四十八話 雪の日
冬の、特に雪が多く降り積もった日が恐らくは好きな彼女は、自ら同化しやすい“白”を、敢えて身に纏うのに選ぶ。そうして一人、心の奥底で自分は受け入れてもらえてる、なんて気分を味わう。味……わおうとする。
ただそれは殆んど無意識、癖に近いもので、彼女自身が意図して行っているものではないから、それがどうにも意地らしい。そんな言葉で綺麗さっぱり収まってしまうのだ。面白みは、何もない。
普段と違う事がなきゃ、何の変哲もない、変わり映えのない日々にきっと意味なんてものはないのだろうがこんな風に始まるということは、つまりはそういう事を指しているに違いない。そう、思っていたい。
だから、その日は彼女にとっても少々普段と違った。
ただそれだけの、どうしようもない話なのだ。
鬼ノ目 九十八話
どうしたものか、と彼女はその場で数歩、足踏みをしてみせた。
目を逸らしたい気持ちに駆られるのに、ただ目を逸らしたからといって多分それを目にした、見たという事実は自分の中から消えてくれそうにない事を分かっていた。だからこそ、どうしたものかなぁ、と足踏みをして、出来るならそのまま自然と誤魔化して立ち去ろうかなぁ、なんて事まで考えていた。
だってそうだ。
見ず知らずの相手に、いきなり馴れ馴れしく声を掛けられて、手を差し伸べられて。手を貸したからといって自分のような“色”を持つ存在が、素直に相手からお礼を言われてそれでおしまい、なんてすんなり事が転んでくれるとも思えない。少なくとも、自分という存在が外の者の目にどう映っているのか、それを知ってから今日までの間は、そんな事は一度たりともなかったから。
だから、まぁ……やっぱり見なかった事にして素通りするか、来た道を戻るのが賢明だろうな、と。
こんもりと、その場所だけ変な積もり方をしている小山に背を向けて、留まっている間に傘に乗ってしまったであろう雪を軽く払い落とそうとした。
「――律ッ!」
ピクリ、彼女の肩が小さく跳ねた。
自分の真横を駆け抜ける、偶々傘を下に向けていた為に相手がどんな顔をしているのかとか、そういうのは全然分からなかった。それなのに、どこか切羽詰まったような声色と、あまりに迷いなく駆け抜けていくその姿が、何故だか遠い、遠い昔の記憶の、その続きを見ているような、そんな……そんな、なんとも言えない不思議な感覚を味わって、しまって。
中途半端に逸らした体の、でもしっかりとその後ろ姿を彼女は無意識に目で追った。追って、しまった。
パタパタと雪の降り積もった道を男は駆けていく。自分が見なかったことにして来た道を戻ろうと思った、そのきっかけとなった、変な積もり方をしている小山の前に、汚れるのも厭わずに膝を付く。すれ違い際に耳にした、名前らしきものを連呼して、冷たいとか寒いのなんかお構いなしに小山に指を突き立てて、それを崩していく。時間が経っているのだろうか、遠目から見ても中々硬そうな雪は、崩すだけで結構苦労そうだ。白く染まった指先が、次第に目に見えて分かるぐらい赤く色付いていくのに、そんなの目もくれずに雪山を掻く。それだけで男の必死さがよく伝わってきて、ついつい彼女は、自分の胸元をキュッと手繰り寄せて、その一連からどうしても目が、逸せなくなっていた。
自分が手を貸そうという考えが微塵もなかった。自分が直接関わろうという考えも、これぽっちも持ち合わせてなかった。
他人で良かった。ただ偶々近くを通り掛かっただけの、それ以上もない通行人で良かったはずなのに、その一線を越えるように見守ってしまった。
目を、逸らせるわけがなかった。
「いやぁ……ハハハっ!この度は本当にねぇ?私ときましたら……あぁ、違いますね違います、訂正訂正。えぇっと……私共夫婦のね、お恥ずかしい姿をお見せしてしまって本当にすみませんねぇお嬢さん?
直ぐに色々と暖められるものは暖めますのでね、ゆるりとどうぞ寛いでいって下さいな?外は寒かったでしょう?全くですねぇ……正直こんなの言いたくはないんですが、私そこまで信心深くないものですから、この恵方詣りとか言うのですね、そもそも神様とかそういうの信じちゃいないものだから苦手、なんですよね。なんならこんな雪の降り積もった日は特に、特にですよ?無理してまで出歩く必要なんかどこにもないっていうのにほんと。…………あぁ、ごめんなさいねぇ。こんな聞いてても何の面白みもない愚痴話、今日初めて会った人から聞かされるのなんて、嫌な気分にさせちゃいましたよね。」
すみません、と言いながらペコリと頭を下げる。キビキビと家の中を行ったり来たりを繰り返す、その手元には毎度何かしら違うものが抱えられていて。頭の中でしっかり順序立てているようかのように澱みなく。それなのに、その声色だけはずっと柔らかいまま。
「あぁ、ほらほら律。体が冷えたままじゃ風邪を引いてしまうからね、手間かもしれないけど着替えられるかい?湯を沸けるまでまだ少し掛かりそうだから、せめて服だけでも取っ替えてしまいなさい。」
家の事をしつつ、どちらかといえば家の事の方が片手間に見えるような頻度で、「律」と呼ぶ女に甲斐甲斐しく世話を焼く男の姿は、何だかお節介を焼いてばかりの母親のように見えた。
女の方は大人しく、というよりは言われた事以外を一人で考えてする余裕がなさそうな様子。真っ赤っかに染まった頬は寒さによるものか、恥ずかしさから来るものか。
(どっちも、じゃないのかな。)
温くてすみませんが、と言って差し出された湯呑みに口を付けながら、詩良はそんなことを考える。
男の言った通りに茶は確かに温くはあったが、いきなり熱すぎるものに口を付けて、体の中に流し込むよりは温いほうが有り難いこともあったりする。外が寒かったのはそうだが、今はこれぐらいのほうが舌も驚かず、自分には丁度よかった。
「見ず知らずの相手にさ、いくら何でも構いすぎじゃない?」
ふと、思うところがあり詩良はそんな言葉を投げ掛けてみた。
親切に扱われるのが嫌な人間なんてきっと少ない。だが自分のような“色”を持つ厄介者を、たとえ榊扇と呼ばれるこの地自体が“色持ち”に対し理解があり、他の地とは違ってひどい扱いを受ける事はないとしても、それだけの理由では腑に落ちない。
それに、女に対し、母親もしくは兄の様な振る舞いを見せるその男は、自らの言葉で、神様だとかそういうのを信じちゃいない、苦手だと申していた。
里を治める、なんとかという一族が、人ならざる化け物を神に見立てて祀っているから、この地に住まう者は皆んな揃って信心深く、神を信仰しているものだと勝手に思っていたものだから意外だなと引っ掛かりつつ、そうであるのなら尚更に、自分のような“色持ち”を家に上がらせるのは変だと、違和感だったのだ。
これで相手の機嫌を損ねてしまい、追い出されてしまったとしても当たり前の反応だろうなと詩良は高を括ってみたのだが、男の返答は、やはり意外なもので。
「だって、律の近くに居てくれたじゃないですか。」
「…………は?」
それが何を意味しているのかを、理解するのに時間を少々有した。
男の名前は日下清太というらしい。
妹のように詩良が見ていた女は、正しくは男の嫁で、既に男が何度もその名前を呼んでいたものだから、改ま《あらた》って紹介をされる前に、「もう何度も聞いてるよ、律さんでしょ?」と、少々の苛立ちを滲ませて口を挟んでみせた。
「良かったねぇ、律。覚えてもらえて嬉しいねぇ。」
「…………。」
雪に埋もれていた事で濡れた髪を、その毛先を軽く布で抑える。その合間にパッチリと目が合って、すぐさま女は詩良から逃げるように顔を背けた。
「うちの律は少し恥ずかしがり屋さんなところがありましてねぇ、」
「少し?どこが?失礼すぎて笑えないぐらいには酷いね?」
時間が経つにつれて、随分と偏った夫婦をみる度に、普段は鳴りを潜めている毒が漏れてしまう。
ただ仲睦まじい夫婦と、そうと片付けるのがどうしてだかこの時の詩良には難しく。でもさっきの、男の返答のその意味が分かる前に立ち去るのは癪で。なら毒なんて、苛立ちなんて上手く隠して、いつも通りに立ち回ればそれで、それでいいはずなのに。それが出来ないでいる事実が余計に詩良を苛立たせた。
だから――、
「ねぇ、さっきのさ」
やや性急に、話の舵を取る。
そうでもしないと自分の欲している答えに、男任せではいつまでも辿り着けない気がしたからだ。他意は、全くない。
『だって、律の近くに居てくれたじゃないですか。』
「さっき言ってたの、アレどういう意味?」
一通り家の用事を済ませたのだろう、男が漸く腰を落ち着かせる。入れ違いになったが、湯が沸けたからと女の方は替えの服を抱えて部屋を出ていった。
「どういう意味……と、聞かれましても?そのままの意味ですよ。」
「近くに居たからって、見ず知らずの相手を。“色持ち”なんかを家に上がらせる理由にはならなくないかなって、ボクは聞いてるの。」
「…………ぁあ、はい。」
詩良がそう、はっきりと自身の疑問を呈示して初めて、男はやっと意図を理解したのか、恐らくは癖なのだろう、口元の黒子を数回人差し指で叩いてから、どこか納得したような表情を浮かべる。
「これはこれは、まだまだ私も勉強が足りませんね。上手く汲むことが出来ず、全部言わせてしまいました。まだまだ詰めが甘いものでございます、すみませんねお客さん。」
「……客、じゃないんだけど?」
分かりやすく、両手を前に大きく指を開く。一周回って態とらしく映る反応は随分と慣れたものの様に感じれた。
「客商売の、悪い癖ですね。」
「下手な芝居の間違いでしょ?」
ひくり、男の目袋が動いた。
「まぁ、少なからず。欠かせないものに、違いはありませんから。」
そっと、それまで細まったままであった目元が開かれた。途端、それまでの柔和そうな、優しさと暖かさを孕んだ声色も別モノのように思えて。多分それは気の所為なのだろうが、男の変わり様があまりにも面白くって、詩良は肩を震わせて、思わず笑った。
「そういうのってさ、今日会ったばっかりの相手に見せていいものじゃ無いと、ボクは思うだんけどさぁ。其処の所どうなのさ?」
「おやおや、見たがりに見えたので見せて差し上げただけだというのに、散々な言われようじゃないですか?」
それに、と男は付け足す。
「こういった態度の方が、信じてもらえそうだなぁ、と。私は、そう思ったんですよ。」
昔からそういう勘が当たりやすいのだと、言ってどこか他人事のように、詩良を真似るかのように男も笑ってみせた。
「あぁ、そうそう。さっきの言葉の意味、でしたよね。そうですね、改めるまでもなく、本当に言葉のまんまの意味ではあるんですけども。」
そして男は分かりやすく、言葉を選び話し始めた。
「律は小さい頃から恥ずかしがり屋さんでして、」
曰く、それがどれだけ一緒に育った家族の前であっても、滅多に聞こえる声を漏らす事が彼女はないそうだ。
「昔っからそれで、近所じゃ歳の近い子に揶揄われているのをよく見掛けましてね。」
ただそれも長くはなくて、ちょっと色々と込み入った事情があって、若干三歳で彼女は両親や住む家、それまで過ごしていた居場所を失ってしまったそうで。
「いても立ってもいられず、自分の親に無茶言って彼女をこの家に住まわせてあげるようになったんですけどねぇ……、」
幼くして両親を失った傷が深かったのもそうかもしれない。一音も漏らすことなく、全く喋れない時期が暫く続いたという。ご近所からは次第に、口の聞けない、聾唖なんじゃないかと噂が回ったり。そんな噂が耳に入って、聞こえていないなんて事はないから余計に塞ぎ込んでしまったり悪循環の繰り返し。
男を挟まないと周囲の人間との意思疎通もまともに出来ない、手の掛かる娘が生まれてしまったのだとか。
「……それが、さっきのとどう繋がってくるのかな?」
「まぁ、もう少しだけ辛抱くださいな。」
昔の近所でもそうだったが、大人になってからの彼女はまたしても揶揄われる事が絶えず、一人で外に出るのを怖がるようになってしまった。だからと言って一人じゃなければ良いというわけでもなく。出来るなら用事があっても誰にも会わずにいられるなら大丈夫とか、そんなありもしない都合ならと駄々を捏ねたようだ。
「うちの律はですね、」
外じゃどんな事があっても喋る事が出来ないんですよ、と男は言った。
「律は、とっても怖がりさんでしてね。」
それでも息を呑むばかりでやっぱり声が出ない。
「律は、人一倍寂しがり屋さんなんですよ。」
それでも寂しいと、その一言さえ漏らすことはない。
「律は、出せたとしてもとっても声が小さくって、」
だから、出せてもそれに気付ける人は滅多にいないのだという。
(あぁ、だから……それ、で?)
詩良が足を思わず止めた、その場所は連れてこられた家からそれほど離れた場所ではない、どちらかと言えばご近所ぐらいの距離だったのを思い出した。
不思議だな、と違和感は感じていたのだ。
自分以外の誰も、誰もこんもりと変な積もり方をしている小山を見ても何の反応も示さない。チラリと横目に見ても足を止めはせずに素通りしていく。
ここいらではよくある、見慣れた光景なのかな?とかそんな事を考えてみたりしていた。
『――律ッ!』
やけに、切羽詰まった様子で男は走っていた。
自分の横を通り過ぎる、それよりももっと前からずっと、ずっと走り回っていた様子だったのを、思い出す。
日下律という女は、どうやらご近所からは白い目で見られる事が多いらしい。親の代より続く呉服屋の、二代目にあたる若旦那に気に入られて居座らせてもらっているだけの、他に身寄りも金もない身一つのただの娘だ。
店や若旦那に興味のある、律と歳の近い未婚の娘は少なからず存在する。
何があっても外では声を出すことの出来ない、強張ってしまってどんな目に遭っていても誰かに助けを求める事が出来ない、鈍臭くって一人じゃ満足に何も出来ない。
何もないところでも当たり前に躓いてしまう事の多い、そんな彼女が雪の日に外に出でもしたら、目を離した隙に転んでしまうのはどこか想像に容易くて。
「客商売とは言いますけど、年始のこの時期はどうしても横繋がりが絡んでくるものですから。」
本当は行きたくもない恵方詣りの帰り道、近所じゃ顔の広い大店の旦那に声を掛けられてしまった。いくら両親の跡を継いで店を回しているといっても、それほど大きな店ではないし、奉公人を雇う金だってありはしない小さな店だ。断れる材料はどこにもなく、誘われるがまま相手の用意した座敷へと通された。後は、まぁそういう事だ。
「そういうのにね、巻き込みたくなんか私はないんですよ。あの娘に辛い思いは、もう二度としてほしくない。あの娘の為に出来る事は何でもしてやりたいんですけどね、どうしても手が回らなかったりすることも、偶にはあるもんですから。だからですね、まぁこんな身の上話をいきなり聞かされて、同情を誘う気か?って中には腹を立てられる方もいるにはいるんですけどね。でも、そういうの全部引っくるめて、使えるもの全部使って、どう言われようが私はあの娘を、律を守ってやりたいって考えているわけなんです。」
つまらない話にお付き合い下さりありがとうございました、と最後に言い残して、その男は頭を下げた。
寒いでしょうから、と元々軽く誘われたはずだった。
お暇をしようかなと外を覗いた時は、運悪く雪がまた降り始めていて。どれぐらい降り続けるのかは分からなかったが、あまり降られてはここに来るまでの自分の足跡も埋もれてしまって、それではどうやって帰ればいいのか、帰り方そのものを忘れてしまいそうで。
なんて、軽く冗談混じりに溢してみたら、もし嫌じゃなければ泊まっていかれては?なんて提案を持ち出された。
「だから……、」
どうしてか。先ほどと同じように自分の方から距離を取ろうとするような言葉を口走ってしまいそうになって、でもどこか、どこか期待をするような目でこちらを見てくる、無口な女とまた目が合ってしまって。またどうせ逃げられると、こちらは期待をせずにいたのに一向に彼女は目を逸らすことはなく、ジッと詩良を見ていて。
「……。」
それが、それが本当にどうしてか、詩良は嬉しくなってしまった。
雪に埋もれて冷え切った体を温めるのに沸かされた湯は、少しだけ時間が経っていたから先のお茶と同じく温く感じることはあったけど、でも全身を浸からせるのにとっても丁度よく、感じて。
じんわり、熱が体の奥までゆっくりと染み込んでくるような感覚に身を委ねて、そうして息吐くその一時は何だかずっと、ずっと味わっていない、懐かしさが込み上げてきて。
ぐすん、と鼻が勝手に、小さく鳴った。
でも、直ぐに目を逸らして。見なかったことにして瞼を閉じて。ちょっとだけ眠れそうだな、と意識を手放そうとした時、戸を一枚隔てた向こう側から、何かを落としたような音が聞こえた。
湯が大きく波打って、何だなんだ?と軽く身構えていると、凝視していた戸が開いて、外から彼女が、日下律が入り込んできた。
そし、て――。
「…………、」
一瞬、詩良は自分が何をされているのかが、それがどうしても理解出来なかった。
視界いっぱいに広がっているのは、自分が全く知らない相手の多分胸元で。全くといっていいぐらい力の入っていない、元から鍛えてないのだろう細い腕に頭を抱えられていた。
何で彼女がそんな事を突然してきたのか、直接まだ一言も彼女本人と言葉を交わしていない詩良は当たり前のようにそれが分からない。分からないのに、普段なら直ぐにそんな事をされれば突っぱねているだろうに、それされも出来なくって。聞き慣れない、ちょっと駆け足気味の心音が鼓膜を小さく揺らしていて。
雪に埋もれていた事で濡れてしまった髪は、まだ乾いてそれほど時間も経っていないというのにまた、また濡れてしまっているようで、長い黒髪が、余程近いからかペタリと詩良の頬にへばり付いてて。それは多分、不快である、はず、なのに。
そしたら小さな、とっても小さな声が聞こえて。
あぁ、何を伝えようとしてるのかなって、聞き逃してしまわないように、いつかの様に目を閉じたりして、耳に意識を集中、させて。それ、で。
「なか…………い、で……、」
本当にどうしてだかそれが、それがボクにはとても輝いて見えたんだ。
それは、それはいつだったか、どこかに置いてきてしまった、それがどこだったかも今となっちゃ思い出せないぐらい多分、昔のことで。
すごく、すっごく大切なものだったはずなんだけど、何で大切だったかも全然思い出すことは、出来ないんだけど。
でも、キラキラとしていた。
それは見ているだけでキラキラと光り輝いていて。近くでただ見ていれるだけで心は、心は満たされていて。
それが、それがずっと続く事をボクは、ボクは誰よりも望んでいて。掛け替えのない、何があっても損なわれていい筈がない、欠けてはならないモノ、で。
そこに、そこに言葉はなかった。
言葉はなくても思いは通じ合っていた。
態々言葉なんて陳腐なものに縋らなくても、二人は手を取り合っていた、紛れもない、事実。
夢のような一時だったのかもしれない。もしかしたら本当にただの、ボクが見ていただけの夢だったのかもしれない。
でも、でもね。
だから多分、すっごく久しぶりにね、ボクはその夢の続きを見れたんだよ。もう二度と見れないかもって諦めかけていた夢の、その続きを見ることが出来たんだよ。それってすっごく、すごく、なんだか、それだけで嬉しくなっちゃって。
やっぱりそこには、そこには無理に言葉なんて必要なくって。互いが互いを思い合っている、手を取り合っているそれだけで、それだけで十分で。それ以上に綺麗な、キラキラと素敵なモノをボクは知らなくって。
だからかな、だからこそ壊れてほしくないって、願っちゃって。
綺麗な物ほどどうしても壊れやすいって、誰かが言ってた。それが誰だったまでは思い出せないけど、確かに言ってた。間違いない。
守る術を、どうしたらそれを守る事が出来るのかをボクは知らない。けど近くで見守る事は出来る。それだけは許されたい。どうか、許してほしい。
望まないから、もう何も望んだりしないから。それだけ、本当にそれだけを望んだ。
それだけで良かった、筈なのな……。
翌朝、二人が起きる前にその家を出た。
男の方は小さい店だと漏らしていたが、じっくり外から見てみればそこそこしっかりとした外観の立派な店で。からそんなに大きな家でもないのに、家にあれだけ大きな湯船があったんだろうなと、思い返せば納得出来た。
一人、家路につく。
家と言っても正しくは自分の家ではなく、家主が暫く留守にしているものだから留守番をしてやっているだけで。
まだ年が明けてほんの数日。
今日も今日とても信心深い、信仰心だけは馬鹿みたいにあるこの里の人は恵方詣りに、いくら雪が降り積もって足元が悪くたってお構いなしに外に出ている。
人波に少しだけ逆らうように進むのは、なんだかちょっとだけ淋しく、って。
親が子どもの手を、はぐれてしまわないようにとしっかりと握りしめるのを、真っ赤っかな痕が残ってしまいそうだな、なんて風に見ながらすれ違う。
それから、昨晩のちょっとだけ温かった湯を思い出して、それ、で。
それ一つで満たされても良かった筈なのに、何だか、なぜだかボクは欲張りさんみたいで。もっと、もっとって欲がついつい出てしまって。
適当でもいいから、あんな温い熱じゃなくって、煮え立つぐらいの熱が、途端に欲しくなって、しまって。
そしたら、そうしたら丁度目の前に、どこかで会った覚えのある顔をした、男の人が立っていて。
それで、それでつい、ボク……ボク、は
ボクの、ボクが好きな人は、多分お喋りな人。
ずっと、ずっと飽きもせず気付けば喋り続けている、ちょっとだけ傍迷惑な、そんな人。
ボクの、ボクが好きな子は、多分無口な子。
伝えたい言葉が見つからなくって、怯えたように、でも伝えようって意志が強い、そんな子。
ボクの、ボクが好きなモノ、は、




