第41話:燃え尽きた少年
朝、目を覚ますと。
鳥のさえずりと、カーテンの隙間から差し込む柔らかい朝日が俺を迎えてくれた。
「……ふわぁぁ」
大きく欠伸をして、ベッドの上で身体を伸ばす。
どこも痛くない。地面は揺れていないし、青紫色の狂乱魔力が天井から降ってくることもない。
あまりにも平和で、あたたかで、静かな朝だった。
「クロノ、起きたのかい? ほら、顔を洗って朝ご飯においで」
「あ、うん。おはよう、母さん」
階下へ降りると、香ばしい焼き立てのパンとスープの匂いが鼻腔をくすぐった。
食卓の向かいでは、父親が羊皮紙の帳簿をめくりながら焼き立てのパンを口に運んでいる。
「クロノ、体調はもういいのか? 昨夜は王都の地脈が急に乱れて大騒ぎだったからな。お前が途中で気分が悪くなったと聞いて心配したぞ」
「うん、もうすっかり平気だよ。ごめんなさい、心配かけて」
「ははは、いいんだよ。人混みと地脈の騒ぎで酔ってしまったんだろう。子供は元気が一番だ。さて、今日も商会の帳簿付けを手伝ってもらうぞ」
「はい!」
笑顔で答える。
昨夜、王都全域を呑み込もうとしていた大樹の根の暴走。
あれを解決したあと、俺たちは何事もなかったかのように馬車でアルヴァース商会へと戻り、俺は「人酔いと疲れで気分が悪くなった」ということにしてベッドへ直行したのだ。
街の誰も、俺たちが王都を救ったなんて知らない。
それでいい。むしろそれがいい。影のヒーローってのは、いつだって人知れず去るものなのだから。
◆
朝食を終え、俺は父さんの執務室で商会の数字と向き合っていた。
「クロノ、この南区からの仕入れ伝票の合計と、先月分の売上表の照合を頼めるか? 少々複雑だから、ゆっくりでいいぞ」
「はーい」
羽ペンを手に取り、数字の列に目を走らせる。
この世界の11歳向けの算術や簡単な帳簿付けなんて、ぶっちゃけ遊びみたいなものだ。
サラサラサラ……。
ものの十分ほどで計算を終わらせ、数値を綺麗に揃えて整理した。
「父さん、できたよ」
「ん? ああ、下書きが終わったのか。どれどれ……」
父さんが羊皮紙を受け取り、目を通す。
そして、次の瞬間には目を丸くしていた。
「……え? もう終わったのか? しかも計算の狂いが一切ない……。おいおい、昨日教えたばかりの複式記入の応用だぞ……?」
「えへへ、なんかコツが分かったらスラスラ書けちゃって」
「す、凄まじいな……。うちの息子は天才かもしれないぞ……」
頭を撫で回され、誇らしげな父さんの顔を見る。
以前の俺なら、「よし、もっと商会の手伝をして評価を上げよう!」と張り切っていたはずだった。
だけど――。
(……ふぅ)
胸の奥に落ちた小さな欠伸を、俺は父さんに悟られないようにそっと飲み込んだ。
確かに褒められるのは嬉しい。
でも、何だろう。この、あっけなさすぎる感じは。
手応えがないというか、スッと消化試合が終わってしまったような、妙な物足りなさ。
「よしクロノ、今日の分の手伝いはこれで十分だ! あとは外で友達と遊んでおいで!」
「あ……うん。ありがとう、父さん」
俺は執務室をあとにした。
◆
通りへ出ると、王都の街並みはいつもと変わらぬ活気に満ちていた。
昨夜、不気味に上下へ撓んでいた石畳は綺麗に整えられ、割れていた高級店舗の窓ガラスもすでに新しいものへと差し替えられている。
中央広場へ足を運んでみれば、巨大な魔導噴水塔が気持ちよさそうに澄んだ水柱を吹き上げていた。
街ゆく人々は笑顔で立ち話し、子供たちは元気に路地裏を駆け抜けていく。
地脈の暴走は止まった。
王都は、いつもの日常を取り戻している。
(……平和だ)
ぽかぽかと暖かい太陽の光を浴びながら、俺は石畳の縁石に腰掛けた。
平和だ。最高だ。誰も死なず、街も壊れず、俺の日常も守られた。
件着落。完璧なハッピーエンドじゃないか。
……。
……。
「…………暇だな」
ぽつりと、本音が口から漏れた。
なんだろう、この感覚。
ほんの少し前まで、俺たちは北境のノードを駆け巡り、変態魔導技師の仕掛けを解除し、地下大空洞で巨大な大樹の根と対峙していたのだ。
息もつかせぬ緊張感。一瞬の判断が生死を分けるスリル。
そして何より――俺がボスとして指示を出し、レオンとリゼがそれに応えて完璧に動いてくれる、あの瞬間の背筋がゾクゾクするような感覚。
あれが、たまらなく楽しかったのだ。
それに比べて、今の日常はどうだ。
朝起きて、ご飯を食べて、簡単な算術をして、街をブラブラする。
……平和すぎる。平和すぎて、退屈死しそうだ。
「……あいつら、何してんだろ」
俺は立ち上がり、足の向くままに街道を歩き始めた。
◆
まずはヴァルハイト家の屋敷の裏手へ向かった。
そこでは、同い年の幼馴染――レオンハルトが、木剣を手に一人で汗を流していた。
ブンッ! ブンッ! と空気を引き裂く凄まじい風切り音。
昨夜の激闘を経たからか、彼の剣筋は以前よりも一皮剥け、一層鋭さを増しているように見えた。
「よっ、レオン」
「……! クロノ様!」
俺が声をかけると、レオンは即座に木剣を収め、汗を拭いながら深々と頭を下げた。
「お身体の具合はいかがですか? 昨夜は気分を悪くされていたと聞き、心配しておりました」
「あー、うん、もうすっかり平気。……っていうかさ、レオン」
「はい」
「なんか……最近、暇じゃない?」
俺が尋ねると、レオンは少し意外そうに首をかしげた。
「暇、ですか? いえ、私は昨夜の戦いで、まだまだ己の未熟さを痛感いたしましたので……さらなる高みを目指し、日課の鍛錬に励んでおります。一刻も早く、クロノ様のお役に立てる剣士となるために」
「あ、そう……真面目だな、お前は」
ストイックすぎる親友の返答に、俺は苦笑いするしかなかった。
次に、ノクティス公爵家の敷地近くの図書室へ向かった。
大きな窓際の席で、リゼリアが厚い魔法書を何冊も積み上げ、真剣な目付きで羊皮紙に数式を書き走らせていた。
「やあ、リゼ」
「……クロノ? なに、人の顔を見て開口一番に『暇そうだね』みたいな顔をするのはやめてもらえる?」
「顔に出てる? いやさ、リゼも大仕事が終わって、なんか退屈してないかなーって」
俺がとなりの椅子に腰掛けると、リゼリアは呆れたように大きなため息をついた。
「退屈なわけないでしょ! あの大樹の根で使った『逆位相・流路解放』の理論、もっと深く解析して論文にまとめなきゃいけないのよ! あなたが適当に思いついた閃きを、ちゃんとした魔法論理として証明するのは私の仕事なんだから!」
「あ、ハイ。お邪魔しました……」
勉強熱心な天才少女に突っ放され、俺は肩を落として図書室をあとにした。
……二人とも、自分の日常(鍛錬や研究)に没頭している。
退屈して、手持ち無沙汰でウズウズしているのは――どうやら俺だけのようだった。
◆
すっかり日が傾き、街が茜色に染まっていく。
俺はあてもなく街道を歩いていた。
商会の跡取りとして勉強する。
平和に暮らす。
それが悪いわけじゃない。前世の平凡な高校生だった俺が、ずっと望んでいたはずの穏やかな生活なのだから。
なのに――胸の奥が、何かが足りないと叫んでいる。
(……俺、何やってんだろ)
ふと、気づけば足が勝手に知っている道を選んでいた。
王都の外れ。人通りの途絶えた路地裏を抜け、見慣れた草むらをかき分けた先。
そこに、ポツンと佇む小さな建物があった。
古びたボロ倉庫。
昨夜の大事件の最中は一度も立ち寄らなかった、俺たちの「原点」。
ギィィ……と建て付けの悪い木扉を押し開ける。
隙間から差し込む夕日が、舞い上がるホコリの粒子をキラキラと照らし出した。
中には、何も変わらない光景があった。
手作りの不恰好な木製机。
レオンがわざわざ持ってきてくれた、少し豪華な椅子。
壁に歪んで貼られた、黒い布の旗。
そして――机の上に乱雑に重ねられた、何枚もの紙きれ。
俺は引き寄せられるように机に近づき、一枚の紙を手に取った。
そこには、下手くそな文字でびっしりと書かれていた。
『組織名:クロノ・ヴェール』
『目的:闇の中から世界を覆い、歴史を紡ぐ』
『幹部構造:七星……』
前世の記憶を取り戻したばかりの頃、夢中になって書き殴った「闇の組織ごっこ」の設定用紙。
「……ふっ」
思わず、こぼれた笑い。
商会の勉強をして、平和に暮らす。
それも悪くはない。
でも――俺が本当に夢中になっていたのは、こっちだった。
紙きれを大事そうに胸に抱え、俺は薄暗い倉庫の中で、ニヤリと口角を上げた。
「……そうだ」
「俺……これやってたんだ」
夕闇がボロ倉庫を包み込んでいく中、胸の奥で眠っていた熱い火種が、パチッと静かに跳ねた。




