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ひとまず、ジェレイドと共に俺の寝室まで戻った。そして、扉を閉めてから、いつかみたいにその両端に背中をもたれさせる。こうしておけば、誰かが聞き耳を立てに寄ってきたらすぐに分かるはずだ。
「一応断っておくが、私と幻月はそれほど親しいわけではない」
よく抑えられた声でジェレイドがそう言った。横目で顔を窺ってみるが、彼はただ前をじっと見つめているだけだった。
「しかし、敢えて言うなら、私は彼女のことが好きだ。これは、魔族のほぼ全員が同じだと言っていい。そして、もちろん、彼女と同じ時を過ごした全ての人間も」
それはきっとそうだろう。誰だって、彼女の容姿には息をのむ。そして、少し付き合えば、それ以上に美しい彼女の精神に気付かされる。嫌いになれるわけがない。
「ただ──」
魔王は一度言葉を切ると、僅かにこちらを向いた。こちらの顔よりも少し上を見ているような、微妙な視線だった。
「私達はある意味で、彼女を諦めてしまった」
「……諦めた?」
「君なら、逃げたと言うところかもしれないな」
ああ。
なるほど。
そうか。
そういうことか……
彼はもうこちらを見ていなかった。真っ黒なシャンデリアを、そのさらに奥を、遠く見つめている。
「彼女は常に前向きで、決して努力を惜しまない。その生き方を片時も崩さずに、1000年以上生きてきた。だから、彼女は誰よりも強く、頭が良く、そして綺麗だ。彼女のあの美しさは、人類には計り知れないほど多くの努力を積み重ねてきた結晶だ。彼女は常に、生きるとは何か、美しさとは何かと自問しながら、それを糧にしながら生きてきたのだ。しかし、それが逆に──」
魔王はその先を言わなかったが、もちろん俺には理解できた。
彼女は。
高く、強くなりすぎた。
だから。
まさに夜空に浮かぶ月のように。
ひとりになってしまったのだ。
「彼女の隣にいると、誰もがその偉大さに気付く。しかし、それが同時に、自分がいかにちっぽけな存在かということにも気付かせてしまう。彼女は、自分にないものを全て持っている。それを全て惜しみなく与えてくれる。だが、その恩に報いたい、こちらが何か与えたいと思った時、その偉大さが絶望に変わる。彼女に与えられるものが何もない。自分は、彼女が喜ぶものを何も持っていない。いくら隣にいても、いつまでも与えて貰うだけ。いくら強くなっても、結局は彼女の力を分け与えて貰っているだけ。そして、最後には──」
ジェレイドは息を吐く。
いつかと同じように、寂しげに。
「──最後には、自分が彼女の中から出られないことに気付く。あまりにも彼女が遠すぎて、この先一生をかけても、彼女に手が届かないことに気付く。特に、人間はそうだ。彼女が積み重ねてきたものに対して、人間の一生はあまりにも短い。彼女の為に何かしたいと願っても、その前に力尽きてしまうのが分かる。この先ずっと一緒にいても、結局彼女に何もしてやれないのが分かってしまう」
「……だが、魔王ならどうなんだ?」
同じ魔王なら、同じく長い一生のある魔王なら、彼女と添い遂げてあげられるのではという、ごく当たり前の推論。
しかし、その答えがイエスなら、それはつまり──
人間である自分には、その資格がないということになる。
「詳しい話はできないが……」
ところが、白衣の魔王はこちらを見ないまま首を振った。
「幻月は、魔王の中でも特別な存在だ。そうだな……、格が違うとでも言っておこうか。あいにく、他の魔王は、私を含めて、彼女の隣にいる資格はない。結局のところ、人間と同じだ。私もまた、彼女に憧れ、そして彼女から逃げた者のひとり。今ではこうやって、たまに会って話をするだけ。そして、ほんの少しだけ、あの笑顔を向けて貰うために、何かできることを手伝うだけだ」
そこで話が途切れた。
彼女はただ、自分らしく生きようとした。
俺に教えてくれたように、ただ真っ直ぐ前を見て進んだだけだ。
でも、ただそれだけなのに。
気付いたら、周りに誰もいなかった。
それどころか。
触れようとすると、傷つけてしまう。
手を差し伸べた人間は、こちらに手を伸ばそうとして、皆届かずに墜ちていってしまう。
何か。
何か──
寂しい。
本当に、夜空にただひとりで浮かぶ月のようだ。他の小さな星とは段違いに輝く夜の女王。
結局、月はひとり。
同じ仲間は、どこにもいない。
「あいつは──」
俺が見据えると、ジェレイドは一瞬だけこちらを横目で見た。
「アリシアは、どうして、俺を拾ってくれたんだ?」
そうだ。
どうせいつかは離れていってしまうと分かっているのに。
何故、死に損ないの人間なんか助けたのか。
すると、珍しく、ジェレイドは少しだけ微笑んだ。
「それが幻月だからだ」
「え?」
「どうせ傷つくと分かっていても、どうせ報われないと分かっていても、彼女は自分の心を曲げない。だから、今手を差し伸べるべきだと思えばそうするし、相手が自分を愛してくれていると思えば、それに応えようとする。彼女はそういう女性だ。だからこそ、彼女はいつも美しい」
それは、確かにそうかもしれない。
だけど。
だからって、そんな生き方は──
「彼女の心を覗けたとすれば、そこにはきっと無数の傷が残っているだろう」
いつの間にか、ジェレイドはじっとこちらを見つめていた。
「幻月は決して自分の心に嘘をつかない。彼女の心には、今まで同じ時を過ごして、そして無力さを知って去っていた男達の姿が、幾重にも刻まれているはずだ。これが人間だったら、100年に満たない寿命が設定されていたなら、ただの悲恋で片付いたかもしれない。だが、彼女は魔王だ。恐らくは、この先1000年も2000年も、その傷は残る。たとえ、今ここで君が死んだとしても、その傷は必ず残る。しかし、それでも彼女は生き方を変えない。それがつまり、彼女なりの愛だ。その傷を背負うことで、自分が本当に彼らを愛していたという証を示そうとしている。彼らは報われなかったかもしれないが、それでも、過ごしたあの時間は偽物じゃないと、そう言って慰めているのかもしれないな」
何というか──
本当に。
本当に、優しいじゃないか。
好きだ。
大好きだ。
でも。
そんな彼女の運命に対して、俺に何ができるというのか。
俺に彼女の生き方が変えられるのか。今までのことは全て忘れて、もっと自堕落に生きろと言えるのか。
だけど、もしそれができても。
それはもう、彼女じゃない。
それに、俺が責任とってやると胸を張ったところで。
俺は人間なのだから。
どうやったって、先に死んでしまうのだから。
その後。
俺が死んだ後、彼女はどうなる。
泣く。
泣くんだ。
俺がいなくなったら、彼女はきっと泣く。
今までだって、きっとそうだ。
傍にいた人間が死んだ時、きっと彼女は泣いた。
泣いて。
泣いて。
だから、あんなに。
優しい。
なのに。
これからも、ずっと泣くのか。
あんなに優しいのに。
ずっと泣き続けるのか。
何だ。
何だよ。
酷い。
酷いだろ。
誰がそんなルールを決めたんだ。
誰が彼女を魔王にした。
とんでもないろくでなしだ。
だけど。
だけど──
一番ろくでなしなのは、そんな大好きな彼女に何もしてやれないどころか、逃げようとしている自分か。
でも、仕方はない。
本当に何もしてやれないのだから。
クズだ。
クズなのだから。
「──何で、俺にそんな話をしたんだ?」
最後にジェレイドにそう尋ねたが、返事はなかった。ただシャンデリアの光沢を見通すようにしてから、無言のまま、扉を開けて出て行った。
何だ。
何だよ。
無力だ。
揃いも揃って、役立たずばかりだ。




