない。
そこでようやく、少女は細い路地へ滑り込んだ。
しばらく走る。
足音は聞こえない。
少女はさらに角を二度曲がり、古い荷車の陰で静かに足を止めた。呼吸を整え、じっと耳を澄ます。
……何も聞こえない。
(……撒いた?)
そう思って顔を上げた瞬間――路地の出口に、あの男が一人、静かに立っていた。
(……早い。この路地に詳しい)
少女の手の中に嫌な汗が滲む。相手は適当に追っているのではない。この路地裏の構造を理解した上で、出口を潰しにかかっていた。
少女は即座に反転し、細い通路へ駆け込んだ。
荷車を横切り、染物屋の裏手を抜け、自分しか知らない崩れかけた壁の隙間をすり抜ける。少女の足は、自分の庭である裏通りを迷いなく駆け抜けた。
しかし、最後の抜け道を抜けた先にも、すでに別の男が立ちふさがり、逆側の路地からも足音が迫る。
挟まれた。自分の庭であったはずの路地裏で、完全に逃げ道を塞がれた。
◆
そのころ俺たちは、南市場の資材街で、並べられた露店の売り場を覗き込んでいた。
「これじゃない?」
「……違う。純度が低い。導線が痛む」
ミリスが首を振り、露店に並ぶ金具を注意深く検分する。
俺は隣の売り場の金具を指差した。
「じゃあ、こっちは?」
「……それは高すぎる」
「えっ、じゃあその間のやつは?」
「お前、商人みてぇな聞き方するな」
バルドが呆れたように頭を掻いた。
リゼリアが買い出し袋の口を整えながら笑う。
「ふふ、リィネが言っていたでしょう? 同じ品でも店によって値段が違うから気をつけなさいって」
「そうだった! さすがリィネだな!」
俺は感心して頷き、パンと手を叩いた。
「そうだ! 前に教えてもらった木箱、すごく良かったってあの子に報告しに行こうよ!」
「え? またあの路地裏の情報屋に行くの?」
リゼリアが呆れたように眉をひそめると、後ろで腕を組んでいたレオンが、ふっと口元に猛々しい笑みを浮かべた。
「ハッ! 買い取った情報の成果を報告する……それこそが、我ら『クロノ・ヴェール』の誠実! 絆を深める暗躍の儀式でございます!」
「レオン、あなたは少し黙ってて」
リゼリアが即座に切り捨てるのを横目に、俺たちは南市場の角を曲がり、あの静かな裏通りへと足を踏み入れた。
◆
「あれ? あの子だ!」
路地の奥で、少女が男たちに挟み撃ちにされていた。
男の一人が俺たちを睨みつける。
「関係のない者は離れていろ」
少女が目を見開いた。
「……あなたたち、どうしてここに」
「困ってるなら助ける!」
「こっち!」
俺は返事を待たずに走り出した。
少女は一瞬だけその背中を見つめ、それから自分の足で走り出した。
「追え!」
男たちの足音が追ってくる。先頭を走るバルドが鋭い視線を路地へ巡らせた。
「そっちは追いつかれる! 左だ!」
「左……? あそこは――」
少女が言いかけた瞬間、バルドの指し示した先には崩れかけた木枠で塞がれた狭い隙間があった。普通の大人なら通れないが、少女には見覚えがあった。
「――通れる!」
少女が叫び、真っ先にその隙間へ滑り込んだ。俺たちもそれに続く。
追っ手が木枠を叩き割って迫ろうとした瞬間、ミリスがカバンから小さな筒を取り出し、背後へ投げつけた。
ポン、と軽い音が弾け、濃密な灰色の煙幕が路地一杯に広がる。
「目くらまし……!?」
だが、一人の男が猛然と煙幕を突っ切って飛び出してきた。
「長くは持たないわ!」
リゼリアが指先を向け、石畳の上に薄い氷の膜を展開する。男は体勢を崩して派手に転倒した。
さらに別の角から回り込もうとした二人目の男の前に、レオンが立ちふさがる。
「ここは私が!」
「レオン、早く!」
シャキン、と長剣の柄に手をかけたレオンが凄まじい威圧感で男の足を止め、俺の声に応じて素早く反転してきた。
レオンがこちらへ駆け戻ってきた。背後の足音が、少しずつ遠ざかっていく。
◆
バルドの案内に従い、俺たちは南市場の端にある使われていない古い荷置き用の物置へ飛び込んだ。
重い木枠の扉を閉める。
物置の中は真っ暗だった。
バルドが口元に指を一本立て、「静かに」と無言の合図を送る。
外の石畳を、カツン、カツンと重い足音が近づいてきた。
少女も、俺たちも、呼吸すら殺してじっと耐える。
暗闇の中、焦った少女が一歩物置の奥へ下がろうとした瞬間――
カタン。
足元の木箱が、微かな音を立てた。
全員の身体が固まる。
扉の向こうで、足音がピタリと止まった。
誰も動かない。
しばらくして――ガチャリ。
扉の取っ手が、ゆっくりと下りた。
少女が息を呑む。
扉が、わずかに開く。外から差し込んだ夕暮れの光が、石畳を細く照らした。
俺は思わず息を止めた。男の影が、扉の隙間から滑り込んでくる。
「……誰かいるのか?」
その低い声に、少女の身体が強張った。
その瞬間、ミリスが俺の袖をそっと引き、足元を指差した。古びた木箱がいくつか積まれている。
俺はそっと頷き、バルドを見た。
「……バルド」
「任せろ」
バルドが足元の一番手前にある木箱を、爪先でほんの少し蹴った。
ガタッ。
扉の外の男が身構える。
「……鼠か?」
男が扉をさらに押し開けようとした、その時。
バルドが反対側にあった大きめの木箱を、力任せに奥へと倒した。
ガシャーン!
盛大な破壊音が物置の暗がりで響き渡る。
「っ!?」
男が反射的に奥の暗がりへと視線を奪われた。その隙に、隙間風が扉を押し戻す。
「……古い物置か。崩れたな」
男はしばらく中を覗き込んでいたが、やがて興味を失ったように扉を閉めた。
足音が、遠くへ離れていく。
誰も口を開かなかった。
しばらくして、バルドが小さく息を吐く。
「……行ったな」
物置の中に、ようやく安堵の空気が広がった。
「ふぅー! 撒けたな! 大丈夫?」
俺が尋ねると、少女は肩で息をしながら、ゆっくりと首を振った。
「……うん」
少女は黙ったまま、俺を見つめていた。
「……どうして助けたの」
「困ってたから」
「……それだけ?」
「うん」
俺はニッと笑った。
「じゃあ、俺たちは帰るね! またな!」
俺はそう言って、扉へ向かった。
バルドたちも立ち上がり、俺の後に続いた。
バタン。
静寂。
少女は閉じた扉を見つめた。
「……変なの」




