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結局、大した成果も得られないまま、訓練はお開きとなった。傍目から見れば、魔獣とじゃれていただけに見えたかもしれない。ただし、それで楽しかったのは、気の済むまで幻月の魔王様に撫でて貰えた魔獣達の方だけで、こちらは全身を引っかき回されて傷だらけになっていた。そのお陰で、見た目だけは歴戦の猛者にランクアップしていたかもしれないが。
ただ、居住区に戻ってシャワーを浴びた後、アリシアが包帯を巻いてくれた。
「貴方って、本当に丈夫よね」
「内心、俺も、よく生きてるなと思うことがたまにある」
「だからって、無理はしないこと」
「へいへい」
狭い脱衣所の中で、そんな他愛もない会話をした。これはこれで、訓練の褒美として十分かもしれないなと、ふと思った。
それからすぐに部屋に戻った。相変わらずの魔王チックな部屋だが、今日もすぐに眠れるに違いない。しかし、頭のどこかが醒めてしまっているのか、意外にも、横になってもなかなか寝付けなかった。
そんな時、ドアがノックされた。
「ああ」
適当に返事をする。きっとアリシアだろうと勝手に思い込んでたため、聞こえてきた声に驚かされた。
「あの、私です」
マリアだ。
やや間が合ってから跳ね起き、扉を開けた。すると、やはり想像通りの、凛とした艶やかな女性がそこに立っていた。
女性らしい白のブラウスと理知的な黒のスカート。長い髪を後ろで束ねていて、柔和だが芯の強そうな顔立ち。あの監獄で見た時の印象とはかなり違っていて、なんとなく、都会の役所の受付や、銀行の窓口を思わせる雰囲気だった。写真でしか見たことがないのだが。
彼女はこちらの顔を見るなり、何故か慌てて頭を下げた。
「ごめんなさい。もうお休みかもしれないとは思ったんですけど」
「いや、それは別にいいんだが」
何の用事なのかと視線で尋ねると、彼女は、普段通りの口調でその言葉を告げた。
「あの、お部屋にお邪魔してもいいですか?」
「……へ?」
思わず馬鹿みたいな声が出たが、しかし、すぐに背後を振り返って誤魔化した。
ついでに、自分の部屋をよく観察してみる。当然ながら、悪趣味なオブジェが並ぶ地獄の内装に変化はない。勝手に変化していたら、それはそれで怖いものがあるが、マリアが持っている明かりのせいで、陰になった魔獣達の首が、そのおどろおどろしい雰囲気を助長させている気がした。
「ええと……」
もう一度振り返って、いたって平静なままのマリアの黒い瞳を見据える。
「ここじゃないと駄目か?」
「はい。できれば」
「あんたの部屋は?」
「私の部屋は。ヴェスタが寝ているのでちょっと……、他の部屋でもいいですけど、でも、なるべく誰にも聞かれない場所の方が」
どうやら、人に聞かれたくない話をしたいらしい。そう言われると、他の場所は共用スペースばかりだから、いつ誰が来てもおかしくない。特に、アリシアはともかく、ジェレイドは何の悪気もなく聞き耳を立ててきそうだ。従って、この部屋を希望するマリアの意図も分からないでもなかった。
まあ、いいか。
あまり深く考えるのも面倒なので、入れることにした。
ただ、一応忠告しておく。
「言っとくが、この部屋には何もないから、お茶も出せない」
「いえ、そんな、お構いなく」
「あと、間違っても悲鳴をあげるなよ」
「え?」
彼女の戸惑いの表情は、部屋に足を踏み入れてすぐに、唖然、或いは呆然の色に変わった。漆黒のシャンデリアや、魔獣の首の剥製や、人間大の水晶ドクロなどを見れば、まあ、そうなるのが妥当だろう。
その上、そんな余計な物は山ほどあるのに、椅子やテーブルがないことに気付き、今更ながら呆れた。ここの元の持ち主は、本当にどういう神経をしてたんだろうか。
仕方がないので、ふたり揃って、ベッドの上に座った。こちらが胡座で、マリアが正座。そうやって向かい合うと、どういうわけか気恥ずかしい。
「で、何の話だ?」
そうやって話を切り出すと、周りをキョロキョロ興味深げに眺めていたマリアがこちらを向いた。その脇に持参したランプが置いてあるので、顔が少し陰になっていた。
「はい。あの、まずは御礼を言わせて下さい」
「御礼?」
「私とヴェスタを助けて頂いた御礼です」
そう言うなり、彼女は正座のまま改まって、綺麗に頭を下げた。何か、作法という言葉を連想させる、上品な仕草だ。
「ありがとうございました。この御恩は、一生忘れません」
「ちょっと待て」
俺がそう告げても、彼女は顔を上げない。頭を垂れた姿勢のまま、ピクリとも動かなかった。
はっきり言って、もの凄く困った。
居心地が悪い。
何で。
何でだろう。
視線を逸らして頭を掻いてから、薄いヴェールの向こうにある剥製の紅い瞳と目が合う。どういうわけか、それで少し落ち着いてきて、もう一度彼女を見下ろすことができた。
「……ええと、とにかく、顔を上げてくれないか」
「はい」
その一言で彼女は頭を上げて、やや前傾姿勢でこちらを見つめた。
そうかと、ふと気付く。はっきり言わないと分かって貰えない人なのかもしれない。
そんなわけで、はっきり言うことにした。
「俺は別に、あんた達を助けたわけじゃない」
マリアの黒い瞳は微動だにしない。やや重苦しいと思えるほどの、真摯な視線だった。
「俺はただ、自分のしたいようにしただけで、あんたを助けてやろうって気は、まあ、ないこともなかったが、それは血を貰った借りを返したかっただけだ。あんたの妹にしたって、結局、俺ひとりじゃ何もできなかった。そういう意味じゃ、礼なら、あの眼鏡白衣に言ってやったらどうだ?」
礼はいいから、体の型をとらせろと要求されるかもしれないと、ほんの少しだけ思った。しかし、妹の命の代価だと思えば、それくらい安いものかもしれないと思って誤魔化す。
「実は、もう言いました」
すると、マリアは不意ににっこり微笑んでそう言った。
「ですけど、ジェイドさんには、今のシドさんと同じ様なことを言われました。自分の好きでやったことだから、気にしなくていいと」
「……そうか」
それはそれで、微妙に面白くない事実だ。あの男と自分の思考が似ているということか。これからはなるべく気をつけようと、こっそり誓う。
「アリシアさんは、シドさんの意向に従ったまで、というようなお返事でした。御礼を言うならシドさんに、だそうです」
多少意外だが、なんとなく、彼女が言いそうなことではある。或いは単に、面倒臭かっただけかもしれないが。
「ですから、アリシアさんの分まで、御礼を言わせて下さい」
「いや。だから、いいって別に。とにかく、俺は、礼を言われるような立場じゃない。俺は好き放題やってただけなんだから」
「それでも、そのお陰で私達が助かったのは事実です」
「だから、それはたまたま運が良かっただけだって。アリシアには、何か別の考えがあったかも──」
何か。
そこで、何かが背筋を撫でていったような気がした。
あまりにも速すぎて、捉えようもなかったが。
ただ。
これは──
何だ?
悪寒?
恐怖?
いや。
もっと深い。
これは。
何だ──?
「あの──」
気付くと、変わらない前傾姿勢のまま、彼女が怪訝な顔をしていた。
咄嗟に返事をしようとする。
ところが。
ああ、か。
それとも、大丈夫、だったか。
いずれにしても、その言葉が声にならなかった。ただ、口が当てもなくパクパクと動いただけだった。
そこまで動揺していた自分に、俺自身が一番驚いた。
「大丈夫ですか?」
「……ああ」
咳払いしてから、発声機構の試運転をするように、慎重に答える。声っていうのは、こうやって出すものだったかと、確かめている自分がいた。
きょとんと瞳を瞬かせたマリアだったが、すぐに何かに気付いたように口元に手を当てると、そのまま背筋を伸ばし、早口で告げた。
「あ……、そうですよね。確か、何か訓練なさっていたとかで、お疲れですよね」
「へ? あ、いや──」
そんなことはないと答えようとしたが、自分の中の誰かがそれを止めた。そうこうしているうちに、彼女は傍らのランプを持ち上げて、ベッドから下りた。そして、その場で綺麗にお辞儀する。
「続きはまた今度、日を改めて伺います。あ、でも、あとひとつだけ。ヴェスタの心がまだ少し不安定なので、その、それが落ち着くまでは──」
「ああ、ここにいればいい」
その言葉に対しては、すぐに頷くことができた。それは考えるまでもないことだ。
「どうせ、あの連中が彷徨いているうちは、あんた達だけ帰すわけにもいかない。もうしばらくのうちに、奴とは決着をつける。それが待てないなら、何か作戦を立てて出してやってもいい」
「いえ、置いていただけるだけで充分です」
彼女は微笑んで、またお辞儀した。
「では、お時間をとらせてごめんなさい。ゆっくりお休みになって下さいね」
「ああ」
マリアは部屋から出た後にもう一度微笑んで、それから扉を閉めた。耳を澄ませると、非常に抑えられた足音が微かに聞こえる。もしかしたら、寝ているという妹を起こさないように気を使っているのかもしれない。
こちらも、寝よう。
胡座の状態から後ろに倒れ込んで、ベッドに仰向けになる。そのまま目を閉じて、眠る準備に入った。
結局、マリアは何を言いに来たのか──
そう。
そうだ。
御礼だ。
そんなことを言われたのは、生まれて初めてかもしれない。理不尽なことで礼を言えと要求されたことなら山ほどあるが。
だけど、そう──
意外に悪いものじゃない。少しくらいは、嬉しかったのかもしれない。
いずれにしても、よかった。
満足だ。
今度は、そのまますっきり眠ってしまえそうだった。
他に何か大事なことを忘れている気がしたが、その時にはどうしても思い出せないまま、意識は闇に沈んだ。




