第54話:安酒場のベテラン
王都西区。
中央区の華やかな街並みとは打って変わり、この区画はどこか雑然とした雰囲気が漂っていた。
古い石畳の隙間には泥が詰まり、露店からは肉の焼ける煙と安酒の匂いが立ち上っている。
「……ボス、本当に私まで付いてきて良かったのですか?」
「うん。レオンにも一緒に来てほしかったんだ。でも、バルドさんと話すのは俺一人でいいや」
「なるほど……! まずはボス自らが単独で接触されるのですな!」
「いや、単に俺が話してみたいだけだって。とにかく、レオンは店の外で待っててくれよ」
「ハッ! 何かあれば直ちに破門突入いたします!」
「暴れるなって」
俺は苦笑いしながら、情報屋少女に教えられた安酒場『赤銅亭』の重い木扉を押し開けた。
店内に一歩足を踏み入れると、ムッと熱い酒の匂いと荒っぽい声が押し寄せてきた。
若い冒険者たちがテーブルを叩いて大笑いし、巨漢の男たちが腕相撲に興じている。そんな喧騒に満ちた店内の最奥、薄暗いカウンターの片隅。
そこに、目的の男が一人で座っていた。
三十代半ば。派手な装飾のない、使い込まれた革の鎧。
手元には安価な麦酒の入った木製のジョッキ。大酒を喰らうわけでもなく、薄い酒をチビチビと呑みながら、静かな瞳で店内の様子を観察していた。
◆
俺がカウンターへ近づくと、となりのテーブルにいた若い冒険者グループの声が耳に入ってきた。
「おい見ろよ、奥に『撤退のバルド』がいるぜ」
「またかよ。先週の依頼も、森の奥で魔物の気配がしたとか言って、即座に引き返したんだろ?」
「相変わらずの腰抜けだな。あんな奴と組んだら、手に入るはずの素材も持ち帰れねぇよ」
嘲笑混じりの声が響く。だが、バルドと呼ばれた男はピクリとも眉を動かさず、ジョッキを口に運ぶだけだった。
「……でもよ」
若い冒険者の一人が、ふと声を潜めた。
「アイツがリーダーやった依頼、一人も大怪我してないんだろ?」
「たまたまだろ、たまたま。戦う前に逃げてんだから怪我するわけねぇよ」
俺は二人の会話を聞きながら、バルドの背中をじっと見つめた。
派手な戦果もない。仲間から英雄扱いされているわけでもない。けれど、情報屋の言っていた通り、この男の周りだけはどこか違う空気が流れている気がした。
俺は迷うことなく歩み寄り、バルドの隣の丸椅子に腰掛けた。
「おじさん、バルドさんだろ?」
◆
バルドは片目をわずかに開き、面倒くさそうに俺を見下ろした。
「……誰だ、お前」
「俺はクロノ。情報屋から聞いたんだ。『引くべき時にちゃんと引ける冒険者』がいるってさ」
俺がストレートに言うと、バルドは呆れたように短く鼻で笑った。
「ハッ、情報屋のガキもいい加減な噂を流すもんだな。さっきの会話、聞こえてただろ? 俺は冒険者街じゃ有名な『腰抜け』だ。英雄ごっこがしたいなら、あっちの威勢のいい兄ちゃんたちに頼みな」
バルドはシッシッと手で追い払うような仕草をした。
けれど、俺はニカッと笑って首を振った。
「いや、英雄ごっこじゃなくてさ。……俺たち、この前森で迷ったんだよ」
「……あ?」
「四人もいたのに、道がさっぱり分からなくなってさ。レオンなんて、剣で枝を切って目印にしようとしたんだけど……」
「ほう。で、どうなった」
「ただ枝を散らかしただけだった」
「……クッ」
バルドの口元が、わずかに引きつった。
「四人もいて、森の浅い場所で迷子か。……ド素人だな」
「うん、完全にド素人だった。だからさ、怪我一つせずにちゃんと引く場所を知ってるおじさんの方があっちの強そうなやつらより、ずっと凄ぇと思って来たんだ」
俺が素直な瞳でまっすぐ見つめ返すと、バルドは手にしていたジョッキをテーブルに置き、改めて俺の顔を正面から見つめ直した。
「……本気で言ってるのか、お前」
「本気だよ。だって、生きて帰ってこなきゃ何も始まらないだろ?」
バルドはしばらく無言のまま、俺の表情を探るように見つめていた。
やがて、彼は深々と溜め息をつき、革鎧の胸元を緩めた。
「……まあ、道に迷った時に無理に進まなかったなら、判断としては間違っちゃねぇな」
「あ、やっぱり? 俺が高台に登って街道を探そうって言ったんだ」
「……そいつは正解だ。分からなくなったら足を止める。それが出来ねぇ奴から死んでいく」
バルドの声から、先ほどまでの投げやりな気配が消えていた。
「冒険者ってのはな、危険な場所に突っ込んで魔物を倒すだけが仕事じゃねぇんだよ。……依頼を引き受けて、無事に生きて帰って、初めて終わりだ。それが理解できてねぇ奴が多すぎる」
ぽつりと語られた言葉には、長年現場で生き残ってきた男だけが持つ、重く静かな説得力があった。
俺は満足そうに頷いた。やっぱり、この人は本物だ。
「……で? お前らは何者なんだ」
バルドが酒を一口飲みながら尋ねてきた。
「クロノ・ヴェールっていうんだ」
「……聞いたことねえな。どこの商会だ?」
「商会じゃないよ。俺たちが作ってる組織」
「…………」
バルドは呆れたように俺を見つめ、フッと小さく笑いを漏らした。
「……変なガキだな」
「よく言われる」
バルドは空になったジョッキを眺め、少しだけ間を置いた。
「まあ……話くらいなら聞いてやる。ただし、条件がある」
「条件?」
「次に来る時は、迷った森で何をしてたのか、最初から全部話せ」
「え?」
「四人もいて迷子になった話、ちょっと気になるんでな」
「……そこ?」
バルドは初めて、ハッキリと口元を緩めて笑った。
「次は全員で来な」
武骨なベテラン冒険者の小さな申し出に、俺はニッと笑って頷くのだった。




