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魔蝕の血~幻月~  作者: 倉元裕紀
第6章 決意
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 ひとまず、ジェレイドと共に俺の寝室まで戻った。そして、扉を閉めてから、いつかみたいにその両端に背中をもたれさせる。こうしておけば、誰かが聞き耳を立てに寄ってきたらすぐに分かるはずだ。


「一応断っておくが、私と幻月はそれほど親しいわけではない」


 よく抑えられた声でジェレイドがそう言った。横目で顔を窺ってみるが、彼はただ前をじっと見つめているだけだった。


「しかし、敢えて言うなら、私は彼女のことが好きだ。これは、魔族のほぼ全員が同じだと言っていい。そして、もちろん、彼女と同じ時を過ごした全ての人間も」


 それはきっとそうだろう。誰だって、彼女の容姿には息をのむ。そして、少し付き合えば、それ以上に美しい彼女の精神に気付かされる。嫌いになれるわけがない。


「ただ──」


 魔王は一度言葉を切ると、僅かにこちらを向いた。こちらの顔よりも少し上を見ているような、微妙な視線だった。


「私達はある意味で、彼女を諦めてしまった」

「……諦めた?」

「君なら、逃げたと言うところかもしれないな」


 ああ。

 なるほど。

 そうか。

 そういうことか……

 彼はもうこちらを見ていなかった。真っ黒なシャンデリアを、そのさらに奥を、遠く見つめている。


「彼女は常に前向きで、決して努力を惜しまない。その生き方を片時も崩さずに、1000年以上生きてきた。だから、彼女は誰よりも強く、頭が良く、そして綺麗だ。彼女のあの美しさは、人類には計り知れないほど多くの努力を積み重ねてきた結晶だ。彼女は常に、生きるとは何か、美しさとは何かと自問しながら、それを糧にしながら生きてきたのだ。しかし、それが逆に──」


 魔王はその先を言わなかったが、もちろん俺には理解できた。

 彼女は。

 高く、強くなりすぎた。

 だから。

 まさに夜空に浮かぶ月のように。

 ひとりになってしまったのだ。


「彼女の隣にいると、誰もがその偉大さに気付く。しかし、それが同時に、自分がいかにちっぽけな存在かということにも気付かせてしまう。彼女は、自分にないものを全て持っている。それを全て惜しみなく与えてくれる。だが、その恩に報いたい、こちらが何か与えたいと思った時、その偉大さが絶望に変わる。彼女に与えられるものが何もない。自分は、彼女が喜ぶものを何も持っていない。いくら隣にいても、いつまでも与えて貰うだけ。いくら強くなっても、結局は彼女の力を分け与えて貰っているだけ。そして、最後には──」


 ジェレイドは息を吐く。

 いつかと同じように、寂しげに。


「──最後には、自分が彼女の中から出られないことに気付く。あまりにも彼女が遠すぎて、この先一生をかけても、彼女に手が届かないことに気付く。特に、人間はそうだ。彼女が積み重ねてきたものに対して、人間の一生はあまりにも短い。彼女の為に何かしたいと願っても、その前に力尽きてしまうのが分かる。この先ずっと一緒にいても、結局彼女に何もしてやれないのが分かってしまう」

「……だが、魔王ならどうなんだ?」


 同じ魔王なら、同じく長い一生のある魔王なら、彼女と添い遂げてあげられるのではという、ごく当たり前の推論。

 しかし、その答えがイエスなら、それはつまり──

 人間である自分には、その資格がないということになる。


「詳しい話はできないが……」


 ところが、白衣の魔王はこちらを見ないまま首を振った。


「幻月は、魔王の中でも特別な存在だ。そうだな……、格が違うとでも言っておこうか。あいにく、他の魔王は、私を含めて、彼女の隣にいる資格はない。結局のところ、人間と同じだ。私もまた、彼女に憧れ、そして彼女から逃げた者のひとり。今ではこうやって、たまに会って話をするだけ。そして、ほんの少しだけ、あの笑顔を向けて貰うために、何かできることを手伝うだけだ」


 そこで話が途切れた。

 彼女はただ、自分らしく生きようとした。

 俺に教えてくれたように、ただ真っ直ぐ前を見て進んだだけだ。

 でも、ただそれだけなのに。

 気付いたら、周りに誰もいなかった。

 それどころか。

 触れようとすると、傷つけてしまう。

 手を差し伸べた人間は、こちらに手を伸ばそうとして、皆届かずに墜ちていってしまう。

 何か。

 何か──

 寂しい。

 本当に、夜空にただひとりで浮かぶ月のようだ。他の小さな星とは段違いに輝く夜の女王。

 結局、月はひとり。

 同じ仲間は、どこにもいない。


「あいつは──」


 俺が見据えると、ジェレイドは一瞬だけこちらを横目で見た。


「アリシアは、どうして、俺を拾ってくれたんだ?」


 そうだ。

 どうせいつかは離れていってしまうと分かっているのに。

 何故、死に損ないの人間なんか助けたのか。

 すると、珍しく、ジェレイドは少しだけ微笑んだ。


「それが幻月だからだ」

「え?」

「どうせ傷つくと分かっていても、どうせ報われないと分かっていても、彼女は自分の心を曲げない。だから、今手を差し伸べるべきだと思えばそうするし、相手が自分を愛してくれていると思えば、それに応えようとする。彼女はそういう女性だ。だからこそ、彼女はいつも美しい」


 それは、確かにそうかもしれない。

 だけど。

 だからって、そんな生き方は──


「彼女の心を覗けたとすれば、そこにはきっと無数の傷が残っているだろう」


 いつの間にか、ジェレイドはじっとこちらを見つめていた。


「幻月は決して自分の心に嘘をつかない。彼女の心には、今まで同じ時を過ごして、そして無力さを知って去っていた男達の姿が、幾重にも刻まれているはずだ。これが人間だったら、100年に満たない寿命が設定されていたなら、ただの悲恋で片付いたかもしれない。だが、彼女は魔王だ。恐らくは、この先1000年も2000年も、その傷は残る。たとえ、今ここで君が死んだとしても、その傷は必ず残る。しかし、それでも彼女は生き方を変えない。それがつまり、彼女なりの愛だ。その傷を背負うことで、自分が本当に彼らを愛していたという証を示そうとしている。彼らは報われなかったかもしれないが、それでも、過ごしたあの時間は偽物じゃないと、そう言って慰めているのかもしれないな」


 何というか──

 本当に。

 本当に、優しいじゃないか。

 好きだ。

 大好きだ。

 でも。

 そんな彼女の運命に対して、俺に何ができるというのか。

 俺に彼女の生き方が変えられるのか。今までのことは全て忘れて、もっと自堕落に生きろと言えるのか。

 だけど、もしそれができても。

 それはもう、彼女じゃない。

 それに、俺が責任とってやると胸を張ったところで。

 俺は人間なのだから。

 どうやったって、先に死んでしまうのだから。

 その後。

 俺が死んだ後、彼女はどうなる。

 泣く。

 泣くんだ。

 俺がいなくなったら、彼女はきっと泣く。

 今までだって、きっとそうだ。

 傍にいた人間が死んだ時、きっと彼女は泣いた。

 泣いて。

 泣いて。

 だから、あんなに。

 優しい。

 なのに。

 これからも、ずっと泣くのか。

 あんなに優しいのに。

 ずっと泣き続けるのか。

 何だ。

 何だよ。

 酷い。

 酷いだろ。

 誰がそんなルールを決めたんだ。

 誰が彼女を魔王にした。

 とんでもないろくでなしだ。

 だけど。

 だけど──

 一番ろくでなしなのは、そんな大好きな彼女に何もしてやれないどころか、逃げようとしている自分か。

 でも、仕方はない。

 本当に何もしてやれないのだから。

 クズだ。

 クズなのだから。


「──何で、俺にそんな話をしたんだ?」


 最後にジェレイドにそう尋ねたが、返事はなかった。ただシャンデリアの光沢を見通すようにしてから、無言のまま、扉を開けて出て行った。

 何だ。

 何だよ。

 無力だ。

 揃いも揃って、役立たずばかりだ。



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