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彼女に何かしてやれることはないか。
ジェレイドの話を聞いた日から、そればかり考えていた。しかし、その度に、彼の話の通り、何もないことに気付く。人間でも魔王でも、彼女は優しく微笑みかけてくれるのに、俺達は何も返してやれない。何もしてやれないのに、彼女は微笑みかけてくる。それが重荷になっている自分が、益々情けない。
それでも、表面上は訓練を続けた。いずれにしても、レギンは倒さなければならないし、そうしなければ、マリア達がここから出るのも一苦労だ。この前のように、彼女の血を借りれば、今すぐにでも勝てるかもしれないが、次は向こうだって対策を立ててくるだろう。それに、あの勝ち方は気持ちいいものじゃない。ただでさえ負い目があるのに、これ以上彼女を傷つけるのは忍びない。
いや。
もうひとつ、あまり考えたくない予測があった。
あの男を倒したら、今の状況が一段落したら、彼女は目の前から消えてしまうのではないか。
その方がいい。一時だけ過ごした謎の魔王という関係くらいが、こちらにとって傷が浅くて済む。
アリシアはそんなことを考えているのではないか。
彼女と顔をつき合わせている間は無理でも、それ以外はずっと、そのことばかり考えた。日に日にその時間は長くなった。俺を避けているというわけじゃないと思うが、彼女の所在が分からない時間が多くなった。いや、そもそも、俺は普段の彼女が何をしているのか、あまりよく知らない。
彼女のことを、知ろうとしていない。
彼女は俺の話をあんなに聞いてくれたのに。
それなのに、俺は、彼女の話を何も聞いていない。
何も分かってやろうとしないまま、ただ甘えていただけ。
都合のいい女として利用していただけ。
漆黒のベッドに仰向けになって、少し考えただけで、その結論は出た。それほどに簡単なことを、傍目から見れば当たり前のことに、俺は気付かないふりをして、ふたりで生きるんだとか何だとか、ほざいていただけだ。
最低。
最低だ。
考えれば考えるほど、明らかになるのは、俺が如何に駄目な男かということ。
無謀で自分勝手。
礼儀知らずで、すぐ調子に乗る。
そして、無力。
無知。
最低のクズからは這い上がったつもりでいた。しかし、それでやっとこの程度だ。彼女から見れば、以前も今も、同じ虫けらみたいなものに違いない。何も努力しない、何も真面目に見つめようとしないで、ただヘラヘラ生きているだけの男に見えるに違いない。
だけど。
それでも、今からでも、頑張ればいい。
這い上がればいい。
腐っていたら、そのまま終わってしまうのだから。
泣いて神様にお願いしても、一度リセットさせてくれるわけじゃないのだから。
だから、そうするしかないでしょう?
そう言って、彼女は励ましてくれた。
こんなゴミみたいな男でも。
そうやって生きれば、きっと、充実した何かが得られる。
そう教えてくれた。
そんな。
そんな優しい女性だ。
だから。
だからこそ、今の俺があるのに。
それなのに。
その何かは結局、俺にしか役に立たないもので。
ただ自分の為にしかならないもので。
彼女には何の役にも立たない。
それどころか。
俺は。
俺は、先に死んでしまう。
何か彼女に残そうとして、精一杯生きても。
結局。
何も残せないまま死んでしまうかもしれない。
そんな俺の哀れな姿を彼女の心に刻んでしまうかもしれない。
そして。
優しい彼女は、それでも、そんな馬鹿な男の為に泣いてくれる。
泣いてしまう。
それでもいいんだと、哀しそうに微笑みながら。
ずっと。
ずっとそうやって生きてきて。
胸を刺すほど悲しいことだと分かっているのに。
それでも。
ボロボロになっても、彼女はやめない。
真面目に。
真っ直ぐに。
誰に対しても、決して嘘はつかずに。
ただひたずら。
前へ。
前へと──
強く。
強く。
強すぎる。
そして。
そんな彼女に、今更、俺なんかが──
そこで息を吐いて、ベッドから起き上がった。
駄目だ。
考えられるものならいくらでも考え続けたいところだったが、脳にも体にも限界がある。本当に情けないことだが仕方ない。とにかく、顔でも洗って頭を冷やすことにした。
ところが、扉を開けてすぐに、誰かが息をのむような物音に気付く。
やや意表を突かれたものの、すぐに廊下へ顔を出して覗き込んだ。
すぐ脇の壁に手を突き、目を見開いていたのは、長い黒髪を下ろしたほっそりとした少女。
ヴェスタだ。
互いに予想外だったからだろう。そこで見つめ合ったまま、しばらく沈黙が続いた。お互い、何を話せばいいのか分からなかったのもあるかもしれない。
ただ、いつまでも黙っているわけにもいかないので、一度視線を逸らして頭を掻いてから、なるべく静かな口調で尋ねてみた。
「何してるんだ?」
よくよく考えてみれば、いつもならマリアとふたりで寝ている時間ではないか。そう思って改めて観察してみると、彼女は寝間着らしきゆったりとしたワンピース姿だった。ネグリジェと言うのかもしれないが、自分のイメージするそれよりはかなり質素なデザインだ。
彼女は明らかに戸惑った様子で視線をさまよわせていたものの、やがて半分だけこちらを見るような微妙な視線で、呟くように言った。
「……鍛錬」
一瞬、頭の中で意味が変換できなかった。目の前のか弱そうな女の子とは、明らかにそぐわないフレーズだ。
「タンレンって、体を鍛えるあれか?」
ヴェスタは壁に両手を着いたまま、コクンと頷く。
そこでまた、気まずい沈黙が流れた。
やはり。
やはり、やりづらい。
本音を言えば、ここで、「そうか。まあ頑張れ」とでも言って逃げたいところだったが、それを彼女がどう感じるのか、さっぱり想像できない。だから子供は、特に女の子は扱い辛い。
だけど、ちょうどその時、客間の扉のひとつが開いて、奥からマリアが顔を出す。そして、こちらを見るなり微笑んだ。
「どこに行ったのかと思った。シドさんも、こんばんは」
マリアは落ち着いた足取りで近くまで歩いてくる。ヴェスタとほぼ同じ服装。しかし、大人びた容姿のせいか、ヴェスタよりもずっと色っぽい。
彼女は妹の背後に立つと、その頭を優しく撫でる。案の定、ヴェスタはその腰にピタリと張り付いた。
「またこっそり練習?」
「練習?」
何の話かと思って聞き返すと、マリアは妹からこちらに視線を移す。その表情はいつにも増して穏やかだ。
「はい。まだ少し、歩くのが大変なんです。だから、こうやって、たまにリハビリしてるんですよ」
「ああ……」
なるほど。
そういうことなら納得だ。鍛錬などと言われたから、戦闘訓練でも始めたのかと思った。
すると、不意にヴェスタはマリアから離れ、壁に手を突きながら歩き始める。こちらとは逆方向。彼女達の寝室の方角だ。
しかし、マリアは特に手を貸そうともせず、ただ見ているだけだ。
それを意外に思っていると、その視線を感じ取ったのか、彼女はこちらに近寄ってきて、耳打ちする。
「私が手伝うと怒るんです。そんなのじゃ、いつまで経ってもちゃんと歩けるようにならないからって」
「へえ……」
「そういう子なんです」
彼女はそう言って微笑む。どこか誇らしげな表情だ。
「真面目で努力家。そういう意味では、アリシアさんと似てるかもしれませんね。まだ少しお話しただけですから、はっきりとは言えませんけど」
ああ……
俺はすぐに納得したのに、返事ができなかった。
多分、変な顔をしたのだろう。マリアはやや戸惑った表情を見せて尋ねてくる。
「……どうかしました?」
「いや」
咄嗟に軽く返事をして、右手を挙げる。部屋に戻るというサインのつもりだった。マリアは怪訝そうに首を傾げたものの、特に呼び止めはしなかった。
ところが、そうでもなかった。
「あ、ちょっと待って下さい」
扉が閉まる寸前に、マリアがそう言って駆け寄ってくる。そして、ドアの隙間に微笑んだ顔を近付けると、小声で尋ねてきた。
「この間の続き、聞いて貰ってもいいですか?」
「へ?」
何のことだろうかと、記憶を探ろうとしたが、その前にマリアが機敏に後を続けた。
「ヴェスタが寝付いた後に伺います」
そう言うなり、彼女は足早に妹の背中を追っていってしまった。
何だろう。
いったい何の話かと思ったが、そこでようやく思い出せた。
そう。
そうだ。
御礼がどうとか言ってた日の……
そんなこと、別にいいのにとは思ったが、しかし、わざわざ断りに行くのが、どうしても億劫だった。
結局、何も言わないまま扉を閉めて、ベッドの上に倒れ込んだ。




