四十九話 望み
久しぶりにとても整ったものを見た。
キラキラと輝いているだけじゃなくて、何だか見ているだけで胸の奥がじんわり温かくなるような、そんなそれは、改めて見てみてもやっぱりこの場所には全く似つかわしくなくって。
だから、だから██は態とらしく声を張ってみせた。
「いいの、コレ?本当に、要らないの?」
珍しいのはそれだけじゃなかった。
普段居もしない、もうずっと長い間一人で過ごしていた、一生誰も訪れないと思っていたこの場所に、多分二度とこんな事は起きないんだろうな、と考えながら、ポツンとそこに蹲る彼女は居た。
昔、一回だけ師と仰いでいた男に切ってもらった、整えてもらった髪型を自分で真似て、短く揃えている。自分の事もある筈なのに、似合ってるとは思うよ、なんてどこか他人事のような感想を抱きつつ。それでも本心では、自分がそうであるから長い方がよく似合っている、しっくり来るだろうよ、なんて思いながら。
「こんなに鮮やかなものだよ?大切にしてきたモノじゃないの?」
屈んで、視線の高さを合わせようとするのに、彼女は膝の間に顔を埋めたまんま、指通りの良いサラサラの髪が顔を隠すのに一役買っているように見えて、何だかちょっとだけ不公平に似たものを感じる。
変なの、此処にはキミとボクしかいないっていうのにね。
「本当に、要らないの?」
小さく、小さく頭が横に揺れる。
「置いて行っちゃっていいもの?」
頷く。
「後悔、しない?」
膝を抱える指に、力が込められる。
「大切なモノじゃ、ないの?」
横に揺れる。
「こんなに綺麗なのに、勿体無いとか思わないの?」
頷く。
「じゃぁさ、」
揺れる。
「どうしてこんなになるまで大事に抱え込んでたのさ?」
疑問を投げ掛けてみる。
それはただ反応を示すだけじゃ到底答えようのない、答えられるモノではない質問で。分かった上でそんなのを投げてやるボクは、ちょっとだけ性格が悪いのかもしれないけど、彼女よりは十分にマシな気がする。気がする、だけかもしれないけども。
「ほら、答えて?」
膝を抱える、彼女のその手をやや強引に掴んで、無理やりその掌の上に、託されたそれを乗せてやる。乗せて、握り込ませる。
ギュゥと、形が変化する。元の形が崩れてしまって、それでも損なわれる事は絶対にない、キラキラとした何かである事実は何も、何も変わることはなくって。
ボクが持っているよりもずっと、彼女が持っている方がそれは綺麗に見える。
「ダメだよ、そうやって直ぐに要らないって見限っちゃうの、無かったことにしようと手放そうとするの、キミの悪い癖だよ。そんなの、絶対ダメなんだから。」
お説教くさいかなって、少しだけ心配して。でも、伝えたい事に嘘偽りは全くなくって。無かった事に、本当は全部してほしくないんだけど、でもそれが出来るぐらい彼女の心はもう強くはなくって。
ずっと、ずっと頑張ってきた心は、何だかもう見てられなくなるぐらいすっかりボロボロになってしまっていて、外観を保つだけで十分に無理を重ねていて。埋まらない穴を一時埋めることが出来たとしても、元がボロボロだから直ぐに全部留まらせる事が出来ずに溢れていっちゃって。そんな一部始終を知っているのは、きっとボクだけで。ボクじゃ、ボクなんかじゃ、ボクなんかがいくら何を頑張ったとしても彼女は、彼女をボクは救ってやる事が先ず、出来なくって。
だから、本当にこれは要るの?って声を漏らす。届かないと分かっているのに、語り掛けてみる。諦められなくてずっと、もうずっとそんな事を繰り返してて。それで、えっと……そうだったんだけど、今回は、今回だけは全部が違っていて。
「ねぇ、キミは」
赤く腫れ上がった目元は、瞳の色が肌に滲んだように見えてしまう。そんな事ありはしないと分かっているはずなのに、一度そう見えてしまうと、もうそうとしか見えなくなってしまって、自分の単純さに厭気が差す。
そしたら、そうしたら何だか、無性にボクも泣きたくなってきちゃ、って。
我慢をすることが、耐えることが当たり前で癖付いてるキミは、自分の事をどうにも大切にしない事が多くって。自分が我慢したら、自分が耐えたらそれでどうにかなる事が沢山あるって、なんだかすっごく寂しい事を考えていて。
ボクにはさ、キミしかいないから。
キミしかいない、キミしか知らない、キミを通してでしか何も知ることの出来ないボクからすればキミがそうやって自分を大切にしない、当たり前に傷つけているのは見ていて気持ちいいものじゃなくって。でも、だからこそボクは、ボクは……、
「だから、叶えてあげなくっちゃ。」
██は、それを疑う考えをまるで持ち合わせていなかった。
「あの子が望んだ、あの子が夢見た続きを、ボクが、ボクの、ボクは叶えてあげなくちゃいけない。」
そうだ、と強く自分へと言い聞かせる。
「だって、それこそがボクに与えられたたった一つの、【在り方】なんだ。」
鬼ノ目 九十九話
「なに一人で熱くなってんのさ?」
ぐちょぐちょで湿っぽくて何だかただただ気持ち悪い。不快感しか生まないそこに、足袋も何も履いていない足がずっと埋まったままでいるのは、いつ吐き気が襲ってきても不思議じゃない。
いつまでもそこに足を捉われたまま、地に足が付かずに宙ぶらりんでいるなんて不快でしかなくって、直前の口振りから相手の気が済むまでこれが暫く続きそうだという事が分かってしまえばそれで、そこが限界だった。
埋もれた右足を無理やり捻って、中で大きく動かす。それ一つで相手は白目を剥きそうになっているのが至近距離だからよく分かるのに、でも寸でのところで踏み留まろうとするように、奥歯を食いしばって耐えてみせた。
(ムカつくなぁ。)
彼女の思いによって、彼女が要らないと削ぎ落とし続けたモノだけを受け入れて過ごしてきた██は、彼女の感じ方が反映される事が多かった。元は同じ一つの存在であったはずなのだからそれは当然の事かもしれない。だからこの時、相手のその態度を見て、腹の奥に巣食う虫がザワザワと騒ぎ始めるのは、詰まるところそういう事なのだろう。一人納得して、足を抜こうと動きを再開させる。
膝を立てるように上を向かせ、それ一つで体の中心を貫かれている無抵抗な相手の足裏が、自分と同じように地面から微かに浮くのが分かる。足そのものに相手の体重が丸々掛かるものだから、それは溜まったものじゃなくて。大きくブレる、さっきは堪えられただろうけど次は難しそうな瞳を見て、口元がついつい歪んでしまう。
自分を後ろから拘束する、浮かせる相手は馬鹿の一つ覚えみたいに腕に力を込めているだけで、正直あまり意味を感じられない。やろうと思えばいつだって、いつだって振り払う事が出来る事を、この二人はまるで理解していない。それが、無性に腹立たしく感じた。
「ねぇ、ほら……さ、」
出来るかはやってみなければ分からなかったが、もう反対の自由な方の足を持ち上げて、間に滑り込ませてその体を蹴ってみた。
ズルリ、その感覚はちょっとだけ気持ち良い。綺麗にすっぽ抜けて、がっぽりと空いた大穴は、手なんかで覆おうとしたって意味はない。指の間からその先の景色がちょっとだけ見えていて、地面に転がったと思えば今の今まで我慢をしていたのかな?と思えるぐらい、のたうち回りながら、聞くに堪えない汚い声をあげていて。なんだかそれが██には滑稽に映った。
「ッハハハハハハハ!こいつは傑作だぁ!」
それを助長させたのは背後の男の存在だ。足が抜けたその時には、前に回されていた腕は解けていて、転がったその体を抱きかかえるようにして、こちらを鋭く睨みつけていた。
「腰のそれはお飾りか何かぁ?抜きもしないで大人し納めちゃってさぁ、意味、何かあるのかなぁ?」
股の真ん中あたりから爪先まで、べったりと粘っこさのある感覚が纏わりついたままではあるが、けれどもこれまでのような不快感からはなくって、どことなく清々しさすら感じられた。
「イケナイ事をしたから罰が当たったのさ。」
男の腰にぶら下げられただけの、指の掛けられていない刀を小さく蹴り上げる。くるくると宙に二、三回ぐらい回ってみせて、地面では数回跳ねてからやっと動きが止まる。
「寄って集ってさ、あの子を皆んなして虐めたりなんかするからだよ。」
何も間違った事は言っていない、何も間違っちゃいないさ、と自分に強く言い聞かせながら、鞘のまま踏みつけてみる。
刀身は平たいというのに、それを納める鞘は筒状で、刀の二回り以上は厚みがありそうだ。足裏でコロコロ、コロコロと転がせそうな気はするのに、筒状でもそこまでは丸みが無いようで、一回転をする前に限界を感じてしまう。
「世の中、中々思い通りにはなってくれないものだね?」
そんな事を呟いてから██は静かに、手を差し伸べてみる。
「ボクは……、ボクはお前の事は嫌いだけど、あの子はさ、お前と居たいって、そんな事を望んでいるんだよ。ボクは、ボクだけがあの子の望みを叶えられる、から。だから、だから……さ、」
ボクと来て、と。
██は締めくくりの一句を紡ごうとしたが、あえなくそれが叶うことはなかった。
視界の端に、小さな稲光を見てしまったからだ。
「邪魔、すんなよ。」
「断る。」
威勢ばかり一丁前のその肩は、遠目でも分かるぐらい大きく上下しているのが分かり、ただの去勢にしか見えなくなってほんの少し憐れんだ。
「大人しくしてなよぉ?それとも、羽根を捥がれないと大人しくなれなさそ?」
「試して、みるか?」
「ッハハ、上等だよ!」
瞬きをする一瞬よりも早く、その間を掻い潜るように駆け抜けるそれは、目で捉えてから避けるなんてのは毛頭無理な話だ。
掠るだけでも痺れが残るものだから、当たる事も許されない雷を避けるのは至難の業やもしれない故に距離を詰める事は難しく、様子を伺った上で出方を決めた方がいいのだろうが██はそれをしなかった。
地に足がついているのなら何も迷うことはない。横槍が入らないのなら足元を見る必要なんてどこにもない。██が注視すべきは相手の手元、もしくはその目線の先、それのみ。上半身をぐるり大きく捻る。元々上半身があった、その中心を稲光が駆けていく。██は知っている、それらが柔軟な動きを、真っ直ぐにしか進めない事、を。
一歩を踏み込めば、未だ腹に空いた穴が塞がっていないのか、呻き声を漏らしつつ後退りする姿が視界に映り込む。そんなもの意味はない、まるで意味がない。相手の十歩はこちらの一歩にも満たない。それなら正面からどっしりと構えて、絶対に避けようがない距離まで相手が近寄ってきた段階で一撃を喰らわせれば、それが一番勝機を望めそうだというのに、彼の頭はそんな事も分からないのかもしれない。
そしたらそれが、ついさっきとは少し違って、頭のない弱者を一方的に甚振るようなこの行為はとても、とても面白そうに感じれ、て。すぐに口内に唾液が溢れて、でも零してしまうのは品があまりにもないから口を閉じて、それで、そうして、それから後一歩の距離になった時、相手の手の動きが大きく変わった。
一瞬のそれを、██は見逃すことはなかった。
しかし、見逃すことはなかっただけで、天上より一気に降り注ぐそれを、避ける術はどこにもなかった。
「詩……良、」
ゴホっ、と大きく咳き込む。喉の奥が急に締まって満足に息が吸えず体が揺れる。それと共に口元は血に塗れて強烈な血の匂いが咥内いっぱいに広がって、それだけでクラクラと、頭までズキズキと痛む気がして。
先ほどから収まってくれない激痛の波の中、意識が途切れないように弥代は目の前の、春原の腕に縋りつく事しか出来ずにいた。
それでも直ぐ近くで飛び交う、眩すぎる雷光と、軌道が予め分かっているかのような動きを見せる彼女から目を逸らすことは出来なかった。
が、状況が一転する。
防戦一方、それまで後退を続けていた神鳴が仕向けたであろう、空から堕ちてきたたったの一撃が彼女に命中した。
地に落ちて四方八方にその名残りが走る、天と地を繋ぐ架け橋となった体からは、暗くてよく見えないが煙が纏わりついているようで、血の匂いで可笑しくなったはずの鼻が、肉を焦がした時に香るような匂いを拾った。
春原に体を支えられたまま、零した声はとても小さなもので。自分が発しているというのに聞き逃してしまいそうな程。
先ほどの仕打ちを受けても尚、そうであっても弥代は彼女の、詩良の心配をしてしまう。
「弥代、無理はするな。」
「今、無理しなくて……いつ、無理するってんだ……よ、」
またも、ゴホっと咳付く。これまで以上に咥内は血が込み上げてきて、地面を赤く染めた。ただそれでも、それでも腹の傷が徐々にだが塞がっているような、そんな感覚今の弥代にはあった。認めたくないと思っていた。これまでやはり本心では否定している部分もあった事ではあるのだが、今この時ばかりは自分が鬼である事実に感謝する。
……否、違う。
今ばかりではない。自身が鬼である人ならざる存在である事に安堵する。だってそうでないと、そうでなくっちゃ自分は、弥代は彼女の、詩良の傍に辿り着く事が出来ない、その隣に並ぶ資格がない。
弥代自身、なんて身勝手で都合のいいことを考えているんだと、そんな自覚はあった。あって当たり前だ。今の今までずっと避けてきた、否定し続けてきた事だ。望んでいた、自分が鬼などという存在ではなく、ただの人間である事を。
それを確かめたくて、知る術が他になくて知るためにあの地を目指した。そこにいたのは、自分と少しだけ似た問題を抱えている、道を失いかけた彼で。
そう考えれば、思い出してみれば心のどこかで、その時も自分は彼と同じ、鬼と呼ばれる存在であった事を嬉しく感じていたかもしれなくって。気付いてしまったらそれで、それだけで場違いにも笑ってしまいそうになって。
(違う、違うだろ……俺、)
自分のそれを、弥代は正しいとは思わない。思えるはずがない。けれどもそれは早々簡単に折れていいものでもない。
だって、だってそうなのだ。
そんな簡単に折れてしまうのなら、こんな痛い目には遭っていない。痛い目に好き好んで巻き込まれるのが趣味というわけでもないし、だからそう、これは唯の意地なのだ。
諦めたくない。こんなところで彼女を、彼女とこれから過ごせる時間を、悪態を吐き合いながらも歩める道を、弥代は、諦めたくない。
彼女が冒した罪を、その責任を弥代は背負うと、一緒に謝ってやるんだと言ったが、そんなの当然ごめんだ。そんなものに一々付きやってやるつもりなんかないし、ただ自分の都合のいい時だけ、彼女に自分の傍にいてほしい。とんでもない事を考えているのは分かっているし、人に聞かせればきっと呆れられる、どういうつもりだと何なら怒りを買いかねないのだって知っている。
でもそれは、それは多分彼女がこれまで自分に対してしてきた事と何ら変わりはない。
自分の都合でこっちを振り回して、自分ばかり接しているつもりになって、都合の良い時にしか姿を見せないで、掻き乱して、勝手に距離を作って、まともな返事一つしてくれずに居なくなってしまう。
彼女の都合なんて知ったものか、と弥代は憤りに身を任せる。縋るだけだった春原の腕に、いっそ爪を立てんばかりに指先に力を込めて、まだ塞ぎきったわけじゃない腹回りを、腹筋を使って上体を起こした。
何が話をつけるだ?何があっちの気が済むまで付き合ってやるだ?馬鹿馬鹿しい、そんなの、そんなのn付き合ってやる道理を弥代は持ち合わせていない。
段々と、それは純粋な苛立ちへと変わっていく
そうだ、弥代はずっとそうであった筈だ。ここまで来て、こんな目に遭ってやっと、やっと弥代はそんな事を思い出す。
「やって、られる……か、ふざけ、んなっ!」
面倒事ゴメンだ。わけも分からずに巻き込まれるのはもっとゴメンだ。せめてどうしてこうなったのか、その説明を求めたくなる。元来がどうであるかなど自分自身の事であるのに弥代は知らない、知る由もない。ただそれでもたった一つ、弥代自身もよく分かっている事が一つだけある。
それは、
「俺はなッ‼︎」
大きく振りかぶった拳が、そのまま吸い込まれるように彼女の腹に直撃する。
ふらつき、呻く相手の、低くなった胸ぐらを力任せに掴んで、そうして狙いを定めて、派手に頭突きをくらわす。ズキズキとグラグラが同時に襲ってくるし、額からたらり血が鼻筋を伝って垂れてきたが構いやしない。
「いい加減、お前の悪ふざけに付き合ってやるつもりは俺にはねぇんだよ‼︎」
声を張る。
自分が何をされたのか、自分の身に何が起こったのかも分かっていない、目を白黒させる彼女をそのまま離すことなく、鼻先が触れ合うその距離まで弥代は顔を近付けて、それで自分の要求を吐き捨てる。
「こっからは俺に付き合えよ、姉ちゃん!」
次話にて、終話。




