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あの夢を見た晩は、結局眠れなかった。その翌日も次の日も、眠れない日が続いた。また同じ夢を見るのが嫌で、体が拒否していたのかもしれない。そんな抵抗をしたって、いつまでも寝ないわけにはいかないわけだから無駄なのに、なんとも情けない話だ。悪夢を恐れて眠れなくなるなんて、まさに子供だ。
しかし、それとは対照的に、魔獣達との訓練は順調に進んだ。体を動かしている間は、何もかも忘れられるからかもしれない。ほとんど無駄口も叩かずに、一心不乱に訓練に打ち込んだ。
そして、そう──
なんとなくだが、アリシアとの会話が減っていた。
彼女は相変わらず、俺の為に魔獣達をコントロールする役目を続けてくれている。いつも同じ場所に腰を下ろして、博愛の笑みでその黒い体躯を愛でている。
だけど、こちらにはあまり微笑まなくなった。
もしかして、気付いているのだろうか。
それとも、俺が彼女を見なくなったせいか。
もっとも、問題はそんなところにはない。結局、俺が彼女を恐れていることが問題だ。
本当に。
本当に、情けないと思う。
あれだけ世話になった人を、あれだけ大事だと思えた人を、その本質見つめすぎた故に、怖がるようになるなんて。
最低だ。
そして。
あまりにも、弱い。
自分の弱さが、あまりにも恨めしい。
彼女の強さが、あまりにも遠すぎる。
ところが、そんなある日。
俺が洗面所で顔を洗い、外へ出ると、同じ白いブラウスに黒のスカートという服装のふたり組にばったり出会した。思えば、一緒に歩いているふたりを見たのは、この時が初めてだった。
マリアとヴェスタだ。
そして、小柄な少女、ヴェスタの方は、俺を見るなり、怯えたように、マリアの腰にぎゅっと抱きつく。マリアはそんな彼女に困ったような笑みを浮かべながらも、こちらに頭を下げた。
「シドさん。おはようございます」
「ああ。おはよう」
実のところ、一日中太陽が見えないこの場所では、おはようもこんばんはもない。実際、マリアの左手にはランプが握られているわけで、周囲は宵闇の雰囲気だ。しかし、彼女たちはここに来てまだ数日なので、体が昼夜のリズムを覚えているのかもしれない。
それはそれとして、俺はヴェスタに視線を下ろす。まだ12、3歳くらいか。威嚇するというよりは、警戒するような表情。小動物が怯えているようにも見える。髪や瞳や肌の色は確かにマリアそっくりだが、顔立ちはあまり似ているようには見えない。柔和でどこかおっとりした雰囲気のマリアに対して、ヴェスタは手足が細く、どちらかというと厳しそうな印象。目元の違いが大きいのかもしれない。
そんな妹に、マリアは優しく話しかけた。
「この人がシドさん。ほら、挨拶してあげて」
ヴェスタはまだ、恐れ半分、疑念半分といった視線をこちらに向けていたが、やがて蚊の鳴くような小さな声で呟いた。
「……こんにちは」
子供というのは、どうもやりづらい。昔から、だいたい逃げ回られることの方が多かった。多分、人相の問題だとは思うが。
「では、シドさん、失礼しますね」
「ああ」
そんな簡単な挨拶だけ交わして、姉妹は横を通り抜けていった。相変わらず、ヴェスタはマリアの腰に抱きついたまま。相当に歩きにくそうだが、マリアは文句を言うどころか、優しく話しかけていた。
しかし、意外だ。
あの子が、果敢に魔狩の男達を打ち倒したという少女なのか。
もっと活発で強気な人格に違いないと、勝手に思い込んでいたのだが。
だけど、あんな目に遭ったのだから、仕方がないのかもしれない、
その姿が洗面所のひとつに消えるのを見届けながら、俺はそんなことを考えていた。そのせいとは言わないが、その反対側からやってきていた白衣の男に、不覚にも背後をとられてしまった。
「若干、退行が見られるな」
「うおっ!?」
案山子のように片足でジャンプした俺を、眼鏡の奥の薄い視線が淡々と見下ろしていた。
「……何だよ?」
「いや、君もそういうリアクションをするんだなと思ってな」
「だから何だ?」
「ついこの間、街中で見かけた芸人のギャグに似ている」
「……悪かったな」
馬鹿にされているのか、或いは別の意図があるのか、どうも分かりづらい。しかし、恐らく考えたところで有意な答えは得られないに違いないので、俺はさっさと思考を切り替えた。
「タイコウとか言ってたな?」
「うむ。ストレスなどの影響で、精神が幼児期などに逆戻りする。一種の防衛本能のようなものだと思って貰えればいい」
「ああ……、なるほどな」
どうやら、あのヴェスタという子の話らしい。そういうことなら、確かに納得だ。
「それで、周りはどうしてやるのがいい?」
「特別なことは必要ない。彼女のように見守るのが一番だ。ただ、君はあまり姿を見せてやらない方がいい」
「そうなのか?」
「体の一部が欠損している人間というのは、彼女にとって、それだけでストレスだ」
一瞬、意味が分かりかねたが、すぐに頷く。
なるほど。
彼女もまた、俺と同じ目に遭っている。両手両足を潰されるという、悲惨な目に。
それを思い起こさせるようなものは見せない方がいいと、そういうことらしい。
思ったよりもまともな意見だったので、ほんの少しだけ、この眼鏡の魔王を見直した。こいつもたまにはこういうことを言えるらしい。
もちろん、それはそれで結構なことだ。
「……じゃあ、あんたもまだ帰れないな」
「うむ。そうだな」
ヴェスタが落ち着いたらここを去るということだったが、そういうことでは、まだ完治とは言えないのだろう。いずれにしても、俺があの壊し屋を倒さなければ、こっそり出て行くのも難しいだろうが。
「ま、後でな」
軽く右手を挙げて、彼の横を通り抜ける。ここで長話しても仕方ないし、そもそも、こいつとはそんな仲でもない。
ところが。
「待て」
意外なことに、ジェレイドに呼び止められた。
多少戸惑いながら振り返ると、いつもの薄い視線がこちらを見据えていた。
「……どうした?」
「話をしないか?」
また意外な提案だ。
少し鼻で笑いながら聞き返してやる。
「何の話だ?」
すると。
その男はあっさりと告げた。
「幻月の話だ」
さすがに、すぐに返事ができなかった。
「私が気付いているのだから、彼女が気付いていないわけがない」
彼はいともあっさりとそう告げた。
最初は腹が立った。
こんな場所で言うことじゃない。誰か聞いていたらどうする。特に、アリシアが聞いていたらどうしてくれるんだと思った。
でも。
その後にやってきたのは、諦めの溜息だった。
そう。
そうか。
やっぱり、彼女は知っていた。
俺が。
俺が、彼女を恐れていることを。




