4
マリアは思いの外早くやってきた。多分、1時間はかからなかっただろう。妹が寝付いたらということだったので、ノックの音がした時は完全に油断していたほどだ。
そして、いつかと同じようにベッドに上がり込み、上品に正座した。今日はこの前と違って寝間着姿なので、尚更気恥ずかしい雰囲気だった。
ところが、いざ彼女が口を開くと、その話題は意外なものだった。
「アリシアさんと、何かありました?」
さすがに驚く。そこだけは突いて欲しくない場所を見事に突かれた感じか。
自分でも不自然さが自覚できるほどあからさまに視線を逸らす。マリアは正座したまま、それをじっと見つめる。その視線を避けるために、壁の剥製をなんとなく眺めた。相変わらずの悪趣味なオブジェだが、今はそちらを見ている方が気が楽だ。
沈黙が、かなり長く続く。
「……言い出したのは、ヴェスタなんですよ」
マリアは少し微笑む。
「ヴェスタが、アリシアさんに元気がないって、そう見えるって、私に教えてくれました。私はあまり気が付きませんでしたけど、そういえば、シドさんも元気がないなって思いました」
そうか。
やはり、傍目から見れば分かるものらしい。ほぼ初対面の人間でも読みとれるほど、彼女に辛い顔をさせていたということか。
どうする。
どうすれば──
「あの、こういうのは立ち入った質問かもしれませんけど」
マリアはやや前傾の畏まった姿勢になり、こちらを真っ直ぐ見据える。
「シドさんとアリシアさん、どういう関係なんです?」
改めて聞かれると、なかなか困る。
しかし、少し考えてみると、自然に頭に浮かぶフレーズがあった。
「……恩人だ」
「恩人、ですか?」
「ああ」
「……アリシアさんが、ですか?」
「ああ」
本当のところを言えば、別の感情や関係があるかもしれない。あって欲しいと思わないでもない。
しかし、結局のところ、俺は恩を貰ってばかりで、何も返せていない。
だから、恩人。
それ以上立ち入る資格は、俺にはないのかもしれない。
マリアはしばらく黙ったまま、こちらをじっと見つめていた。しかし、視線を一旦下に落としてから、不意に顔を上げた時には、穏やかに微笑んでいた。
「シドさんの恩人なら、私にとっては、恩人の恩人ですね」
何を言い出すかと思えば……
俺は軽く首を振る。
「だから、助けた覚えはない。言ったろ? 血を貰ったから、その借りを返しただけだって」
ところが、マリアはそこでにっこり微笑むと──
「嘘ですね」
いともあっさり、否定した。
その笑顔があまりに朗らかだったので、反論することも忘れてしまっていた。そこまではっきり反論できる根拠が、自分にはさっぱり予想できなかった。
だが、彼女が続けた説明は、意外にも論理立っていた。
「冷静に考えてみれば、簡単なことでした。私はあの時、秘薬を渡すから、その代わりにヴェスタを助けて欲しいと言ったんです。ですから、単に貸し借りということなら、私は見捨てていってくれてよかったはずです。そうじゃないですか?」
「いや、それは、あんたが捕虜にした方が、脱出が楽だったからで──」
「いいえ。それを言い出したのは私です。あの時の貴方は、よくそんな方法が思いつくなって、呆れた顔をなさってました」
なんというか、よく見ている。それを言われると、返す言葉もない。
マリアは勝ち誇った笑みを浮かべ、さらに続けた。
「そもそも、あのままでは死ぬしかないという状況なんです。普通なら、ひとりだけ逃げたとしても、文句を言う人はいません。どうせ、戦えない私には逃げられる可能性はないんです。ですから、戦える誰かに望みを託すしかない。ですけど、回復するなりその人が逃げてしまっても、それはそれで仕方がない。恨むつもりは全くありませんでした。ひとり助けられたのですから、私にしてみれば上出来です。もちろん、ヴェスタのことは心残りだったと思いますけど……」
彼女はその言葉を淡々と話した。死をあるがまま受け入れていると言うべきなのか。捕まった自分が助からないことを、あの時既に冷静に受け止めていたのか。
死。
そうだ。
死だ。
俺の中で、何かが引っかかった。
「ですけど、シドさんは、そうじゃなかった」
マリアは真っ直ぐにこちらを見据える。
その黒い瞳は潤んでいるようにも見えた。
「私のことも、それから、ヴェスタのことも、決して見捨てなかった。保身の為に、捨てていって下さってもよかったはずなのに、そうしなかった。それは、どうしてですか?」
あの時のことを思い出す。
何か。
何か、そう──
腹が立った。
目の前で死にかけている女が、自分のことよりも、妹のことを気にかけていたから。まだ生きているのに、そんな簡単に命を投げ出すのが許せなかったから。
いや、違う。
許せなかった。
許せなかったのは、俺だ。
あの時、諦めていたのは、俺だ。
命を投げ出していたのは、俺だ。
「──やっぱり、俺の為だな」
俺はそう呟いて微笑む。
じっとこちらを見つめる彼女に、言葉が淀みなく出て行った。
「俺がどうしても、そうしたかった。惨めな俺を清算したかった。ただそれだけだ。それ以外にはない。俺は、そうやって周りに迷惑ばかりかけてる、自分勝手な人間なんだ」
そこで。
マリアもまた微笑んだ。
「全然迷惑じゃないと思いますよ」
その彼女の声色は、かつてないほど穏やかで、そして優しかった。
そう。
そうか。
その言葉だけで、今の自分にとっては十分だ。
「あの、お願いがあります」
不意にマリアは頭を下げてそう言った。いつか見たのと同じ、綺麗なお辞儀だ。
「私をここに置いて頂けませんか?」
「え?」
さすがに驚いて声を出すと、彼女は顔を上げてこちらを真摯に見つめる。
「ひとりの奴隷としてで構いません。身の回りのことで、雑用でも、それから、秘薬の調合でも、私にできることなら何でもします。ですから、どうかお側に置いて頂けませんか」
「いや、でも、俺は──」
「知っています」
まるで決闘を申し込まれているかのような、一部の隙もない視線がこちらを射抜く。
「実は、最初にここへお邪魔する前に、まずアリシアさんに相談しました。その時に、シドさんがここで何をしようとしているのか、おおよそのことは伺いました。それを理解した上でのお願いです」
「……理由は?」
「お仕えしたいと思ったからです」
また不思議なことを言い出した。
仕える?
俺に?
まさか。
しかし、マリアはそこで、微笑んでさえみせた。
「いつかそういう人が現れるかもしれないと、私を育てて下さった方から伺ったことがあります。そして、心からそう思えたのは、シドさんが初めてです。ですから、どうか、お願いします」
再び頭を下げるマリア。
はっきり言って、俺は困った。
自分とアリシアさえいれば、それで十分だと思っていた。それがまさか、人を雇うかどうか迷う日が来ようとは。
「──妹はどうする?」
「あの子には、最初に相談しました」
顔を上げた彼女は、口を結んだまま微笑む。
「私と一緒にいると、そう言ってくれました。私が面倒を見ますし、それに、もうあの子も一人前ですから、大丈夫です」
どうも、あの様子だと、外堀は全て埋まっている気がする。
つまり、これも結局は、自分の問題か。
俺に仕えたいと言っている女性。
俺に覚悟があるのか、ないのか。
それが全て。
「──ひとつ約束できるか?」
そう切り出すと、彼女は居住まいを正してこちらを真剣に見つめる。
「俺に仕えたくないと思ったら、すぐに言ってくれ。出て行くべきだと思ったら、ここから出て行け。俺に変な遠慮をするのだけはやめろ」
「はい」
マリアはにっこりと微笑んだ。今まで見た中で、一番明るい笑顔だったかもしれない。
そして──
「あの、実は、私からも条件があります」
雇われる方が条件を言い出した。
何のこっちゃと顔をしかめたが、その内容を聞けば納得だった。
「アリシアさんと、仲直りして下さいね」
なるほど。
何というか。
彼女らしい。
俺は躊躇なく頷いて、そして微笑んだ。
「ああ」




